明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



『週刊プレイボーイ』AIグラビアに参入。実在しない美女が紙面に掲載。だそうだが、当然であろう。インスグラムではとっくにその類いを目にしていた。寺山修司は〝どんな鳥も想像力より高くは飛べないだろう”といった。実在の美女より高みに到達した美女も登場するだろう。美女など序の口であり、事物、風景と拡がることだろう。 まことをを写すという意味の写真という言葉を蛇蝎の如く嫌い続けた〝本当のことなどどうでも良い派”の私は諸手を挙げて歓迎したい。 工芸学校の学生時代、カメラマン志望の友人とケンカになり、私のような雑な人間が陶芸家なんかになれるか、というので「お前が撮ったあの山はお前が雄大にした訳ではないし、あの娘だってお前が可愛いくした訳じゃないだろう!」と売り言葉に買い言葉だったが、友人の予言の的確さだけが随分前に証明されてしまっていたが、いよいよ、まことを写す写真という言葉が、吐いた唾を飲むことになるだろう。 それは立体にも及ぶはずで、昔生き人形展を観に行ったが、神が宿るといわれる細部にこだわるあまり何処か届かず、リアルな死体を散見したが、AIならそここそカバーするだろう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




母が転院後も食欲がない、というので、甘酒など差し入れに行く。痩せて合わなくなった入れ歯を直してもらうことにした。 私の場合、作りたくなると、すぐに齧り付いてしまう所がある。作りたい顔だ、とか面白いエピソードだ、と思ってしまうとまず齧り付いてしまって、作りながら図書館に寄ってみたり、検索したりして、齧り付いた人物の正体が、その後に明らかになって来て焦り出したり。もっとも、だから困っている訳ではない。1人の人間を理解してから作ろうなんて言っていたら作ることは出来ない。今週こそ、無学祖元を作り始めたい。 先日フェイスブックとインスタにアップした、初代猿之助、二代目段四郎の色紙だが、師の九代目團十郎は書画、達者だったが、それと比べると下手ではあるけれど、描かれたのが澤瀉屋の屋号、オモダカと知ると貴重に見えて来た。生家が副業として薬草の澤瀉を扱う薬屋を商っていたかことに由来するそうで、こちらにもアップする。

 

 


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




私が参考にした大覚禅師(蘭渓道隆)の肖像画のすぐれた写実性は、宗画の〝観照法”に基づくもので、禅宗興隆期におけるもっともすぐれた彫像の一つ、だそうである。頂相彫刻の最高峰といわれる無学祖元にしても、よりによってまたえらい作品をモチーフにしてしまったものだが、京都より鎌倉が先だし、鎌倉五山の第一位の建長寺と第二位の円覚寺のそれぞれ開山であるから当然といえばそうなのだが、どうせなら完成した頃に知りたいものである。下手に図書館など立ち寄るものではない。 観照法とは何か?仏教用語から転じて主観を交えず冷静に現実を見つめることらしい。これはまさに絵画的写真、ピクトリアリズムを古くさい年寄りのサロン的写真と断じ、写真はカメラという機械を使って冷徹に撮る物、という新即物主義写真作家のセリフのようである。ただカメラという機械を使わない七百数十年前の肖像画には〝主観を交えず冷静になって現実を見つめよう、という念が濃厚に塗り込められている。

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日、込めるという意味では写真は絵画には及ばないと思われ、大正時代のビクトリアリズム作家は、絵画的手法でそれを乗り越えようとした、と書いたが、自分であらかじめ込めた作品を被写体にすれば、自動的に自分を込めた写真作品になるだろう、というのが、当時の私の試みだった。それに何より、大正時代より、自分で制作した人物像をモチーフにしたピクトリアリズム作家はいなかったし。しかしながら、当時はそんな思いが伝わることはなく、まさに一人相撲の様相であった。ニジンスキーをモチーフにしたり快楽は充分味わえたが。 オイルプリント初披露の頃、来廊者の目に明かりが灯らず、これは一体何ですか?に一日中同じことを答えたていたのが思い出される。そこで技法公開のため、2000年にホームページを立ち上げたのだが、その前年に購入したパソコンで、すでにフォトショップを導入し、初披露の時には、合成や、印刷フィルムによるデジタルネガによる作品をすでに試みていた。最後にそれまでの作品をオイル化して終わるものと考えていたが、その先があり、それに伴い、扱うモチーフに変化をもたらせた



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




幼い頃から人間がもっとも興味深く、長年作っていると、陰影のない平面的な東洋画の頬骨や額の凹凸が見える。朝ドラの牧野某ではないが、描けるのは人間だけだが。長く写真を参考に人物を制作して来たが、対象の人物の精神性を記録し、弟子、後世に伝えるという宗教的な目的なので当然ともいえるが、込めるという意味では、写真が絵画を超えることは出来ない、とつくづく感じている。かつてのピクトリアリズム、絵画主義写真を手掛けていた大正時代のアマチュア作家が、何とかそこを乗り越えようとして奮闘したのだ、と改めて。しかし結局カメラという機械により現実を写し取る、即物主義の台頭により廃れて行ったが、絵画と写真は役割が違う、と歴史上、はっきり結果が出たということであろう。 ロシア、ウクライナのAIによるフェイク画像により株価に影響が出ているという。まことを写すという意味の写真が、吐いた唾を飲まされているかのような話である。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




