明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



日曜美術館『横尾忠則ART IS LIFE 』寒山拾得を描かれているのは知っていたが、何点もあるのは知らなかった。 蝦蟇仙人と鉄拐仙人は、立ち姿と傍らの岩に腰掛けたそれぞれ対になるように作る予定である。蝦蟇仙人は三本脚のガマガエルを従えているが、鉄拐仙人は、鉄の杖だけでは弱いので、ひょうたんを幾つもぶら下げバランスを取ることにした。『虎渓三笑』の慧遠法師『慧可断臂』の慧可『寒山拾得』の豊干『琴高仙人』を来月中に、仕上げ前の乾燥まで持って行きたい。豊干だけば数パターンの制作を予定している。寒山と拾得は急がず、頭部の制作に、もう一山越えてみたい。一休禅師の頭部は年内に完成すれば、来年正月にはしやれこうべを竹竿に”門松や冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし”が撮影出来るだろう。 こんなことを今の段階で書き出していると、『虎渓三笑』の教訓、つまり一つのことに夢中になり過ぎ、客観性を失ってはならない。という私の幼い頃からの、注意すべき点を乗り越えた感に満たされる。しかし集中力なければ作品は形を成さない。

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『タウン誌深川』の次号エッセイは、慧可断臂図より見返り達磨大師にした。原稿を書き、後は写真を撮るために仕上げに入る。私なりの達磨大師像になったろう。普通の人間の顔でなく、創作可能な今回のモチーフは、水を得た魚の気分である。無意識に私の中に蓄積されてきた人間の情報を取り出し使える。何しろ励んで勉強しよう、と考えたことは、ことごとく役に立たない、という私の体質に、早々に気付ことが出来たのは何よりである。それを証明するためには、今回の様々なモチーフは最適である。 ヤフオクで落札した10センチ前後のひょうたん5個届く。鉄拐仙人に、持たせるためである。どうせなら全部ぶら下げよう。私のもっと々的な過剰なところが難なく吸収してくれるモチーフである。蝦蟇仙人の蝦蟇とのバランスを取るためにも良い。



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雪舟の『慧可断臂図』(えかだんぴず)は、必用最小限の情報のみでシンプルな構成で出来ている。そこが良い訳で、禅宗の開祖達磨大師と、第二祖となる慧可禅師。禅画のモチーフとして名場面であろう。しかし座禅一つしたことがない私のような人間からすると、もう少し要素を加えたい。あまり説明的になるのも野暮だが、慧可は、釣れ過ぎてしまった魚を自宅で血抜きを済ませてきたので、お裾分け、みたいではある。それに覚悟を表している割に、泣きそうな顔は違和感がある。 この場面は積雪の場である。慧可は膝上ぐらい雪に埋め、頭や肩には雪を積もらせたい。そして静かにうつむき加減に瞑目し、手には切り落とした左腕。それに使われた剣が積雪に垂直に突き立てられている。鮮血は雪上に点々と最小限に。覚悟の念を感じ、振り向く達磨大師。私の『慧可断臂図』はこんな感じになる予定である。


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臨済宗の寺はそこら中にあるというのに一千年以上前の宗祖、臨済義玄像は、立体どころか絵画作品も少ない。そういえば本場中国はSNSなど規正がある。検索したって出てくる訳がないな、と中国のエンジンで検索してみた。ドドドッと出てくるかと思いきや、意外な物は一つもない。がっかりした。『虎渓三笑』は知らない作品、現代のイラストなど出てきたが、驚いたのが『慧可断臂図』である。雪舟作と達磨の向きが同じ、中国語なので、いつの誰の作品か判らないが、これが国宝雪舟作品の元なのか?拡大が出来きないが、引きの絵なので、積雪や洞穴の様子はこちらの方が良く判る。 ところがドラマがあり、慧可が腕を切る場面もあった。悪党と達磨がカンフーで戦うシーンに唖然。火の着いた矢が達磨に刺さり、僧侶の焼身自殺のように燃え上がる。それを輪になって祈る僧侶達。ここで映像が止まってしまった。まあこの先を見るまでもないだろう。そういえばここは少林寺であった。

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