ベトナム語でひっしになんか言われたけど、察するにそれつくんの時間かかるから別なのしたら?といわれたんだと思う。でも、ここロッテリアっていうファーストフードだよ?
なんになるんだろう。
こんなところで、こんなことやっててなんになるんだろう。
なんて思うことが時々あります。
暇になればなるほど、そんなことを感じてしまうものです。
別にこっちにいるからじゃないし、いまの仕事をしているからじゃない。
自分の生き方…人生そのものを憂うのです。
なにか大きいこと成し遂げて後世に名を残したいわけでもないし、名を残したところでそれに意味や価値があるようには思えません。
かといって、いまの生活を単調に、ただただ生きていくことになんの意味があるのかもわかりません。
なにかしたいわけでもないし、どうすればいいかもわからない。
なんにもならんけど、ただそれしかできないからやるだけで、途方にくれることしかできない。
楽しいから。楽しいだけでいい。そこに理由なんてない。
そう思って生きていく若さなんてとうにないし、なにか地に足つけた生き方をしていく自信もない。
攻めるわけでもなければ守るわけでもない。
誰かがそれに答えをくれればいいですが、これは自分で答えを用意して、それを信じなければならない話ですから、まだまだ憂い続けることでしょう。
PS サイコガンはえてこねぇかなぁ
こんなところで、こんなことやっててなんになるんだろう。
なんて思うことが時々あります。
暇になればなるほど、そんなことを感じてしまうものです。
別にこっちにいるからじゃないし、いまの仕事をしているからじゃない。
自分の生き方…人生そのものを憂うのです。
なにか大きいこと成し遂げて後世に名を残したいわけでもないし、名を残したところでそれに意味や価値があるようには思えません。
かといって、いまの生活を単調に、ただただ生きていくことになんの意味があるのかもわかりません。
なにかしたいわけでもないし、どうすればいいかもわからない。
なんにもならんけど、ただそれしかできないからやるだけで、途方にくれることしかできない。
楽しいから。楽しいだけでいい。そこに理由なんてない。
そう思って生きていく若さなんてとうにないし、なにか地に足つけた生き方をしていく自信もない。
攻めるわけでもなければ守るわけでもない。
誰かがそれに答えをくれればいいですが、これは自分で答えを用意して、それを信じなければならない話ですから、まだまだ憂い続けることでしょう。
PS サイコガンはえてこねぇかなぁ
スタンフォード大学で1921年から始まった調査で10歳前後の子供1500人ほどを調べた結果、学校で人気者・明るかった子ほど早く亡くなると言うデータが出ているわ。
「人を笑わせる」「人気を集める」行為はとてもストレスがかかるの
天然ボケの人気者はストレスがないため長生きするらしいわ
ATOPさんがリツイート | 119 RT
マイクロUSBの口に一生懸命USBをさしこもうとしている月曜日の朝。お疲れモードですよ、すでに。
Im Namen des Windes und des Wassers, die in dir wohnen, sei frei! そなたのうちなる風と水の名において解き放て! pic.twitter.com/3Nb5gHLEnU
ATOPさんがリツイート | 21 RT
ロボットもので、規則や命令を無視して気持ちで行動するの見るといらっとしていらっとしていらっとしてぇぇぇぇぇぇ!
クラスに掲示する標語をなんにしましょうかという話になって「努力・友情・勝利」にしませんか、とパプワくんのアラシヤマみたいなこといったら、上司に「友情・勝利はいらない」と言われた\(^o^)/
日本でアイドル文化がはなひらいてるなか、アジア全体としてセクシー系ねーちゃんのダンスミュージックみたいなのがバカウケしてる
おっさんの私『なに?ボブ・ディラン流行ってるの?』⇒「ボブディ」流行 水原希子も - Y!ニュース (2015年4月19日(日)掲載) news.yahoo.co.jp/pickup/6157136 #美容と健康
私は大学時代、政治学という、世のひとが「いったい何勉強すんの」と口にする学問を専攻しました。
その内容や、私が専攻といえるほど勉強したかはさておき、私なりに入学前、そして在学中に政治の良さを考えたわけです。
ひとが集団になって生きていこうとしたときに大多数の人間を幸せにする手段や仕組みが政治であり、この世でもっともひとを幸せにできる学問だと思うんです。
ただ問題は目の前にいるひとりの人間を救う、幸せにする力はあまりありません。
あくまでも集団におけるマジョリティーの幸福を実行するノウハウです。
これが政治の欠点かもしれません。
それを思ったとき、感じたとき、政治は無力だなと思いました。
加えて、政治は多数派のための先人たちの知恵であるけども、規則や制度であって教訓ではなく学ぶものがありません。
それによって幸せになるのではなく、それに乗っかって生きれば幸せになれるというわけではない。
