俺もお前も人生の敗北者

とりあえず否定から入るネガティブ思考で常にB級嗜好なATOPのブログ

うまいへたではござらん

2015-04-03 21:23:36 | 勉強
私は一応、語学教師という職業についているわけですが、以前から申している通り私が語学が嫌い。

苦手なのじゃなくて、嫌い。

そんな矛盾した人間が語学教師をしています。

私は学生に対して『別に下手でもいい』という気持ちを持っています。

正直いうと、それは私自身の言い訳です。

私が外国語の習得が下手くそでもいい…

つまり私が英語やベトナム語が下手でもいいという言い訳、逃げ道を用意しているだけです。



ですが、私が思うに異文化コミュニケーションにおいての言語の役割ってそんなに大きいか?ってことです。

上手に話せるに越したことがないですが、それよりも下手でもいいからコミュニケーションを取り続けることの方が大切だと思うことが多いです。

つたない語彙で話しかければ、相手に笑われるかもしれない、それって恥ずかしいって思うでしょう。

でも、私はそれでいいと思いますし、それしかできないのだからそれ以上のものなんて、ねだってる場合じゃないです。

まずはそこがスタートだと思うんです。

それに初めて出くわしたとき、自分の言葉の稚拙さに気付き『あ、もっと上手になりたい』『上手にならなきゃ』って思うんです。

その繰り返しです。

ネイティブじゃないんだし、いつまでも下手でいいんです。そう思います。

別に言語を習得したから勉強しているのではなくて、コミュニケーションを取りたいからその手段として言語を勉強しているんですから。



こんなこといってると、方々から批判されるのですが…まぁあれです。

私の少ない人生経験で申しあげるのも恐縮ではありますが、手段が目的化した時のくだらなさは堪らないし、苦痛ですよ。

それにさ、話すが上手な人よりもさ、下手でも一生懸命話そうとしている人間の方が信用置けるじゃない?



でも、考えてみれば私のつたない英語をずっと聞かされ続けている大家さんは少しうんざりしているかもしれない。

『こいついつまでも上達しねぇな』って。

まぁ当たり前ですよね、英語に関しては上達する気が全くないのですから(何。

そのかわり少しずつではありますがベトナム語はできるようになってきているのでござるよ。

決してペースは速くはありませんが、拙者は拙者のできる範囲でじっくり学んでおるのでござる。

だって、語学嫌いだし。



でもね、人間って言葉の良し悪しだけで人を判断しません、きっと。

語学力のうとさをコミュニケーション能力でカバーですよ。

ニコニコ笑ってごまかしたり、貢物を用意したり、「私はバカです」とさらけ出してみたり。

というか、何度も言いますが、下手だからといって萎縮してしまったら、一生下手なままなんですよ。

下手でもいいから話さない限り、相手も、私もなにも変わらないのです。

私から見た私もいつまでもへっぽこ英語の日本人で、向こうから見ても私はへっぽこ英語の日本人でしかありません。

でも、語学力が劣るならそれ以外のところで補えばいいのです。

そうするとへっぽこ英語の日本人から、へっぽこ英語だけどなんか良い感じの日本人に昇格します(何。



私が問題とするのは語学のうまい下手よりも、異文化にいる相手に対してなにを伝えたいかということです。

語学が下手でも相手を喜ばせること、悲しませること、どちらもできてしまいます。

そういうことに言葉は要りません。

どんなに文化的な差異があろうとも、コミュニケーションを取り続けること以上の手段はないと思います。

その立場からしてみれば言語なんてちっぽけ。

だから、『下手でもいい』と私は思うのです。

『下手でもいい』から、困ってるなら困ってることを死ぬ気で伝えればいいし、嬉しいならその喜びを全身で表現すればいい。

そのことの方が語学が上達することよりも大切なんじゃないかって私は思います。

あくまでも、私は。



そんな考えで教壇に立っていることもあり、厳密さを重んじる業界にあって、だいぶぬるい講義をしていると思います。

このぬるさが学習意欲を促進していない気もするのですが、それは私以外の先生がやってくれると思うので気にしないことにしています。

からかう

2014-06-17 21:29:25 | 勉強
【からかう】ワ行五段(G1)
意味:相手の嫌なことをして、喜んだり楽しむこと
これ意味としてはすごい分かりやすくて、それ以上でもそれ以下でもないのだけど具体的どんなことが『からかう』なんですか?という話になって
私が
「例えば、私の友達が私に『相変わらず足が長いね!』といって楽しんでいるときがからかっているときですね」
といったら
先生が
「それ、随分高度なからかいですね。普通からかうのって、例えば、だれかクラスの友達に『お前、〇〇のことすきなんだろ?ヒューヒュー』みたいなときがからかうの一般的な例じゃないですか?」
と言いました。
え、それが普通なのか?
そんなことより、禿に向かって「今日も輝いてますね」みたいなのが一般的だと思うんだけど。

