明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



大晦日は毎年、昨年思い付かなかったこと、出来なかったことをやったか、と振り返るのだが、今年は昨年どころか、先週まで考えてもいなかった物を作っている始末で合格。    目標など持たず、パン食い競争のように目の前のパンをただ食うことを繰り返していると挫折しにくい、と改めて気が付いた。いつかあれをやろう、なんていうのが一番良くない。恐れていたのは死の床で、あれを作りたかった、これもやりたかったと苦しむことだったが、目標に至らなければ挫折ということになろうが、目の前のパンなら目の前過ぎて折れようがない。 しかし一方、無呼吸症候群のせいでパンを食う気力を失うという驚く経験をした。老人になっても手さえ動けば何とかなる、と思っていたのは間違いであった。〝考えるな感じろ“は良いとして、感じるのも、肉体の部分であると、遅ればせながら自覚した。さらに何度か挨拶した程度であったが、59歳の隣人がトイレで突然死し、明日は我が身だと身をもって教えてくれた。明日元旦は、一休和尚の着彩から始まる。



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一休宗純が竹竿に髑髏を掲げ待つ、本来これだけ作るつもりだった作品の仕上げに入る。考えてみると、寒山拾得を作ろうとしながら一年間、それ以外を作って来た。風狂の物語を描こうとして、実在した代表的な風狂の人、一休宗純を作って終わる。寒山と拾得の2人の頭部は出来ていたのに、一休作ったおかげで考えが変わってしまった。それも流れだから仕方がない。    私の東京は64年のオリンピック以前の東京である。20年ほど前に入手した欅のちゃぶ台がある。小津安二郎の映画で、佐分利信がスーツで座布団に茶漬けを食べているのを観ると、やっぱりこれだよな、と思うのだが、腰が限界に来ている。仕事以外も全て椅子の生活にすることにした。あの佐分利信も考えてみれば、今の私よりだいぶ若い。未練がましく、ちゃぶ台の天板を流用し、脚を付けることにした。そこへ小中学校の友人から電話、いくらメールや留守電に連絡しても返事をよこさない変わり者がなんだろう、と思ったら、私の死にそうな声が留守電に入っていたので心配して、という。名前も名乗ったそうである。それは面白い。生き霊の仕業か?テープは消してしまったという。役立たずな奴である。



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毎年恒例の、工芸学校時代の連中との忘年会。もはやたいした話はない。さっき話したことと昨年話したことと、ごっちゃになるくらいである。ただお馴染みの病気話に、私には無呼吸症候群という新ネタがある。脳梗塞だ糖尿だ心臓だ、と一番軽い奴で痛風という有様である。ヘベれけになる奴も例年通り。 臨済義玄について、最後にもうちょっとぐずぐずいうのを御容赦願いたい。こんなことを日々ぐずぐず考えている。先達の姿をリアルに残す臨済宗の特徴も、開祖の頃はそんな習慣はなかっただろう。  平面像から立体に起こす時、気を付けているのは特に額である。複雑なカーブが重なっており、一方向からしか撮らないともかく、ここをちゃんと作っておかないと、複数の角度から撮る場合、矛盾が生ずる。それをマルコムXの額で学んだ。義玄の頭は前頭部に向かって盛り上がっているように見える。こんな頭は実際は見たことがない。想像で描かれた証拠といえるかもしれない。しかしながらこの件は、私にとって、義玄像を作ることだけでなく、一休宗純に続き、室町時代の曽我派の始祖、初代曽我蛇足こと墨渓作品の立体化という課題を担っている。



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私が臨済義玄について、ぐずぐずいっているのは、そこら中に寺がある、臨済宗の開祖を作るというのは、作家を作るのとは、少々心待ちが違う。 たかだか室町時代の?また日本人である曽我蛇足は、当然それ以前に中国に伝わる義玄像を参考にしただろう、と思うのだが、目ぼしい肖像が見当たらない。それでも元ネタの存在を感じる原因は、義玄の珍しい禿げ方である。いかにも根拠有り気ではないか。リアルの演出にそんなことをしたとしたらかなり面白いけれど。夏目漱石の修正されたカギ鼻を見破った私である。そんなことを気にしてるから胃を病むのだ、と思ったが、室町時代の絵師だろうと同じことだが、専門家でもなく坐禅もしたことがない私には限界である。責任は曽我蛇足に取ってもらおう。