実に当たり前のことですが、政治は生き方を教えてくれているわけではなくて、歩いて程度の様々な生き方を保証してくれるだけなんです。
政治はなにも教えてくれません。
そこで私は思ったわけです。
つぎに人を幸せにできるものは何だろうって。
そのこたえは2つ。教育と農業でした。
深い理由はないですが、目の前にあるものをコツコツ積み重ねることで10年後20年後、その結果が実を結ぶという意味では同じな気がします。
なによりも自分の目の届く範囲で自分が思ったようにできるというところが大きいです。
自分ができる範囲で自分が正しいと思えることをする。
政治のように大人数の人間を救うことができなくても、目の前にいるひとりでも救うことができたら幸せであろうと思いました。
ものすごいエゴだなと思うのですが、一個人の私はそれでいいように思います。
大多数の支持や責任を負って生きていいく自信はありません。
それでもなお、ひとが幸せに生きていくことができる空間を作ろうとするなら今は教育しかないと思うんですね。
まぁ、私は信じているわけですよ。
誰に頼まれてやっているわけでもないですが、
私との出会いで何かしらの価値を見出してくることを信じているんですよ。
そして、社会が少しずつ良くなっていくことを。
私にとっても。皆さんにとっても。エゴですがね。
その内容や、私が専攻といえるほど勉強したかはさておき、私なりに入学前、そして在学中に政治の良さを考えたわけです。
ひとが集団になって生きていこうとしたときに大多数の人間を幸せにする手段や仕組みが政治であり、この世でもっともひとを幸せにできる学問だと思うんです。
ただ問題は目の前にいるひとりの人間を救う、幸せにする力はあまりありません。
あくまでも集団におけるマジョリティーの幸福を実行するノウハウです。
これが政治の欠点かもしれません。
それを思ったとき、感じたとき、政治は無力だなと思いました。
加えて、政治は多数派のための先人たちの知恵であるけども、規則や制度であって教訓ではなく学ぶものがありません。
それによって幸せになるのではなく、それに乗っかって生きれば幸せになれるというわけではない。
実に当たり前のことですが、政治は生き方を教えてくれているわけではなくて、歩いて程度の様々な生き方を保証してくれるだけなんです。
政治はなにも教えてくれません。
そこで私は思ったわけです。
つぎに人を幸せにできるものは何だろうって。
そのこたえは2つ。教育と農業でした。
深い理由はないですが、目の前にあるものをコツコツ積み重ねることで10年後20年後、その結果が実を結ぶという意味では同じな気がします。
なによりも自分の目の届く範囲で自分が思ったようにできるというところが大きいです。
自分ができる範囲で自分が正しいと思えることをする。
政治のように大人数の人間を救うことができなくても、目の前にいるひとりでも救うことができたら幸せであろうと思いました。
ものすごいエゴだなと思うのですが、一個人の私はそれでいいように思います。
大多数の支持や責任を負って生きていいく自信はありません。
それでもなお、ひとが幸せに生きていくことができる空間を作ろうとするなら今は教育しかないと思うんですね。
まぁ、私は信じているわけですよ。
誰に頼まれてやっているわけでもないですが、
私との出会いで何かしらの価値を見出してくることを信じているんですよ。
そして、社会が少しずつ良くなっていくことを。
私にとっても。皆さんにとっても。エゴですがね。
不思議なもので子どものときの躾や、学生時代の教えというのは、
当時自分がどんなに煙たがっていたとして、案外心の中に残っているようである。
今でも十二分に当時の気持ちを思い出してみてもいい心地はしないのだけど、
逆に自分が誰かに対して教育する立場になると、
それが拠り所になってしまうのだから面白い。
高校のとき、何の意味を持たなかった「誠実・謙虚・努力」という校訓は今になってなぜか頭をよぎるし、
「暇があるなら掃除しろ」という前職のありがたい教えもなぜか実践できてしまうし、
しかも、それらをまた他人に教えてしまおうとしている自分がいるのだから驚きます。
おそらく私はホーチミン市で一二を争う掃除にうるさい日本人だと思います。
学生はおそらく「おい、あのジャップ、どんだけ掃除好きなんだよ」と思っているに違いないです。
日本語を教える機関にいるにもかかわらず、日本語を話せるようになることよりも大切なものがあるといって、
授業中に携帯電話を鳴らしたバカが出てくるまで一切授業をせず、
2コマ分をぶち抜きぶち切れるという日本人特有のめんどくささを教え込んでいます。
なんにしても、私もやはりひと様に育てられたんだなぁ…としみじみ思います。
当時自分がどんなに煙たがっていたとして、案外心の中に残っているようである。
今でも十二分に当時の気持ちを思い出してみてもいい心地はしないのだけど、
逆に自分が誰かに対して教育する立場になると、
