電脳筆写『 心超臨界 』

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( チェロキーインディアンのことわざ )

モンゴルと中国の関係略史(2)――西尾幹二教授

2016-12-26 | 04-歴史・文化・社会
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【 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p432 】

14 「世界史」はモンゴル帝国から始まった

14-3 モンゴルと中国の関係略史(2)

  *中国年表

明朝とモンゴルとの間の平和の実現とちょうど時を同じくして、スペイン人がフィリピンに植民を始めた。1571年にはマニラ市が建設されて、ここを基地として中国貿易に力を入れたので、メキシコの銀がマニラ経由で大量に中国に流れこみ始めた。そのおかげで中国の経済は銀本位制に移行し、大発展を遂げる新しい局面を迎えた。

中国の消費ブームで、東北アジアの特産品の朝鮮人参や毛布の需要が高まった影響で、満州人(まんしゅうじん)Manju(英語ではManchu)の勢力が盛んになった。

満洲人はトゥングース系の言葉を話す狩猟民で、金帝国をつくったもとの女真人(じょしんじん)(ジュシェン)である。金帝国が滅びたのち、満州に残った女真人はモンゴル人の支配を受けた。元朝がモンゴル高原に引き揚げたあと、明朝は南満州の遼東に軍事基地を設け、モンゴル高原と韓半島との連絡を遮断した。遼東の住民の大部分は、モンゴル時代に韓半島の故郷から移住させられた高麗人の子孫であった。その人々の間から、李成梁(りせいりょう)が出て、明軍の司令官を務め、皇帝の信任が厚く、絶大な権力を振るった。日本ではちょうど秀吉が天下統一を果たした頃である。

李成梁の保護を受けて女真人の間で勢力を築いたのが、建州女直(けんしゅうじょちょく)(満州語ではManju、すなわち満洲)の酋長・ヌルハチ(清の太祖)である。1589年までに建州女直の諸部族を統合した。ヌルハチはさらに1599年、縦書きのモンゴル文字(一種のアルファベット)を利用して、自分たちの言葉を書き表す方法を開発した。これが満洲文字で、満州語はこのとき言葉になった。

1592年に日本軍が朝鮮に侵入した(文禄の役)。朝鮮に救援に向かった明軍の司令官・李如松(りじょしょう)(李成梁の長男)は翌年、小早川隆景の軍に大敗した。そして、モンゴルのチャハル部族の侵入を迎え撃って、戦死した。

こうして明の遼東軍の兵力が弱体化したのにつけこんで、ヌルハチは明の国境沿いの諸王国をつぎつぎに併合し、1616年、後金(こうきん)国のハーンと名乗った。これに警戒心を起こした明は、朝鮮にも呼びかけて、1619年、8万余名の連合軍の兵力を動員して、4路からヌルハチの居城に進攻したが、大敗し、その半数が戦死した。

これで明の遼東は完全に無防備になったので、1621年にはヌルハチはやすやすと遼陽(りょうよう)・瀋陽(しんよう)を占領し、この地の漢人を支配した。ヌルハチは1626年に死に、その八男・ホンタイジ(皇太極、清の太宗)が後金国ハーンとなった。

モンゴルのチャハル部族を率いたリンダン・ハーンは、後金国の脅威を避けて、1629年、大興安嶺山脈を越えて西方のモンゴル高原に移動し、途中で天然痘で病死した。

リンダン・ハーンを追撃してモンゴル高原に入った後金軍は、1635年、ハーンの未亡人から元朝のハーンたちの玉璽(ぎょくじ)「制誥之寶(せいこうしほう)」を手に入れ、ホンタイジに献上した。ホンタイジは、この玉璽の到来を、チンギス・ハーンの受けた世界支配の天命が自分にめぐってきた証拠と認めた。また、今後ジュシェンという種族名を使うことを禁止して、マンジュに統一した。さらに都の瀋陽に、リンダン・ハーンの息子をはじめとする、ゴビ砂漠以南のモンゴル人の16部族の49人の代表を招集して、満州人の八旗(八個軍団)の王族・大臣たち、および後金国に降伏した漢人の代表とともに大会議を開き、その決議に基づき、翌1636年、満州人・モンゴル人の共同の皇帝に推挙されて、ダイチン(「大清(だいちん)」、天を意味する)という国号を採用した。

これが清朝の建国である。

こうしてモンゴル帝国の正統は、満州人の清朝に引き継がれ、満州人とモンゴル人の連合政権が誕生した。

このときホンタイジンは、朝鮮国王にも自分の即位に同意を求めたが、朝鮮は日本軍の侵入のときに明朝が救援してくれた恩を楯にとって、拒絶した。そこでホンタイジは自ら清軍を率いて朝鮮に侵入し、翌1637年、ソウルの南に立てこもった朝鮮国王を包囲して、降伏させた。

1643年、ホンタイジが瀋陽で死んで、そのモンゴル人の皇后が生んだフリンFulin(福臨、清の世祖・順治帝)が数え年6歳で跡を継いだ。翌1644年、明朝が滅亡した。明の廷臣たちの要請を受けて、順治帝は瀋陽から北京に移って、紫禁城の玉座に坐った。こうして清朝の皇帝は、満州人・モンゴル人の連合政権のハーンだけでなく、中国の皇帝をも兼ねることになったのである。

降伏した漢人には、清朝は服従のしるしとして、満州風の辮髪(べんぱつ)(前頭部を剃り、後頭部の毛髪を三つ編みにして背後に垂らす)を強制した。漢人の風俗は満洲化した。

一度は明の名において北方騎馬民族の遊牧帝国の手から独立した中国だったが、ここにふたたび、清の名において、北アジア世界の秩序にあらためて組みこまれたのである(日清戦争に際しての敗軍の将李鴻章も、辮髪をしていたはずである)。

以上「モンゴルと中国の関係略史」(1)(2)は岡田英弘氏から直かにご教示をいただいて記述されたが、文責は私にある。

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