っぽい

2014-06-03 15:24:05 | 勉強
【ゆるい日本語授業】『Nっぽい』
働き:名詞につき、形容詞に変える
意味:Nではないが、Nの要素が強い

【例文】
合コンで…
女「わたし、電車がなくなるので帰ります」
男「それ嘘っぽい!」(嘘ではないが嘘の要素が強い)

※「Nくさい」と互換性があるが「Nくさい」は修飾する対象に対して悪い印象を抱いているときしか使えない。「Nっぽい」はいい印象でも悪い印象でも使える。だから、この例では「嘘っぽい」という表現に男性の善意と悪意が介在していることが推測できる。

いつの間にか知らず知らずのうちに

2014-05-30 21:13:55 | 勉強
一番簡単な意味的使い分けは
「いつの間にか」は『いつか分からないあいだに』
「知らず知らずのうちに」は『なぜかわからないあいだに』

○いつの間にか桜が咲いた。
×知らず知らずのうちに桜が咲いた。
○いつの間にか雨がやんだ。
×知らず知らずのうちに雨がやんだ。

○いつの間にかダメ人間になった。
○知らず知らずのうちにダメ人間になった。
×会社を辞めてから、いつの間にかダメ人間になった。
○会社を辞めてから、知らず知らずのうちにダメ人間になった。

○いつの間にか日本語を覚えた。
○知らず知らずのうちに日本語を覚えた。
×日本にいたとき、いつの間にか日本語を覚えた。
○日本にいたとき、知らず知らずのうちに日本語を覚えた。

でも、もっと厳密な文法的な一説では

◎いつの間にかダメ人間になった。
〇知らず知らずのうちにダメ人間になった。
◎知らず知らずのうちにダメ人間になっていった。

「いつの間にか」は変化の結果を言いたいときに用いて
「知らず知らずのうちに」は変化の過程を言いたいときに用いる。

加えて

「いつの間にか」は必ず発話者にとって『知らないあいだに』を意味するが、
「知らず知らずのうちに」は対象にとって『知らないあいだに』を意味する。

いつの間にか田中さんが泣いていた。
知らず知らずのうちに田中さんが泣いていた。

前者は私が知らいないあいだに田中さんが泣いたことを意味していて、
後者は田中さん自身知らない(気付かない)あいだに泣いたことを意味している。

最初の

○いつの間にか桜が咲いた。
×知らず知らずのうちに桜が咲いた。

で後者がダメな理由は、桜が桜自身気付かないうちに咲くという状況はおかしく、
桜は意識を持っていないのだから気づくも気付かないもないので『知らず知らず』は用いない。

食べるのか飲むのか

2014-04-04 18:54:24 | 勉強
前回「すする」について書きましたが、その続きを。

スープは「食べる」のか「飲む」のか。

一般的にはスープは「飲む」ものらしいですが、僕個人的に感じることですが20代以下は「食べる」も「飲む」と同等に使っているように思います。

(英語では「eat」を使うので英語圏の学習者は「食べる」を使ってしまうそうですが)

僕個人の場合を見ても、味噌汁でも「食べる」を使いますし、スープにも使いますね。

具が多いか少ないかが「食べる」「飲む」の境界があるそうです。

一般的にはシチューや味噌汁は具が盛りだくさんなので「食べる」を使う感覚が強いらしいですが、コンソメスープとか具がないものは「飲む」を使う感覚が日本人にはあるそうです。

