気持ちの結果というか、形が決まっているだけで、根拠なり拠り所なりを失ってしまって、直接会えないのって考えていたよりきついのかもしれないって思い始め、そう考えると中途半端な関係に留まってるの結果的に良かったのかもしれない。
そんなことを憂鬱になって考えていると、やはり一緒にいた時間が短すぎたなぁーと馬鹿丸出しの当たり前の感想を思っていたんですが、ふともらったプレゼントを思い出したら、あーそういえば一緒にタワー登って景色見てたなぁと思い出して、確かに相手を感じることができたんですね。
あれですね、案外写真って大切なんだなって、思いました。そこにだーれも写ってない何てことない写真なんですけど、それを静かになにも話さず、ずっーと一緒に見ていた思い出がしっかり思い出されることにビックリしました。
もらったときは正直「なに寄越してくれたの?」って思ったんだけど、いま考えてみるとこれ以上のものもないよなって思う。すんごく嬉しい気持ちになれたのが、今日一番の話題。
そんなことダラァーっと思っていたら、ちゃんと向こうについた連絡が来ました。たぶん、私だけに送られたメッセージじゃないんだろうけど、ちゃんと送ってくれたことにも嬉しくなったけど、きっと向こうじゃてんてこ舞いなんだなと思ってそっけない態度をとった自分はバカ。
そんで時間がたってから、また向こうから連絡来て、日本いってから読むように渡していた手紙のお礼を言われた。さすがにものを渡しすぎてもどうかと思っていたから、商売繁盛や新しい環境でうまくやれるように、我々の関係がいい方向へ向くように5円(ご縁)玉もあわせて入れといてあげた。
どうやらそれも大切にしてくれるらしい。なんてことない5円なのにね。そういうことをちゃんとしてくれるところが堪らなく愛おしいと思う。またゆっくり話せるときにちゃんと伝えてあげられたらと思います。
ベトナムのカップルでよく見るのは、不機嫌な彼女を彼氏が無理やり抱き寄せて語りかけたり、キスしたりしてなだめよう?としている光景。それ、逆効果じゃね?と思うのは日本人だからか。
リスクねぇ…損得で考えてしまうと、圧倒的に損なんだろうなって思うけど。ただ、自分がこれ以上失えるものがあるのかわからないですからねぇ。
いくらよい球場と道具とコーチがそろっていても、地道に練習を積まない人はやはり駄目です。「アメリカに行けば、英語くらいは自然に」と思っている人は多いのですが、それが幻想であることに直面するケースが増えてくるでしょう。
國弘 正雄
こんなこと呟いて、logにしとく必要もないのだけど、きっと忘れるから、書いておこう。正直、送り出すときはなーんも思わなかった。というか、自分のたち位置が謎過ぎて、なんていって送り出すか、なにしてやったらいいかわからないから、ふつー?に送り出してしまった。
元同僚なのか、友達なのか、恋人なのか、互いにはっきりしないものだから、なんか不思議な感じで、相手のご家族さんから怪訝そうな眼差しを頂き、お祖母さんに「お前さんいくつだ?」「29?」「結婚してんのか?」「してないのか?早く結婚しろ」と彼女に通訳してもらう珍事に笑ってしまった。
送り出す前から「また会えますからね」と会う約束してるから、なんも心配がないと本気で思っていたわけだけども、今日になってみて、相手はどーかわかる術ないけど、そもそも自分が大丈夫なのかっていう不安がわいたわけで。
早い話、いまは自分の気持ちがどこからやってきて、どこへ向かっているか、はっきりしているけど、半年近く会わなければ、だんだん分からなくなってしまう気がしました。冷めるっていうか形骸化してしまう感じ。
旧時代的な手紙というものから始まり、電話、メール、SNS、メッセージ。
どこにいたって何らかの手段で、誰かとつながれるという幸か不幸かわかりませんが、ありがたい時代になっております。