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ホームにいる母と電話。小学四年の時、大人向けの一休禅師を買ってもらったのを覚えているか聞いたら、どうせ判らないから、と止めたのに、とそこまで覚えていた。私としても書店の店先でねだれば母もご近所の見栄もあるし、との計算があったのは間違いがない。そこでガロを買うようになったのは、その翌年か翌々年であろう。その書店は配達もしてくれたが、そこの袋に入った石原慎太郎の『スパルタ入門』をタンスに隠していたのを見つけ、敵の作戦を知ろうと、母より先に読んでしまった。以来の石原嫌いである。記憶が確かならば子供に死体を見せろという項があったような気がするが、あれは一理も二理もある、と後に思った。母には今度行く時、一休の首を持って行くよ、といっておいた。 友人等は、ホルモンの作用だか何だか知らないが、年頃になると遠くを見る目になったりしたものだが、私には全くそんな変化は起きず、一休禅師を読んだ頃から、一休を作るまでの間、全くの無段階で今に至っている。



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東洋、日本画を見ていて思うに、この絵師のこれが元の作品か、と思うと大抵その前に先達が存在する。その点曽我蛇足の一休像は、直接目の前で描いたと思われる。一その一休の前に私が作ったのが、臨済義玄である。仕上げを残して既に納める厨子まで用意した。それは私が特に臨済宗が先達の肖像画、木像の類を残している、と知らないものだから、寒山拾得と同じ臨済宗だ、と勝手に縁だと思い込んだせいである。作ったものは仕方がない。 しかし作っている時からずっと気になっていたのが、蛇足は何を根拠に義玄像を描いたのか。前述のように、元になった肖像があるのではないか。しかしいくら検索してもほとんど見つからない。中国の検索エンジンを入れて検索もしたが、蛇足作がヒットしたり。 かつて写真が無い、とされていた天才ブルースミュージシャン、ロバート・ジョンソンの写真が見つかったと音楽誌に発表された。他にないなら、一カットあれば良い、と作り始めた。だがどうもあの繊細な音楽を作り出す人物のような理知が感じられない。酔っ払って12時過ぎに編集部に電話をしたら編集者が出て「今のところそういうことになってます。」結局信じられずに制作を止め、後に本物が発見され改めて作った。 もうこうなればもし違っていたら、悪いのは曽我派の始祖、曽我蛇足こと曽我墨渓が悪い。ということでNCNRにて。



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一日  


2年ぶりの友人2人と12時に待ち合わせ。1人が腹具合が悪いとかで30分遅刻。その流れで口開けからお馴染み体調の話題。私はというと新ネタの無呼吸症候群について。ピストルに撃たれたように寝て、普通に目が覚めるので、まさかあれだけ息を止めていたとは。2人にも検査を勧める。結局6時過ぎまで。    二十代の頃、1年禁酒の後の日本酒で、1度しか二日酔いをしたことがないので覚めるのもはやい。友人の土産のつまみで飲みながら今後について考える。無呼吸のせいで予定は変わったが、作品数が決まったので気分的にはちょっと落ち着いた。ざっと作ってある作品を仕上げて行きたい。そう思うと、放りっぱなしになっていた臨済宗開祖臨済義玄など良いかもしれない。曽我蛇足が描いた義玄は喝!と気合充分の表情で、思わずムラッと来て作って座禅一つしたことない私が作って良いのか?と思わなくもないのだが。それにしても蛇足は何を根拠に義玄像を描いたのかが判らない。立体像も中国の銅像みたいなのを見たくらいである。

 