でも、僕はあまりそこは問題じゃないような気がします。どっちかというとスープであろうとメニューの一つだと捉えているので「食べる」を使います。

とくにこれを書く場合は顕著で、「今日は話題のスープを飲んできました」みたいな文章は書かないですね。

やっぱり「今日は話題のスープを食べてきました」か「今日は話題のスープをいただいてきました」って書くと思うんですね。

加えて誰かに聞く場合には「飲む」を使わない。

「もういっっぱいスープ飲みますか?」

と質問するかといったら、たぶんしない気がするんですよね…。「もういっぱいスープを食べますか?」って聞く気がするんですよね。

これをクラスで討論すると若い世代になればなるほどその傾向が顕著でした。若い世代はスープものを「食べる」と表現することにあまり違和感がない傾向。

原因はいくつかあると思うんですけど、やはり若い世代ほど欧米文化に浸食されている(言語的に)。言語表現に無頓着。

欧米文化と日本文化のせめぎあいということではなくて、単に自文化もなければ多文化もないから単純な表現しかしない無頓着さはあると思うんですね。

「すする」をつかわなくて「食べる」で良くないか?といったように。逆に「すする」っていった方が粋かも!?みたいな空気すらあるような…。

それに僕が単純に思うのは、飯屋のメニュー表見ると日本語でスープの欄にあって、スープの欄は食べ物の欄にあって、飲み物の欄にないですよね。

これが決定的な影響を与えているんじゃないかなぁとか思うんですよねぇ。

すする

2014-04-03 15:11:35 | 勉強
先日、模擬授業をしていて「すする」という動詞を教える機会があったので、今日はその話を。

基本的に食事に関係する日本語の動詞ってそんなに多くない(でも英語よりは多い…かな)。

初級日本語で学ぶのは「食べる」「飲む」「かむ」「吸う」の4つです。

あと我々が使う動詞としてはさっき書いた「すする」、ほかに「なめる」「かじる」「吐く」とかがありますが、中級に現れるのが「すする」。

「すする」という言葉の意味は「液状のものを吸って食べる行為」なんですが、これが非常にあいまいです。

まず液状の定義があやふやであること。

僕らはどういうときに「すする」を使うかを考えてみますと、味噌汁を「すする」といいますよね。

あとどんなときに使うかで、僕が思いついたのは「ラーメン」でした。我々日本人は麺類を食べるときに「すする」んではないかと思ったわけです。

が、しかし。

この感覚は世代によってどうやら違うらしいです。麺類はすするといわない世代もいるそうです。若い世代はまぁいいますし、比較的男性が。

加えて、この「すする」という動詞は日本の食べ物には使うけども、海外の食べ物にはあまり使わないという要素を持っています。

「すする」は「液状のものを吸って食べる行為」に隠された結果があって「音を立てて食べる行為」があって、これをがあるせいで近頃「すする」を使う頻度がますます下がっています。

これが外国人にも理解されにくいし、我々日本人の中でも若い世代では「すする」という表現を避ける気配があるんじゃないかと僕は思います。(※ラーメンの場合は若者が比較的使うのに…これもまた不思議)

まぁ年代関係なく、スープに関してはあまり「すする」を使わずに言うことが多いですかね。

もしあなたの家の隣にラジカセ担いで踊るようなラテン系の外国人一家が引っ越してきたら

2014-03-31 20:07:31 | 勉強
しばらく前に移民について書きましたが、先日、定住外国人に関する講義があったので今日はそれについて書いてみようと思います。

昨今、みなさんもご存じのとおり「少子高齢化社会」に拍車がかかっていることと、人材移動の「グローバル化」もともなって外国人が日本へ来て仕事をするというケースが増えてきています。

