崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

私の「文学少年」時代

2010年01月13日 05時51分11秒 | エッセイ
 朝の4時代に五木寛之氏のラジオ深夜便「我が人生歌がたり」の再放送を再聴しながら戦前朝鮮での生活ぶりや引き上げ時代の苦労と歌が二重奏のように聞こえる。私の幼い時代は多少重なるような経験が多い。それは文学少年時代である。私は自分の文学少年時代を思い出す。朝鮮戦争中の1951年ソウルの小学校へ4年生として編入した。田舎から来たも学級生活へ適応するのが難しかった。田舎では手に入らない新教材をもらうのは嬉しかった。ホームシックで一人でよく泣いた。班長に選ばれても断った。一人で本を読む時間が長かった。
 中学校に入ってからは李光洙の長編小説「土」「有情」「無情」、李無影の農村啓蒙小説などを耽読した。校内の文芸誌に雪についての感想を投稿して載った時は感動した。受験勉強と合わせて小説読みは続いた。高校では世界文学を広く読んだ。我が母校は1921年に創立した戦前の第2校を前身であり、ソウル大への入試受験勉強が主であり、小説耽読は禁止されている雰囲気であったが私は続けた。国語教師の李鐘声、崔泰相、亮先生に相談して、文学評論を勉強したいという目的をはっきりして国文学を選んだ。学科の教師には李杜鉉先生がおられて民俗学を教わった。ソウル大学の「大学新聞」には「西部戦線に異常なし」などの評論を発表し、有名な評論家の白鉄先生にも会って指導を受けた。評論のために心理学へ関心が移り、当時韓国で大家の尹泰林、任宰の両先生から指導を受けた。任宰先生はソウル大学に初めて文化人類学を開講して受講することができたことは私が大きく専門を替える契機になった。
 文学少年時代の人生観は愛国主義が強かった。それは単純なことではなく、作品を通して「愛」を基盤とした。その生き方は世間に上手く適応できず苦労したこともあったが未だに基礎になっている気がする。それは青雲の夢を求めて異郷にでた放浪精神ともいえる。私は転々と放浪して今下関にいる。それも文学少年の延長であろう。