どの手段にしてもメリット・デメリットが存在し、使い方を間違えて大やけどをする…そんな経験が誰にもあると思います。
最近思ったのは、やはり直接会って話すほど効果的なコミュニケーション方法はないと。
それって一番めんどくさくて、勇気が必要で、エネルギーを使うんですけど、
面と向かってでしか伝わらないことってやっぱりあるんでしょうね。
活字にして、字に起こして、相手にいくらでも送ることができても、十分には伝わらないわけで…。
日本人同士なんかまた書く文化、文章にする文化の人間だから、
いわゆる「行間を読む」ことや「推して図るべし」というのが通じたりもしますが、
これやっぱり日本人同士だけです。
それにそれ、ブログをやってる私が言うのも変な話ですが、すごく疲れます(何。
やはりですよ、相手の顔を見て話すことは大切だと最近思うのです。
便利な手段に頼るだけではなく、コミュニケーションの基本に立ち返ることも大切ですね。
私は外国という見知らぬ土地へ出て、周りに対して素直になれるようになった気がします。
前にも書いたことですが、外国人と話すとそれが日本語であっても外国語であっても、
伝わりにくい表現を避けて、伝わりやすいように話したり、ストレートにいったりすることが多くなったからかもしれません。
それもあると思うのですが、それでも日本にいた時の心の持ち様と、今の心の持ち様には差があると思います。
今の私の素直さというのが、簡単に言うなら、意識高い系のひとたちがいう「あるがままに」みたいな境地なんでしょうけど、
なんていうか、私なりに言えば精神的に全然急がなくなった。
これを「スローライフ」と言ってしまえばそれっきりなんですが、
自分が社会において異物だと思ってしまえば、他人に対して優しくできるというか、許せる人間になれる気がします。
そうすると向き合う対象が社会とか、周囲とかではなくて、自分の気持ちの持ち様に集中できます。
日本にいれば絶えず社会の中で自分の立ち位置を探ったり、聞きたくもないうわさや情報が舞い込んできて、
その話に一喜一憂したり、疑心暗鬼になってしまうように思います。
言葉や習慣が通じてしまうからこそ、とにかく情報が入ってきてしまう、情報過多に陥って、正直疲れるんですよ。
それが外国に来るとなくなるんです。
そして、自分のできる範囲で、自分のことに集中できるような気がします。
いままで駆け引きや社会的立場から、他人に対して興味や意識がいっていなかったのが、
こっちへきてからそれが駆け引きなく、純粋な気持ちで人と接せるようになったと思います。
ただ、もちろんのこと、上記のとおり、私の周りのベトナム人が私に対してどう思っているかさっぱりわからないですけどね。
きっと「能天気な親切な日本のデブ」って思っているのかもしれませんが、
彼らがいつか私が日本人社会では「細かいことにこだわりすぎてめんどくさいデブ」と思われていることを知る時が来るのかはわかりません(何。
閑話休題。
それでもね、誰かに対して優しくなれたというか、それは結果としてそうなったわけですけど、
変にとがらず生きていけるようになったことは私にとって幸せなことだと現時点では思います。
Japan hooker Shota Horie rever pass #rugby #RWC2015 #RSA #JPN #RSAvJPN vine.co/v/eULvUJMgKMX
Absolutely speechless...
What an effort @JRFURugby #BraveBlossoms in their first-ever clash vs the @Springboks pic.twitter.com/dFwmjpexWt
#JPN send shock waves around the world.