以前にも増して日本社会の要請と外国人の希望がマッチングし始めていることですね。

ただやはり、その割にそれを受け入れる日本側のシステムがほとんど改善されていいないというところに問題があるというのが抗議の肝でした。

一番の問題はお金と気持ちの問題。

日本語を話せない外国人を含め、海外から人を呼んで彼ら自身のみではなく彼らの家族を含めて、税金を負担して枠組みを作る覚悟があるかどうか。

それにつきます。

まぁほかにも既存の日本人の雇用はどうなる?とかいろいろあるんですが、それも含めて受け入れる覚悟をしたときに日本社会に必要なものは何か。

外国人に受け入れるにあたって色々なものを多言語化しないといけないという発想がまず第一にきます。

とあるところの調査によると現在日本にいる外国人をすべてを網羅する言語の数って約190も必要らしいです。

そんなに言葉の違う人たちがすでに日本にいるということ自体衝撃だけども、正直190用意するなんて無理ですなぁ。

じゃ、英語と中国語とスペイン語、フランス語あたりで考えますか?という意見が次に出てきます。

ただここで問題なのは言語話者の人数が多い少ないで社会から突き放していいのかというのが問題になります。

本来は人数が少ないから用意しなくていいという話は本来多言語化社会の構築に相反するとは言わないまでも、関係のないことです。

ちなみにですが、広島市での調査で定住外国人に「一番知っている言葉は何語ですか」という調査をしたら、3割が日本語と答え一番多かったそうです。

正直英語を用いましょうといったところで日本人がまず英語に対応できないので、まぁ現実的に多言語化社会の実現は無理そうですなぁ。

根本的に今まで、今でもかもしれませんが日本社会に入るためには日本語ができないと話になりません。

そんでもって日本人が暗黙で感じていいるのは「日本語を話せる外国人だけ仲間に入れよう」という感触は確実にある。

現実、日本語ができようができまいが本人の能力とは全く関係ないけど、我々日本人は外国人が日本語を話せることを強く要求していたり、評価しているわけで、多文化共生とは逆行した暗黙のナショナリストといっても過言ではないかもしれません…。

まぁそこまでいわなくても、基本的に日本人は日本語が通じないとわかった瞬間の諦め方は尋常じゃないですね。

マンションの隣の部屋にラテン系の家族が引っ越してきた時なんてたぶんヒステリー起こす可能性が高いです。

…そう考えると移民とか無理じゃないですか。

そもそも今現在の日本の地方公共施設はどうしのいでいるのか不思議ですらあります。

市役所に日本語話せないひときたら、小学校に日本語を話せない子供がきたら…ああ、恐い(何がというのはこの際伏せます)。

ちなみに僕今回初めて知ったんですけど、外国人のこどもって小学校中学校に退学届って提出できるそうですね。

そうやって放置すると全く学歴のない定住外国人が生まれるという構造が日本にはあるそうです。

伝えたいことと教えたいことと現実と音楽2

2014-03-27 18:05:11 | 勉強
さて、前回日本の音楽について書いたわけですが、すこし邦楽の特徴を自分なりに考えていました。

ふだん何気なく聞いているので、歌詞カードを見返すことということがほとんどのひとがないはず…?

ましてやわざわざCDを購入して、歌詞カードやライナーノーツを読むということはこのご時世あまりないのではと思います。

それはともかくとして、邦楽の歌詞を読み返してみても「ああ、なるほどこういう意味か」「ここで韻を踏んでるんだ」と思いますが、これは何気なく我々は理解していることです。

何気なくとはどういうことか。

日本の歌は究極の省略形で書かれているにもかかわらず、我々ネイティブの日本人はその意味を理解していて、できています。

我々日本人が洋楽(主に英語)の歌詞を翻訳したとき、理解できるのは辞書通りの意味に訳せるのに加えて、形式であっても必ず主語があってものごとの関係性を確認しながらストーリーを追うことができます。

しかしながら、日本語の歌がとことんそこら辺を省略されていて、倒置が勝手に起きて、文末を省略し、連体修飾語の複雑さも加わって、いわゆる行間の意味とりが非常に難しいんではないかと思ったんです。

なんの曲でもいいので邦楽の歌詞を見てもらうとわかりますが、よくよく詞を読んでみるとそれは誰が思ったことなんですか?というフレーズのオンパレードです。

これを教えるって相当エネルギーを使う気がして、日本語教育の一環で邦楽を導入するって結構勇気がいるんじゃないのかっていう気が…。

でもまぁきっとこれ、行間というか省略されている主語や述語、突然起きる倒置とかを理解するのが、日本語学習の中級から上級へのステップアップに必要なことなんだろうなぁ。

伝えたいことと教えたいことと現実と音楽

2014-03-25 22:05:35 | 勉強
さて。語学学習の定番?かもしれませんが、本日は音楽について。

みなさんも、英語・英会話の時間で洋楽を聞くという経験があったと思います。

僕も殊勝なことに大学4年生の時に洋楽をずっと聞きつづける授業を受けていたものです(何。

んで、その効果とはなんなのか?というのを今一度授業を通して考えていました。

教科書通りに言えば、その言語の文化に触れられて、かつモチベーションを上げる効果があると…。

本当にそうなのかは僕の中では疑問がありますが、一応そういうことらしい。

まぁひとそれぞれだと思いますが、その効果があるとして授業に音楽を取り入れるのですが、日本語を学ぶひとたちに聞かせる音楽は何がいいのだろうと。

実際、海外まで名のとどろいている日本のミュージシャンがいないような気がするのと、もう一方で聞かせたいミュージシャンもいない。

根本的に自分が音楽に疎いからというのもありますが、これといってぴんと来ません。

そりゃぁそうですよね、東京五輪開催が決まって誰か有名なアーティストっていましたっけ?と誰もが思ったことで、某プロデューサーが理事になっただけで皆の中にある「それじゃない」感。

