明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



一休和尚酔臥図を我慢できずに制作を始めたものの、考えてみたら、正月の京で酔い潰れていたら、何かまとっていなければ凍死しかねない。何のことはない。胸元こそ布を巻いたが、後はコモだかムシロを被せることになると、作る部分がほとんどない。あれだけ鼻息荒くしていたのに、振り上げた拳の持って行きようがない。しかし、正月だからこそ、昼間竹竿に髑髏を掲げ ”門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし 御用心御用心”などと各戸を回った訳で、そのおかげで英一蝶の酔臥図と違い、髑髏を枕に風狂色をより出すことが出来る。 振り上げた拳の持って行き先という訳ではないが、引っ越し後に通うようになった店の常連と連絡を取り合い、数ヶ月ぶりに顔を合わせた。ポケットには引っこ抜いて持って来た一休宗純の首。今は無き木場の煮込み屋河本の常連にはお馴染みであるが、こちらでは始めてで驚かせてしまう。枕代わりの髑髏は,説明が面倒なので持って行かなかったけれど。



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一休和尚酔臥図は、まず竹竿に骸骨の立ち姿を作り、撮影を終え、それから酔臥図とするべきであったが我慢できず。これはもう死ななきゃ治らない。何事かをやらずにおられない人間は少なからずいるわけだが、私の場合、たかだか粘土で人の形を作りたい、というだけのことであり、不幸中の幸いと言って良いだろう。それはともかく。全身をムシロに覆われているのでは作り甲斐がない。かといって正月の京の夜に酔い潰れるのであるから仕方がない。横位置の全身像を考えていたが、いっそ縦位置の半身像にしようかと。その頃の犬はどんな種類がいたのだろう。当初、行き倒れなら食ってやろうぐらいの野犬にしようと思っていたが、このモチーフに殺伐感は不要だろう。和尚もおちおちと寝ていられない。 そういえば、酔臥は酔って横臥することをいうのだろう。だとすれば目を開けていても良いのではないか?寄って来てクンクンしてる犬とたまたま目を開け見つめ合っているのも良いかもしれない。



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拳を握るようにして作るのを我慢した『一休和尚酔臥図』。我慢しているだけで昨日は終わってしまった。小学生じゃないのだから、と思っていたが、結局我慢出来ず、先に酔い潰れる一休を作ることにした。昔から自分を焦らし、盛り上がりと集中力を高める、という癖があったが、3年ぶりに婚約者に対するが如くに一休に向かうことにした。枕にすべき髑髏はすでにある。 ところが1300年頃の正月の京の街で酔い潰れるのは、ちっとやそっとのことではないだろう。ムシロだかコモでもかけていないと凍死しかねない。身体が隠れてしまい、作り甲斐にかけるな、と少々がっかりする。しかし英一蝶の『一休和尚酔臥図』は横で心配そうに見ている町人こそ面白いものの、一休はただ地べたて寝ている。せっかくしゃれこうべ掲げて歩く一休を作るのであるから、其の二としてその晩の有様にした方が面白い。仕方がない一休はムシロに埋めることにしよう。そういえば、やはり小学生の頃読んだキュリー夫人の伝記に、研究室が寒くて、机を身体の上に乗せて寝た、という話を読んだ。しかし、重い物を乗せて寒さを紛らわせていることが判らないだろう。



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一休和尚、酔臥姿を作りたいのを我慢する。酔って寝ているのであるから目をつぶっている。一休なら目を開いたまま寝そうではあるが。その前に竹竿にしゃれこうべを先に作るべきであるここでに酔臥図を作ると、全体の進行のバランスが崩れる。蝦蟇仙人とペアである鉄拐仙人の身体部分か、すっかり忘れていた『虎渓三笑図』最後の一人慧遠法師の身体部分を作るか、もうすでに、指折り数えないと判らなくなっている。豊干禅師と琴高仙人は、上に乗るべき虎と鯉を先に撮影しないとならない。もし今日初めて当ブログを御覧になる方がいたら大変申し訳ない。私自身が何をいっているのだ、と思っている。 しかし一点集中型で“木を見て森を見ず”タイプの私は通常より多いラインナップにアタフタし始めている。本日は酔い潰れている一休和尚を作りた過ぎて、すくんでしまい?何もせずに終わった一日であった。 たった今クローズアップ現代で雪舟についての論争についてやっていた。慧可断臂図何度も登場する。

