崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

堀まどか著『「二重国籍」詩人野口米次郎』(名古屋大学出版会)を読んで

2012年06月09日 21時56分55秒 | エッセイ
 久しぶりの精読の本、堀まどか著『「二重国籍」詩人野口米次郎』(名古屋大学出版会)。韓国巨文島生まれの堀麗子氏の孫のまどかが書いた564ページの分厚い本を彼女の父であり、麗子の息子である画家の堀研氏が送ってくださった。堀家とは私が植民地研究をはじめてからの縁があり、長い付き合いであるが、まどか氏とはまだ面識がない。彼女の母から詳細に研究状況は聞いて分かっていたはずであるが大著を前にして、お礼を書くつもりで読み始めた。しかし没頭してしまった。
 「二重国籍」の詩人、英語と日本語のバイリンガー、両側から評価が低いという点に重点をおいて読んだ。西洋と日本のどちらにも属していないという詩人の野口米次郎への著者まどか氏の再評価とは何か。つまり日本の国文学史から消された「世界的詩人」の生涯・思想・作品を照らし明らかにしたということはナショナリズムの強い閉鎖的な日本の国文学から低く評価され、否、除外されたような文学者に対して「境界人」をキーワードにして国際的視野から照明したものはなにか。
 大変恐縮なことであるが私は偉大な詩人を自分に照らし合わせざるを得なかった。私は日本と韓国の間で「二重文化」のバイリンガーであり、いまだに日本語には自信がない。彼が「僕は日本語にも英語にも自信が無い」と言ったように私は日本語が下手だと言われたことがある。でも最近は堂々と話し、書く。韓国では「親日」と侮辱され、日本では「反日的」にいわれることもある。一方彼は「その国の人々に許されない自由が許される」という言葉のように私も自由である。たとえば時に失敗しても多めに許されることがある。しかし小さいことを知らないということで変に思われることもある。この本には意外に彼の植民地に関する論評や言及が紹介されている。日露戦争が満州や朝鮮を守るための戦争と言ったり、日本の韓国併合に異論を発表したりした。大東亜共栄圏や八紘一宇を国際的に肯定し、結局「戦争詩」を書く国粋主義者とされ、戦後戦争責任を問われ、文学史から消えていったのである。
 この著書は作家論でありながら近代史的伝記のように見られるが、日本の国文学への批判、批評として重要な意味があろうと思う。それはまず文学は文学としてつまり彼の「詩」のトータルな評価はどうであったか、もう一つは国際的な視野、時代性を反映する文学として評価されるべきであろうが、その点はどうであろうか、本書を通して日本文学「国文学」に反省を求めるようなメッセージを受け取ることができた。その点、著者に直接会って詳しく聞いてみたい気持ちに満ちている。

リスクを避けず、挑戦

2012年06月09日 05時18分36秒 | エッセイ
 野田佳彦首相が昨夜記者会見で大飯原発の再稼働の必要性を国民に訴えた。「原発全面廃止」が社会正義のように平和運動(?)をし、世論も全くそのように傾いているのをテレビでみて私は内心苦笑していた。多くの世論や社会運動を見て、考えているので私は世論をあまり信用しない。戦前のナチスや日本の軍国主義に反抗した人は数少ない。その当時、運動や世論はどうであったか。加藤周一氏はその時反対せず黙っていた知識人について「ごまかし」と批判した。植民地についても同様である。その植民地時代を忠実に(?)生きて来た人間が戦後になると反植民地主義者のように批判する。それはリスクがない批判や社会運動である。戦後の平和時代に大通りで反対運動をする人を見ても私は賛同しない。「平和時代に平和を叫ぶ」ことが偽善ではなく、本当に意味深いことになって欲しい。原発廃止運動や世論について私が苦笑したのは、森林を伐採して家を建てた人が他人が新しく家を建てようとすると「自然破壊」と反対する人をみている気持である。
 原発は「絶対安全」に対してリスクが大きいことは私も不安と思う。しかしリスクを避けるのではなく、リスクに挑戦しなければならない。人類はリスクと戦って発展してきたのである。今夏になり節電に脅威されて原発再稼働へと世論が変わり始めた。蝋燭や灯火のロマンに戻りたくはないのだろう。もちろんそれだけではないだろう。口を揃えて原発反対といったコメンテーターたちが論調を変え始めた。知識や判断力のバランスが取れていない評論家たちによって社会がいつも混乱させられていると痛感しているところである。