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偶数月25日発行の『タウン誌深川』新年号届く。一休禅師について書いた。写真は『一休和尚酔臥図』酔って寝転がっている。くるまるムシロは青いままであるがモノクロページなので構わない。カラーで撮る時は、鼻や頬を赤くしたい。前のページのインタビューが臨済宗の坊様なので臨済宗の一休が髑髏を枕に、はどうなの?と思ったが、本人が、おそらく頭蓋骨の脊髄に通ずる穴に竹竿挿して、正月の各戸を周ったよりは可愛いだろう。   ところで曽我派の絵画を参考に一休の僧衣の仕上げに入っているが、陰影がないから立体感が判らないじゃねえか、と勝手なことを思いながら、判らない部分はスマホで従兄弟の住職に質問したり。今まで何度かあったが、久しぶりに自分の部屋に置きたい気になったが、ダメであろう。古今亭志ん生作った時、CDかけて、眺めながら一杯やろうなんて考えたが、実際やってみると、そこはかとない〝自分の腹を痛めた感〟が拭えず盛り上がらなかった。



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一休の法衣を曽我派の絵画を参考にしている。室町時代、今と何が違うか判りはしない。陰影がなく、つまり立体感がないので、良く判らない。西洋画と東洋、日本画の描きたいこと、言いたいことの違いを改めて感じる。今回は平面を立体化した後、最終的に陰影を排除し平面化する訳で、こうして書いてみると、私は何をしている?という、お馴染みとなった感慨が湧いて来るのは仕方がない。そして最終的に写真になる、という所がミソである。ミソであるはずである。ここには私の写真との様々な歴史が在る。 写真初心者の私がブラインド・レモン・ジェファーソンを撮影した時であっだ。外光が三角形を描き、これは面白い、三脚から何までそのままにし、明日も同じ時刻にもう一度撮ってみよう、と考えた、ところが翌日、全て昨日のままのはずなのに、ファインダーの中、何か違っている。私は困惑したが、程なく気が付いた。カメラ、光、被写体は昨日のままだが、唯一昨日と違っていたのは私自身であった。つまりシャッターチャンスも私自身の中に在る、と。 そして外側にレンズを向けず眉間に当てる念写が理想となり、あの経験が、まことを写すという写真にあらがい続け、石塚式ビクトリアリズムに至る、初めの一歩だったろう。



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昨日も書いた、一休を作っていて自分の異変に気付いた件だが、作りたい物を目の前にボンヤリするなんてことは物心ついて以来初めてといっても良く、なので当然異変には気付いた。おかげで、被写体をこのまま作り続けるべきでなく、そろそろ被写体を仕上げ、撮影に気持ちを向けるべきだと思った。この辺りが、何でも自分の都合の良い解釈をするといわれる所以なのであるが、いわれて見ればそうかもしれない。しかし一休和尚のように、思い入れが強い人物に取り掛かれば、何かしら起きる訳で、それによりピンボールのボールのように鼻先に角度が付いて、気が付いたら坊様の袈裟を作っていたり、来たことのない場所に立っている。私など何丁目単位しか出歩かず、特に行ってみたい所などないが、前述のような意味においてはまだまだ彷徨い歩きたい。最近多少頭を傾げていることといえば、悪化と老化の区別が曖昧なことである。



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依頼された物を作る。得意な物ではなかったが、2つ目となると上手くなっている。結局OKが出ていた一つ目を最初から作り直すことに。こんなことを繰り返していると、慣れた頃に人生が終わってしまう。昔某ベテランデザイナーに、「プロはいつまでもやってないでさっさと終わらせて遊びに行くんだよ」と良くいわれた。判らないでもないが、土俵際で粘ったせいで結果が悪くなったことがないので、時間かけて実力不足分を補填できるならいくらでも掛けたい。 一休が髑髏を掲げるための竹竿を作った。一休を作り、おかげで考えさせられた。”考えるな感じろ”は良いとして、感じるためにも体調が肝心だと初めて知った。私にとって一休和尚は大ご馳走で、そのご馳走を前に、本来飛びかからんばかりに食いつくはずが、ボンヤリ眺めている。異変を感じ、無呼吸症候群を軽く考えていたことを反省し、食べ物にも気をつけるようになった。これが一休でなく蝦蟇仙人だったら異変に気付かなかったろう。