鎌倉建長寺の開山蘭渓道隆は日本に禅が定着していないと知り来日。昨日建長寺のHPを見ていて、うかつにも初めて見る蘭渓道隆像を見た。これもまたトップページの、一番有名な木像とも顔が違う。私は来日時に持って来たと言われる肖像画を立体化したのだが、それを正面から見ると、タレ目受け口、顎と似た所はある。禅僧の肖像彫刻すなわち頂相(ちんぞう)彫刻は生前に作られた寿像と没後作られる遺像がある。像の制作期間も、下手したら数百年の隔たりがあれば、顔が違うのも不思議ではない。関わりがあった京都建仁寺には江戸時代に作られた像があり、X線撮影により、破損した面の部分が内部に収まっていることが判り、それが七百年前に作られたものらしく、細い顎先に、頭頂部が尖っていないところが肖像画と共通である。生前描かれたであろう細面で顎が細く垂れ目の受け口な肖像画が、やはりもっとも実像を伝えている、と改めて確信した。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




午前中母、葛飾区のホームから江東区へ転院。コロナの後、ここ2年で急速にボンヤリして、感情の起伏が乏しくなった。職員を全員、一度はギョッとさせた「どちら様ですか?」という得意のボケたギャグもシャレにならなくなった。移動中、車内で出来るだけ話かけてみる。 出がけのニュースで猿之助が両親にビニール袋を被せたと聞き〝こりゃダメだ”と思ったが、母の生家は歌舞伎座から近く、聖路加病院の極近所で、米軍が爆撃しないとビラを撒き、町内に一発落ちただけであった。隣は風呂屋で、猿之助の誰かが通って来た、と昔聞いたことがあるな?と確かめてみると「お妾さんよ。」つまりスーパー歌舞伎の猿之助と今回亡くなった段四郎の父親の二代目猿之助だろう。アメリカでディアギレフのロシアバレエに影響を受けてなかなか実験的なことをやった人で、妾宅があったのだろう。 母は今ではボンヤリしてしまったが、父が亡くなった後も一人で仕事をしていたので、人付き合いは好きで、新しい環境も楽しくやってくれるだろう。大分痩せたが、入れ歯が合わないせいもあるかと、その点だけをお願いして来た。今度は我が家からも近い。食べ物も持って来て良いとのことなので、手製の糠漬けを毎回届けることにしよう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




まことを写す、という意味の写真は、今後AIの発達で、これはいかにAIと違うか、と作者が説明するハメに陥らないだろうか?だとしたら、まことを写すなんていってたからバチが当ったことになりはしないだろうか? 最近は写らない所は作らないことが多いが、今制作中の蘭渓道隆師と、蒙古兵に剣を向けられている無学祖元師は人形の展示も考えている。写らない所を作らない場合、ほんの数度も角度を変えられないほど作らない。視点を定めたままの制作、これが後に、一眼であるカメラで撮ってこそ生きる(展示は出来ない)立体の制作に繋がる。展示体数を増やすため『深川の人形作家 石塚公昭の世界』の時は会期中も控え室で後ろ側を作り足していたことがある。これは全く自慢出来ることではないのだが、独学者の私は、回転台の上の作品を作りながら、つい夢中になって前面だけ作ってしまい、我に返って、慌て後ろ側を作る、なんてことを、繰り返ししでかしていたせいで、前だけ作って、後ろを作って成り立ってしまえるという妙な芸が身についてしまった。 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




写真について何か書く時、どうしても、日本に恨みを抱き復讐するために帰って来た上田馬之助的ニュアンスが出てしまうが、まことを写すという意味の写真という言葉に抗い続けた行きがかり上、仕方がない。しかし今は、これはどうやって制作したのか、と一切質問を受けることない手法に至ったのは、個人的には一つの成果だと考えている。 モチーフを実在の作家から道釈画的な物になり、仙人まで手掛けられたのは陰影のない〝反写真的リアリズム”だからこそである。 作家の時は、残された肖像写真とは、あえて違う角度から撮る事が多かった。絵画にないメリットを生かすためだが、今回の手法でも、被写体が立体の利点を生かしてみようと考えている。蘭渓道隆師は国宝の肖像画から立体にしたが、七百数十年間、誰も正面像を見たことがないだろう。それも建長寺のホームページに載る重文の木像とは顔が違う所に意義もある。そう思うと蘭渓道隆師は様々な意味で、私が今まで得た物を全て用いて制作すべき、現段階で最突端の作品になる予定である。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日2000年前後の頃、月刊太陽の人形特集の撮影でみえた須田一政さんに、オイルプリントをお見せして、面白がっていただけたことを書いたが、その直前、個展の告知記事を、某写真雑誌に載せてもらったので、話が判るかも、とその編集者にオイルプリントを見てもらった事を思い出した。その編集者は、水彩画用紙に、油性絵の具をブラシで叩いてプリントした作品を前に「今はこういうのはコンピューターで出来ますから」と言い放った。私は写真を始めたのが遅かった。写真展を見に行くと、販売している気配がなく、プロというのは印刷媒体の仕事をする人達をいうらしい。先達はプリントの価値を高めておいてはくれていなかったと感じた。私は須田さんのおかげであの編集者がボンクラだと知れて良かった。AI技術の時代到来で、これからボンクラが大活躍することになるだろうう。ちなみに盆暗は博打用語である。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