それが拠り所になってしまうのだから面白い。
高校のとき、何の意味を持たなかった「誠実・謙虚・努力」という校訓は今になってなぜか頭をよぎるし、
「暇があるなら掃除しろ」という前職のありがたい教えもなぜか実践できてしまうし、
しかも、それらをまた他人に教えてしまおうとしている自分がいるのだから驚きます。
おそらく私はホーチミン市で一二を争う掃除にうるさい日本人だと思います。
学生はおそらく「おい、あのジャップ、どんだけ掃除好きなんだよ」と思っているに違いないです。
日本語を教える機関にいるにもかかわらず、日本語を話せるようになることよりも大切なものがあるといって、
授業中に携帯電話を鳴らしたバカが出てくるまで一切授業をせず、
2コマ分をぶち抜きぶち切れるという日本人特有のめんどくささを教え込んでいます。
なんにしても、私もやはりひと様に育てられたんだなぁ…としみじみ思います。
いつだったかなぁ。
何のときだったか。
…。
たぶん、就活のときだったと思います。
人事が何を見ているか、という話で最も重要なのは「誠実さだ!」と、某IT系ニュースメディアの人事の方がおっしゃっていたと記憶しています。
その時は「ふーん」程度な感想というか「当たり前なことをなにを」と思っていた気がします。
でも、実際社会に出てみるとそれを実感します。
自分が当時思っていた以上に世にいる人間は不誠実で、常々自分に降りかかろうとする火の粉を振り払い、その火の粉を周りにばらまいたり、
わたしには関係ないと決め込んだり、悪いと思っていても謝らず逆切れしたりもします。
正直な人間がバカを見るような部分が絶対的にあるわけです。
「なにをそんなことを」「いまさら」
と長らく人生お楽しみいただいているみなさんは思うことかもしれません。
そうなのである。
誠実であろうとすることは、うまく生きていくこととは違うんです。
残念ながら。悲しいことに。
でも。
私は思います。
誠実さよりもこの世で尊いものはないであろうと。
誠実さは、ときに愛というものよりも高貴で、そのひとたらしめるものであると思うのです。
そのひとの能力やスキルではなく、そのひとの味というかひととしての深みがでる部分であろうと。
いま、ひとを教育する立場にあって思うのです。
能力やスキルを向上させることはうまく生きることの手助けになりますが、誠実さや謙虚さを身につけても金にはなりません。
でも、大切なのはスキルやノウハウを身につけることではなく、本当に大切なのはどういったスタンスでそれを活かすのかだということ。
もちろん、ひとによってその価値をとらえ方が違うので、どういうスタンスでいようと関係ないことなのだろうが、
それでも私は、誠実さによって手にする周囲からの信頼や期待に勝るものはこの世にないと思うのです。
誠実である人間を揶揄する人間は腐るほどいるが、全面否定する人間はいない。
私自身、誠実であろうと思うとともに、それをいかに学生に教えられるか最近は思います。
何のときだったか。
…。
たぶん、就活のときだったと思います。
人事が何を見ているか、という話で最も重要なのは「誠実さだ!」と、某IT系ニュースメディアの人事の方がおっしゃっていたと記憶しています。
その時は「ふーん」程度な感想というか「当たり前なことをなにを」と思っていた気がします。
でも、実際社会に出てみるとそれを実感します。
自分が当時思っていた以上に世にいる人間は不誠実で、常々自分に降りかかろうとする火の粉を振り払い、その火の粉を周りにばらまいたり、
わたしには関係ないと決め込んだり、悪いと思っていても謝らず逆切れしたりもします。
正直な人間がバカを見るような部分が絶対的にあるわけです。
「なにをそんなことを」「いまさら」
と長らく人生お楽しみいただいているみなさんは思うことかもしれません。
そうなのである。
誠実であろうとすることは、うまく生きていくこととは違うんです。
残念ながら。悲しいことに。
でも。
私は思います。
誠実さよりもこの世で尊いものはないであろうと。
誠実さは、ときに愛というものよりも高貴で、そのひとたらしめるものであると思うのです。
そのひとの能力やスキルではなく、そのひとの味というかひととしての深みがでる部分であろうと。
いま、ひとを教育する立場にあって思うのです。
能力やスキルを向上させることはうまく生きることの手助けになりますが、誠実さや謙虚さを身につけても金にはなりません。
でも、大切なのはスキルやノウハウを身につけることではなく、本当に大切なのはどういったスタンスでそれを活かすのかだということ。
もちろん、ひとによってその価値をとらえ方が違うので、どういうスタンスでいようと関係ないことなのだろうが、
それでも私は、誠実さによって手にする周囲からの信頼や期待に勝るものはこの世にないと思うのです。
誠実である人間を揶揄する人間は腐るほどいるが、全面否定する人間はいない。
私自身、誠実であろうと思うとともに、それをいかに学生に教えられるか最近は思います。