 



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現在ある頭部が10体、そのうち仕上げ手前まで身体も出来ているのが7 体。寒山と拾得の頭部も出来てはいるが、一休が出来てみると風狂味が物足らなく感ずる。これはなんとなく予想していて、一休を手がけるということはそういうことになるだろう、という気がしていた。さらにしゃれこうべを枕にする一休まで作ってみると改めて来年正月の課題とする。とりあえず登場人物のラインナップはこれぐらいで良しとしよう、ここから山河広がる中国風景などここからが大変である。 糠漬けの大きな楽しみの一つは根菜類をゴリゴリと食べるところにある。香り牛蒡に甘さで人参。漬かり安い物は取り出すタイミングが微妙だが、一つことにかまけてうっかりしてしまう虎渓三笑な人間にも大丈夫である。



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小学4年以来、一休の伝記を改めて読みたいのだが、新たなカットを思い付いてしまうのは明らかである。私としては大ネタだけに、これ以上一休を増やすと重心が変わってしまうだろう。今時、風狂などとは耳にしないが、今だからこそ気になるキーワードではある。風狂といえば時代は随分後年になるが、一休が修業した寺にわざわざ訪れた松尾芭蕉もウチには居る。 それはともかく。一年経つのに、達磨大師がひたすら壁に対峙したようにして被写体をただ作るばかりで個展用作品は一カットも出来ていない。それもこれも、外側にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写が理想だ、なんていっているせいである。いずれ誰の頭の中のヴィジョンをモニターに写し出せる時代が来よう。その時は、昔はこんなご苦労な奴がいた、とかつてコンバットの無線機みたいな携帯電話の不動産屋みたいに言われるのかもしれない。



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着彩を残し一休宗純完成。写る所しか作っていないししゃれこうべを掲げる竹竿はまだであるが。一休本人公認であろう曽我蛇足の一休像を参考にしたが、ボーイスカウト経験者といえど、坊さんでも結べない人がいるというカンという輪っかの紐は粘土で。 年も押し迫って琴高仙人乗る鯉を撮影したり調理したりは気が進まない。かといって豊干が乗る虎を動物園に出掛けて撮る気にもなれない。無呼吸症候群のせいで気分が沈滞ぎみではあるのだろう。臍下三寸辺りに在るもう一人の私は、放っておいても勝手に突き進むと思い込んでいたが、それも所詮身体中に在るものであった、と今更ながら解った。おかげで食べ物にも気をつけるようになった。糠床も絶好調である。そんな中、たったニカットのために手こずらせてくれた。よっぽどの快感をもたらせてくれなければ許す訳にはいかない。



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一休宗純が完成を迎えようとしている。法衣の輪っか、カンというそうだが、フリーハンド、アドリブが全て、ものさしを使わないから、結局3つ作ってしまった。嫌なものは嫌である。直線も私の作品に登場する程度の直線など、この程度で良い、と目についた雑誌のヘリを使ったりする。しかしそれが仇になり、ミュージシャンに持たせるギターサイズを2度間違っている。ダメージが大きかったが、やはり嫌なものは嫌である。 作家シリーズを長くやって来た鬱屈が溜まって、と存在もしない仙人など作ってみたが、実在した有名人を作るプレッシャー、またそれにチャレンジすることは、だからこその面白さがあったのだ、と改めて思った。特に今回は小四の時に感銘を受けた人物だったので、特別な感慨がある。私は需要という物を一切考えないが、そうはいってもテーマ、くくりは必要とは思っているので、寒山拾得をやろうと思わなかったら。臨済宗繋がりがなければ一休に至らなかっただろう。



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