これが日本語の授業をするにあたってどのアーティストを選んでも「それじゃない」「これじゃない」感、満載です。

日本で今はやりの音楽はこれですよ、と勧めたくなる曲もさっぱりであり、これが日本人ならみんな知ってて皆さんも聞いたことありますよね?みたいな曲も心当たりなし。

ほんとうに日本文化ってブランドとして魅力があるのだろうか…という疑問すらわく始末。

ただここで対象者をアジア圏学習者に限定すると、我々日本人(特に音楽に疎い僕のような人)が思っている以上に日本の音楽を知っているそうな。

「嵐」をはじめとするジャニーズ系アイドル、「福山雅治」、「いきものがかり」あたりが有名らしいです。

ただなんていうか、こちらから積極的に聞いてみてくださいというスタンスで行きづらい気もしますが、無難なところらしいです。

書くことについて考えましたが特に意味なし

2014-03-20 01:40:54 | 勉強
前回の作文授業の話の続きで、文章を書く技術というのはどうやって身に着くのかを授業で考えていました。

先生が「文章を書くとき、プロットみたいなの用意しますか?」と聞いてきました。

んー、僕の場合はプロットを用意することはほとんどないですなぁ。

分量とか手書きかパソコンかでも違うと思うんですが、だいたいの文章はあらすじや箇条書きをしないで一発で書き上げることが多い。

でも、考えてみるとそれが最初からできたかといえばきっとそうじゃないんですよね。

中学高校の阿呆みたいな毎週出される感想文の嵐みたいなものや、大学の時の新聞部の活動で書きまくっている経験がそうさせているのだろうし。

それに本を読んでいいる量も関係していると思います…たぶん。

なんていうか「書く」という作業は「話す」という作業よりも技術性の高いもので努力すれば身につくように思うんですね。

たくさんの文章を読んで『ああ。こういう使いまわしや構成があるんだ』というのを理解して、あとはひたすら実践。

話すことよりも実践のハードルがものすごく低いし、なんせ一方的に書くだけだから。聞いてもらうことの緊張はないし、ジェスチャーや表情も必要ない。

ただまぁ話すことは話すことでしか上達しない同様に書くことも書くことでしか上達しないというのはあると思います。

最初はツイッターとかフェイスブックレベルの文章量でいいと思うし、書く上でテーマは何かを紹介する文か感想文にして、一番大事なのは誰かの文章の形式体裁をまねることですね。

どんな文を書くにしても誰かの文章を真似して書くほど上達するものはないです。

それをいくつも繰り返していくと表現の幅、書き方の引き出しが増えていってすらすら書けるようになる…と思います。

なんていったって小学生のころ国語が大嫌いだった私が、今日ここまで分量制限がなければ永遠書き続けることができるようになったのはそういう方法にもまれてきたから、きっとそうです(何。

でもまぁ、最初の話に戻りますけどプロットは用意しないと文章が長くなれば長くなるほどつじつまが合わなくなるので用意することに越したことはないですが。

そういうつじつまの合わない履歴書やエントリーシートをボールペン一発書きで作っていたこともありますが、お勧めしません(笑。

最後、先生に「文章を書くコツって何だと思いますか?」と聞かれて僕が答えたのは「ペース配分ですかね」。

全体の何割でこういうこと書いて、あとの何割でこれを書いて、最後にこれをもってくる構成力とそのペース配分ができるなら、大体の文章は完成されたもの同然だと思うんですね。

正直文章の巧みさなんて分かるひとや気付ける人が読まない限り意味ないですから。それよりも読みやすい文章を書くことの方がすごい大事だと思うし。

まぁあとは1つの文章には1つの言いたいことしか書かないということも大事ですね。

つまりですよ、今回みたいに言いたいことがたくさんわんさか出てくるとなんの話をしていたかわからなくなるということで、ちゃんとテーマ分けして書くことをお勧めしたいと思います。

