河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

渡邊正さん、明美さん夫妻に捧げる

2021-01-22 06:59:54 | 日記
合唱曲 折り鶴 おりづる ~ 平和への祈りを込めて ~


歌声仲間であった、渡邊正さんが、2021年1月7日に亡くなられました。
享年は正確には知りません。65歳くらいだったか・・

私が渡邊正さん(通称なべちさん)を知ったのは、
歌声喫茶にはまり、じきに日野の歌声喫茶に行く様になったからですから、
10年くらい前だったと思います。
なべちさんは、そこで司会者の一人でした。
そこに、なべちさんと一緒にスタッフとして奥様の明美さんがいました。
彼等夫婦はいつも仲良しでした。





私は(私に限らずみんなは)何と綺麗で素敵な女性だろうと思っていました。
なべちさんは、もうその時からスキンヘッドでした。
それは彼が若い頃から重度の心臓病を抱えていて、
その薬による副作用だったのでしょう。
若い時の写真では、勿論髪の毛はフサフサでしたから。

そのスキンヘッドもあって、なべちさんはいわゆる「コワモテ」
それに対して明美さんは、いつもニコニコと笑顔を絶やさない女性でした。

その頃、明美さんは郵便局長をされていたとか。
なべちさんは会社の社長さんですから、経済的には何不自由なくですね。
しかし、重い心臓病の為に定期的に、
日野から新宿・信濃町の慶応病院に通う生活をしていました。
そんななべちさんに明美さんは、
「貴方の最期は私が看取るからね」と言っていたそうです。

しかし、病気というのは何と残酷な事をするのでしょう。
それから数年経った頃、明美さんが日野の歌声に参加されない事が多くなりました。
なべちさん本人からは聞きませんでしたが、
明美さんが、ガンで治療中だという事を聞きました。
でも明美さんは、ある日の歌声にはいつもと変わらない様子で来たりしていました。
ですが、私の妻情報によると頭髪はカツラみたいよ。だったのです。
抗がん剤の副作用だったのでしょう、きっと辛かったと思います。

遂に私達は彼女が最期を迎えてしまった事を知ります。
2016年10月28日。
渡邊明美さんは58歳の短い人生を終えてしまいました。
私は、お通夜と翌日の葬式に参列させて頂きました。
葬儀となると皆さんは(特に身内の方は)カメラを出しません。
それが分っていた私は、葬儀の写真を何枚も撮りました。
もう、これが最後なのですから、涙を堪えて撮りました。





明美さんの棺の横でなべちさんが、
そして場内の参列者全員が唄った歌は、
明美さんが大好きだったという「折り鶴」でした。

私はその様を写真と動画の二刀流で撮ったのですが、
(何故か動画が無くなってしまった)
これで明美さんと一緒に唄う事が無くなってしまうなべちさんの顔は悲壮で、
私は歯を喰いしばって涙を堪えながらの撮影でした。

いよいよ出棺となった時、なべちさんは棺の横で泣き崩れ、
それを見る人達はみな、あまりにも悲しかった。

別れの言葉を何人かが述べたのですが、
全員が言った言葉があります。
それは「明美さんほど笑顔が素敵な女性を見た事がない」
「明美さんの笑顔で私はどれだけ救われた事か」
「あんな素敵な笑顔の女性にもう逢えないのかと思うと本当に悲しい」

本当にそうでした。
私もあんなに、いつも明るい笑顔で周囲の人達を励まし、
元気づけてくれた女性(人も)を見た事はありません。

そんな明美さんがガンにかかった頃に、
私はなべちさんからひとつの頼まれごとをしました。
「明美をキャンプに連れてって」
嬉しかった。
それで、その日の為にと私はキャンプ用の椅子2脚を買いました。

その椅子の出番は中々訪れず、結局その夢は果たされないままで終わってしまいました。
今ではその椅子で私達夫婦はキャンプをしています。
(実を言うと、なべちさん夫妻と一緒のキャンプは、おそらく無いんじゃないか)
というのが本心でした。
でも、心から行きたかった。
何が何でも明美さんにキャンプに行かれる体力になって欲しかった。



なべちさん夫婦には長男、長女のお二人が居ますが、
長女さんはアメリカ人と結婚し、男児がいます。
明美さんの容体がいよいよ切迫し、時間の問題となった時、
娘さんが孫を抱えてアメリカから来日した時、
時間の問題と医者から言われていた明美さんが急に元気になりました。
数日間を共にして、娘さん達がアメリカへ帰る成田空港に向かう途中で、
明美さんは息を引き取られたそうです。

なべちさんは言ってました。
「明美、君は俺の最期を看取るって言ったでしょ、嘘つき嘘つき」

明美さんを失ったなべちさんが私は心配でした。
「この男、自殺するんじゃないか?」

なべちさんが亡くなって彼の部屋に行った方の話では、
明美さんの遺骨がまだ部屋の中にあるし、
部屋の壁中に明美さんの写真だらけだったそうです。
そして、社長業の方も殆ど会社に行かずだったそうです。

やはり、あれほど素敵な妻を若い時にめとり、
愛妻ひとすじだったのですから、
その最大の愛する人を失くした男の悲しみは、回復不能だったのです。
明美さんが居なくなってからの4年2か月は地獄だったのでしょう。

なべちさんは、12月には慶応病院に入院していたそうです。
病院側はなべちさんが一時であっても退院する事は危険だと引き留めたのですが、
正月は家で過ごしたいから一時退院させて欲しいと無理押しでの帰宅。
医者が危惧した通り、なべちさんは容体を悪化させ、
明美さんの居る天国へ、一直線に駆け上って行ってしまいました。
でも、なべちさんはこれ以上は明美さんの居ない世界を、
生きていたくなかったのだと思います。

なべちさんと、明美さんは、きっと天国で、
一緒に、大好きだった「折り鶴」を唄っているのでしょう。
私は思うのです、きっとそれで良かったんだと。


本当に素晴らしいご夫婦でした、さようなら。





コメント
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