 



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風狂の絵師というと真っ先に浮かぶのが曾我蕭白である。1730(享保15)年、京都の商家に生まれたというから一休と同じ頃ではないか、と思ったら、曾我蛇足に私淑し、自らその十世を名乗ったという。何のことはない。私は蛇足の臨済宗宗祖臨済義玄を元に義玄像を制作し、小学生の頃、伝記に載っていた蛇足の一休像と、残された木像を元に、ここ毎日見つめながら一休の頭部を作って来た。いうなれば同じ穴のムジナではないか? 初めて寒山拾得を見たのは昔千葉の美術館の曾我蕭白展だったろう。その時は、全体がインパクトありすぎ得に寒山拾得ということはなかったが。それにしても1700年代にあれだけイカレた作風が受け入れられていた、というのが驚きである。一方同時代で人気の伊藤若冲に関しては私にはご苦労さんとしか思えないのであった。



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一日  


昨日の晩から大鍋に煮込みを作っていた。早朝目が覚めた。昨晩アップできなかったブログは翌日の昼までにアップすることにしていたのだが、しゃれこうべを枕にした一休禅師を作ろうなんて話を書いているうちにまだ薄明るいうちから、煮込みで飲み始めてしまい、内容が暴走。これは明日間違いなく後悔する。若い頃得た教訓”ラブレターは一晩明けてから投函すべし“ ブログをアップせずに、また寝てしまった。 しゃれこうべを竹竿に“門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし”正月早々、京の街を嫌味というか嫌がらせをしながら各戸を回り挙げ句にしゃれこうべを枕に酔い潰れてしまう『一休和尚酔臥図』”世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬのを待つばかりなり“ こんな物を作ろうと考え、嬉しすぎて内心はしゃいでいる。そんな人間放っておいて良いのであろうか? 相当数の寒山拾得図を見てきて、どこかピンと来なかったのは、立派な寒山拾得は数々あれど、風狂味が足りない、と思えたからかもしれない。

 

 

 

 



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一休和尚の頭部仕上げを残し完成。本来今頃鉄拐仙人を作るはずであったが、手違いで芯材が届かず、仕方なく作りかけの一休制作を再開したわけだが、正月の京の街をしゃれこうべを掲げて各戸を回るという一カットだけを予定していたが、成り行きでその後に、酔い潰れた『一休和尚酔臥図』も作ろう、どうせならしゃれこうべ掲げて歩き疲れた挙げ句の話にし、なんならしゃれこうべを枕に酔い潰れさせても良い、と考えていて“風狂“というキーワードを思い出した。寒山拾得に風狂なくして、いくら乞食じみた二人組を作ったところで届く訳かない。酔い潰れて野犬にクンクンされ、しゃれこうべを枕に一休がそういっている。 余計なことを考えず、成り行き任せで歩いていると、必ず開けた道に出る。行けば判るさ、という訳である。しかし現実には、私のような方向音痴は人に道を尋ねると、たいてい今来た道を指差されるのであった。