The mighty #RSA are beaten bbc.in/1UWfFzr #RWC2015 pic.twitter.com/NONmWQ5uHz
仕事にしたって恋愛にしたって、もちろんのこと政治にしたって、話をすること以外に平和的な解決はないですね。
話すことでしか、ひととひとが互いに理解し合う方法はありません。
それは非常に苦しい作業でもあります。
家族であったり、兄弟であったりしても、分かり合うことは難しく、
それを赤の他人や、ましてや、国や文化が違う人と分かり合うことはなおさら難しいです。
大変時間がかかることです。
話せば話すほど相手のことが分からなくなってしまうかもしれません。
大変もどかしいことです。
最終的に分かり合うことなんて無理なのかもしれないと絶望するかもしれません。
これは誰一人として例外ではなく、私ですら不安なことです。
「自分のことを理解してもらえない」という不安。
「自分が言ったことで相手に誤解を与える」不安。
「いつか相手に対する理解や忍耐に限界がきてしまうかもしれない」不安。
すれちがっていってしまう不安。
不安が不安を呼び、話し合うことを恐れてしまう。
人間関係の破たんは、そこにあると思います。
そんなときどうすればいいのか、いまだに私もいい答えや方法を見つけられていませんが、
最近思うのは、「信じること」しかないのではないかと思います。
「きっと分かり合える」と自分を信じること。
「きっと分かり合える」と相手を信じること。
価値観や、言葉や、文化に差があって、どんなに時間がかかったとしても、
きっと互いに落ち着けるところがあると信じ、話すことをやめないことが大切なんだと思います。
話すことや分かり合うことをやめたり、あきらめてしまったりすることも簡単だし、
他人とかかわりあうことをやめてしまうことすら簡単にできてしまいますけど、
そこまで自分の生き方や価値観がご立派ではないのだから、
もっと他人や相手を信じて、話すこと、語り掛けること、時には待つことも、
人生を豊かにする方法なんではないかと最近思いました。
いまの日本の政治状況を見て、何がいやだって考えたら、逆シャアのクエストとハサウェイと、チェーンのやり取りみたいだからだ。
行きつくところまで行って、共産的な考えを選択してしまうのは構わないが、今の社会はそこまでたどり着いていないし、民主主義の否定というか現状の社会制度すら否定していこうとする動きは本当に怖いと思う。
是正ではなく、革命なり、改革というのは痛みを伴うことを知っているはずなのに…そこに一歩踏み出してしまえば、今までの歴史や文化や価値観を根こそぎ闇に葬ることになる。それはいやだな。
いいじゃない、私だって時々不安なこと言ったって、弱気になったって…と思うのだけど、まぁここら辺のやりとりが一番いじらしいのかもしれないけど
ここ数年めずらしく日本の政治は熱い。
日本人の関心が案外、憲法9条というか、平和主義に向いているのが意外ではあります。
まぁそれが国民の関心なのか、学者やマスコミの関心なのかはわかりませんが…。
私なんかはもう日本にほぼ住んでいないものだから、国政に意見はほとんどないですし、意見を持つべき立場でもないのかなとも思います。
はっきりいってしまえば無責任です。
ただ思うのはですよ、日本の国会にしても、左翼にしても右翼にしても、やり方がダサい気がします。
特に左翼側。(この場合、形式的に右翼左翼と書きますが、もっと実情はこまごまとしているのは承知しています)
対案を提示しろという右からの意見に真っ向勝負しすぎだと思う。
そもそも現在問題となっている法案に対して論理的に「違う」と思ったのではなく「なんとなく」思ったのだから、
彼らが対案なんぞ用意できるわけもなく、それを考えるのは政治家や学者に任せておけばいいと私は思う。
要は、政治とはイメージ戦略であり、人間の汚い感情と実情の需要と供給なのだから、それっぽければいいんじゃないかと思うわけ。
それをみんながみんな揃って、プラカードだ、横断幕だ、拡声器だと旧時代の遺物のようなものを持ち出してきて、
本来目指そうとしている理想を実現するために、その理想に反した行動に出ていて私の中では非常に印象が悪い。
なんだろうな…この際、何も言わずに花が一輪植わった植木鉢もって、無言で講義するとかのがいいと思う。
お互いわめきあって警察のお世話になるって、どう見たって構図が悪い。
こういう時こそ非暴力、平和への切実な願いを示そうとできない左翼というか、日本の若者にはがっかりです。
彼らが無党派と無支持・無関心の国民の心をとらえるというか同情を誘えるとはどうしても思えない。
力任せに声をあげ、街を練り歩く姿に、仕事で忙殺されている末端の日本国民は勇気づけられない。
もちろん、声を上げることが重要なのはわかっているんですけど、なんかな…
いつの時代も先祖帰りしてしまうものなんですね、政治って。
あ、日本だ (@ 成田国際空港 (Narita International Airport) (NRT) in 成田市, JP) swarmapp.com/c/iYJHzsduzb7 pic.twitter.com/5JDEjhTLOU
皆様!「カードダス情報局第3回」がアップされたダスよ~!超斬新なオープニング演出は必見ダスッ!!!knight-gundam.com/reservation/mo… #カードダスクエスト #SDガンダム pic.twitter.com/I0Vh30nFkz
空港まで一時間かかる奇跡\(^o^)/でもまたこっからが長い swarmapp.com/c/eQ4GAcj1mHP pic.twitter.com/IjO59HVGNK