母の江東区への転院を前に、自転車で通えるように、中古の折りたたみ自転車を落札。しかしタイヤ含め不具合が各部にあり改造している。 中学高校を通し、試験期間中、エレキギターのデザインと自転車改造計画に熱中した。あくまで計画であって、試験の期間終了と共に、その熱も雲散霧消となる。ギター用のホンジュラスマホガニーの板は未加工のまま、作った事は一度もない。そもそもまったくのぶきっちょで、技術家庭科で2を取ったことがある。私の作品は、ぶきっちょが人知れず、非合理な作り方をしており、そこにある種の説得力のような物が醸し出されている、という創作上の秘密は、あまり言わないようにしている。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




週末か来週初めより、無学祖元禅師、の身体を制作に入りたい。次に祖元師に刃を向けるモンゴル兵か、蘭渓道隆禅師の身体の予定である。 肖像画の顔が面白いからという理由で、臨済宗開祖臨済義玄を作ってしまった時とは、さすがに事情も違う、七百数十年前に、日本に禅が根付いていないと知り、南宋時代の中国からやって来た蘭渓道隆師。日本に初めて禅を持ち込んだとされる栄西が、密教と禅宗の合わさったものであったので、実質的に鎌倉の初の禅寺である『建長寺』開山の大覚禅師こと蘭渓道隆師が源流である、ということになる。肖像画を元にしたが、明らかに建長寺HPの木像とは別人である。 などとグズグスいっているが、その恐れ多さにかこつけ、創作上の快感を高める為、自分を焦らしているのではないか?首をポケットに入れて飲みに行くのもそうだが、昔からの私の奇癖の類であり、如何ともし難い。ただし出来が良い証拠ではある。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




AIが写真のコンテストでグランプリを取った。何故か判らないが、世間は悠長に構えているように思える。外側にレンズを向ける写真の世界は大変な時代を迎えるのではないか?カメラなど持たず、かつての写真的世界を自由に表現する若者で溢れるかもしれない。 6年前から、反写真的リアリズム手法を始めていた私は、津波が来る前に高台に登っていたような心持ちである。そして私が蛇蝎の如く嫌い続けた〝まことを写す”写真という用語に代わり、いよいよ相応しいのは〝念写”であろう。 そして念写仲間?の若者に言われるのである。「この念写の時代にわざわざ粘土で人形作って。年寄りの偏屈には困ったものだ。」 先日、ガラケーで、未だにメールすらやろうとしない知り合いに「こちらが不便だから、せめてメールぐらいやれるようにして下さいよ。」苦言を呈した私であった。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




AIが写真のコンテストでグランプリを取ったが、意外だが、思ったより危機感はないようである。 先日も書いたが、ちょっとした好奇心で、どれだけ実写に見えるか一度やってみよう、と古今亭志ん生が火焔太鼓を配達途中で飲んでしまった甚平さんに見立てた。ところが見る人はキョトンとして〝この人は私が作った、と言い張っているが、この写真の一体どこの何を作ったというのか?”という顔である。このままでは禿げた爺さんを連れて来てデカい太鼓を担がせて、ただ撮った人になってしまう。このぐらいの人形を作って、こうした、ということになる。実に野暮臭いことである。それで満足した。 これからの写真家は、これはAIでなく、私が撮ったんです。とあの時の私のようなハメに陥らないだろうか? 私はまことを写すという意味の写真に抗い続け、外側にレンズを向けず、眉間に当てる念写が理想とも言い続け、光と影の芸術と言われる写真から陰影を取り除き、すでに写真的リアルからは足を洗っている。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ネット上に〝浦沢直樹に聞く やっと子供の頃の漫画の描き方に戻れた”という記事があった。会員限定(無料)なので内容は読んでいないが。 寒山拾得を手掛けて以来、小学生の頃に戻ったような気がして、ブログでも、その頃のことを思い出すことが多くなった。丁度コロナ禍と重なり、その頃夢見た〝どこかの王様に石の塔に幽閉され、宿題、算数やらなくて良いから、ここで一生好きなことだけやっておれ”状態に限りなく近くなった。母がおそらく私に伝えたであろう〝治らないならせめてバレないよう社会人のフリが出来るようにせよ”も、この期に及んで必要なく、石の塔に閉じ籠もっていることを推奨される有様であった。 コロナが〝私の王様”の演出だとしたら実に申し訳ないが、大谷翔平も、引っ越しを機に8年ぶりにテレビを買った、私に対する王様のサービスくさい。だってあんな物が現実にいる訳がない。ツチノコの方がまだ現実味がある。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