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一休和尚、髪をぼさぼさにする。曽我蛇足の作でも奇麗に剃っているものもあるが、おそらく一番有名で、子供の時に私が見た蛇足作はぼさぼさの髪で、如何にも風狂の人である。私は本当のことなどどうでも良い、と常日頃いっている割に妙に律儀で、蛇足が一つ残してくれたおかげでぼさぼさに出来た。かつての羽生善治ではないが、寝癖より、もっと大事なことがあるだろ感が出る。 一休制作を再開して、風狂というキーワードを思い出した。寒山拾得を作ろう、なんていうからには肝心なことである。私のイメージでは坊様というのは清潔でキチンとしていて一休と違い、風狂とは程遠いイメージである。こんなモチーフを手掛けるようになり、つい宗教番組など見てしまうが風狂の精神など語られることはない。平成の世に何処にそんな物があるのか見当もつかない。 40年前にジャズ、ブルースシリーズを始め、次に作家シリーズ、段階的にそれらのモチーフについて語り合う相手が少なくなり、ここに至り誰もいなくなった。そんなことはまったく気にはならないが、風狂ならぬ酔狂に終わってはならない。



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なぜ一休和尚を作ることになったのか、もはやブログを読み返すしかないが、子供の頃に『一休禅師』を読んで、印象的な面相と”門松は~目出度くもあり目出度くもなし“にいたく感心したのを思い出し、ついでに工芸学校の頃、一番好きだった陶芸家、河井寛次郎の“鳥が選んだ枝、枝が待っていた鳥“にも感じ入ったのを思い出した。私は一点だけ凝視してしまうところがあるから、こんな客観的な見方に感心してしまうのかもしれない。この頃は、禅宗でも特に臨済宗が、先達の肖像を残す習慣があったのを知らなかったから偶然にも、寒山拾得と同じ、一休も臨済宗か。と思ってしまったのだろう。今となっては、そんな思い込みのせいで、一休禅師が酔い潰れているところも作ることになり、実に良かった。やはり成り行きに身を任せるに限る。しかし考えてみると、寒山拾得も一休も、風狂という肝腎なことを象徴するモチーフである。その点を忘れてはならないだろう。



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私が初めて小学四年頃買って貰った大人向けの単行本『一休禅師』に載っていたのが、曽我蛇足作の一休像であり、日本画定番の斜め45度の肖像画であったが、普通正面をまっすぐ見る目が、こっちを見ていて、これがいかにもわざわざしゃれこうべを竹竿に掲げて、“目出度くもあり目出度くもなし”と京の街を歩きそうに、子供の私には見えた。目出度くもあり目出度くもなし、にはいたく感心した。 現在は脱落しているが、一休の髪、髭を植えたという、リアルな木像も残っている。こちらはいくらか吊り気味の小さな目で、若干印象は違うが、人の顔はそんなものであろう。私はどちらも一休和尚の実像を伝える物と判断し、共に参考にした。この一作のつもりが、一休和尚酔臥図を作ることになりそうだが、これは一作目の続編、または連作となることになり、先程まで、家々の軒先に迷惑にも差し出していたしやれこうべ共々道端に寝込み、結果的に副題とする”世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬのを待つばかりなり“ というオチにつなげたい。しかしあくまで死んでいるのではなく、酔い潰れているように見えなくてはならないだろう。



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一休和尚は、正月早々京の街中で酔い潰れていては凍え死んでしまいそうだが、子供の頃、元旦の朝、外へ出たら粉撒き屋のおじさんが、当時のコンクリート製ゴミ箱を背に、まるで切腹をし、正座のまま前にのめったように酔い潰れていた。死んでいるかと思った。粉撒き屋とは、各家を回って、くみ取り口に石灰の粉を撒いて、料金を貰う仕事である。 一休のそばに野犬はちょっとやりすぎかと思われるので、せめて子犬にしておこう。しゃれこうべを竹竿に掲げて正月に家を回られたら、さぞかし嫌がられたに違いなく、居留守を使ったり、中には酒を振る舞い追い出そうとする家もあったろう。 先日、陰影のない一休像の立体感を読み間違いに気付いて以来、ようやくイメージに近付いてきた。 寒山拾得といいながら、それ以外の物ばかり作っているのが、もしかすると、これら全てが寒山拾得に至るために必用な行程のような気がしてきた。だったら機が熟するまで待とう。



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転がる石に苔生えず、とはいうものの、またしても行き当たりばったり、まさかの一休が正月早々、道端で酔い潰れているところを作る気になってしまっている。成り行き任せも加速している感があるが、東洋絵画には、我慢するにはあまりにも面白いモチーフに溢れている。何より今に通ずるユーモアがある。 ところでせっかく一休を道端で酔い潰れさせるのであれば、門松の傍らで、と考えた。しかし一休の時代の門松はどうも今の門松とは違うようで、斜めに切った竹は徳川家康以降で、庶民は竹の代わりに笹を使っていたようである。 酔っぱらいのデータは頭の中に膨大なストックがあるが、いささかデータに品がない。そのまま使っては禅師に失礼過ぎる。穏やかに地べたに横たわって貰い、その代わり野犬にクンクンさせたい。当時の京の街には行き倒れを見付けようものなら喰ってやろうなんて犬がいくらでもいただろう。この『一休和尚酔臥図』は副題を一休作の”世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬのを待つばかりなり“ にしよう。

 



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間が空いてしまった時に、しばらく留守になっていた物をやってみる。目が慣れてしまって方向を見失っても、久しぶりに見ると、問題点が目に入ってくる。複数の物を並行して作るメリットである。 一休宗純は難航している部分があり、それを一休像をおそらく本人の目の前で描いた曽我蛇足のせいにしていた。絵描きというものは、クラナッハのヌード像を見るまでもなく自由である。蛇足の一休像にもそんなことが起こっている、と思い込んでしまっていた。禅宗の肖像画の鼻毛まで描く迫真性は判っていたつもりであったが。 時間を置いて頭は冷やすものである。私の邪推だったことに急に気付いた。そうと判れば、見え方も違ってくる。陰影のない画像はこの場合やっかいである、というお粗末。一挙に進んだ。 そうとなれば一休が酔い潰れている『一休酔臥図』制作を邪魔する物は何もない。英一蝶は、庵の軒下で倒れており、庵の主人らしき人物が心配そうにしているが、私の場合は行きがかり上、竹竿としゃれこうべを放り出し、門松の傍らで眠り込んでいる。“門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし”其の二ともいうべき物になるだろう。



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退化  


眼科の検診を受ける。飛蚊症もあるが、それより眼鏡店の検眼では視力が出ず、眼科に行くようにいわれていた。しかし眼科にいっても結果は同じであった。眼鏡が役に立たない。そんなことがあるとは思わなかった。乱視が酷く、左右も違い、常にボンヤリ振動しているようである。そういえば、頭の中のイメージにピントを合わせることばかりに夢中で、外の世界には必要なければレンズを向けない。子供の頃から写生やデッサンも嫌った。つまり必用としないと退化する、ということであろうか。モニターを一日中見つめていてもまったく疲れないが、世の中同様、ボンヤリとしか眺めていないからかもしれない。実はここ数年、素通し眼鏡で過ごしてきた。見えているように感じるのは想像力が補完しているせいだろう。アンセルアダムスや伊藤若冲嫌いなのにも理由があるのかもしれない。 飛蚊症は特に問題はなく、いずれ幻のゴキブリにも慣れるだろう。


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材料入手に手間取り、鉄拐仙人始められず。 それはともかく。寒山拾得の難しさが、秋の空気と共にヒタヒタと。ネットを含めておそらく数百の寒山拾得を見ているが、感心するような作品は数える程しかない。 思えば程度の悪い表層の脳は、汚らしい乞食じみた2人組がケラケラしているところを作るのはさぞかし楽しかろう、ぐらいのことを考えていたはずである。いや考えていた。その割に金魚ばかり眺めて始めようとしない。ようやく2つの頭ができた、と言いながら他のことをやっている。他のことは具体的な分楽である。もう少しマシなヘソ下三寸辺りの私は、その難しさに一歩が踏み出せずにいる。 以前入手した寒山拾得の描き方みたいな本を見ると肩書は偉い先生のようだが、寒山拾得は単に汚らしい乞食じみた二人組がケラケラしているだけだと思っているようで、ただ無邪気であり、どうも無邪気で下手くそなまま亡くなっているようである。


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