迷ったら帰りましょう。ときには無闇に進みましょう。

2014-03-17 20:41:30 | 勉強
先日、学校の授業で、外国語学習者に書かせる作文のテーマは何がいいでしょう?というのを話し合ってました。

まぁいろいろ上がったわけですが、なかでも先生がおっしゃった「将来の自分」というテーマは案外重要だという話をしていましたので、今日はその話を。

外国語学習者のレベルにもよると思いますが、作文の授業は「書く」能力の最難関課題です。

短文ごとには文の意味が正しくても、リズムが悪かったり、繋がりが悪かったりしてなかなか難しいものです。

まぁそれは日本人が英語の文を書くことも一緒ではあります。

そういう技術面の向上を狙い作文のテーマを決めていくこともままあるわけですが、それだけではなくて学習者自身の情操面も配慮することが重要とのこと。

僕なんてもういいおっさんだから情操も道徳もへったくれもないわけですが(何、多くの外国語学習者は20代前後であることと、単身で留学して勉強していることが多いこと、加えて語学を習得することが目標ではなくて、語学を習得した先にある目標のために手段として語学を学んでいるということが大きく関係しています。

んで、そういったことを加味してテーマを考えるのですけど、本題の「将来の自分」をテーマについて書かせることはどういう狙いがあるか。

それはまず自分のことを書くので学習者にとっては書きやすいテーマだということが第一にあります。

加えてここが大事らしく、単身で語学留学している人間は往々にして「目標を失いがち」ということ。

それが慣れから来るものなのか、ホームシック的なもので起きるのかはひとそれぞれらしいですが、何のために日本にきて日本語を勉強していたかが分からなくなるそうです。

だから語学学校の一教師とは言えども学習者のメンタルや人生を気にかけてそういうテーマを設けて、いろいろと内省や再確認をしてもらいたいという思いがあるそうです。

そんな話を「ふーん」と聞いていた僕ですが、でもまぁそれって外国語学習者に限った話じゃないなぁと。

やはり自分が何をしたかったかわからなくなったときはそういったことをやはり考えるだろうし、いくところまでいくとアイデンティティを考えるだろうし、会社だって困ったら理念にかえるわけですから、そういうことって明文化するかは別として生きていくには結構必要なプロセスなのかもしれません。

もちろん、理念によって生きている人間が圧倒的多数というわけでもないので一概にそうだとは言えませんが、僕が思うにそうやって理念に立ちかえらず生きていける人は本当に幸せだと思うし、ある意味不幸だなとも思うんですなぁ。

理念で飯は食えない事実もあるんですが、理念なしに生きて飯の味がするのかって。

時々立ちかえることもそこそこ必要なんですかねぇ。

調べると調査する

2014-03-06 04:41:29 | 勉強
ちなみにですけど「調査する」と「調べる」の違いなんですが…フォーマルなときかそうじゃないかの違いに思えますが、それだけじゃないと思うんですね。

「調査する」は大きい事物を、色々な項目で調べる・総合的に調べること
「調べる」は大きさの大小なく事物に使えます

事物の大きさを決めるのは話し手の主観。

〇辞書で意味を調べる
X辞書で意味を調査する

意味を調べるのは辞書という一項目でしか調べない→調査するは使えない
辞書で意味を調べるという行為が個人的な調べ事という主観→調査するは使えない
⇒調べるしか使えない

〇世論を調査する
X世論を調べる

世論というものは一項目に集約されず総合的に調べる→調べるが使えない
世論が大きいことか小さいことなのかは各々の主観→調べるは使える△
⇒調査するしか使えない

〇容疑者を調べる
X容疑者を調査する

容疑者という単一の存在を調べる→調査するは使えない
容疑者の存在を大きい幅のあるものとみるかは主観→調査するは使える△

でもでもでも。そんなの関係ない!って僕は思うのだけど。

「てください」というのは指示…依頼…

2014-02-17 20:14:21 | 勉強
今日はみんなの日本語Ⅰ第14課の教案を考えていました。

学習項目は「てください」というところなんですが、教科書によると「てください」は「指示」「依頼」「勧め」の意味があってこの課では「指示」と「依頼」が項目として敢えて分けてあります。

タクシーとかで「左へ曲がってください」。これは指示。

「すみませんが、塩をとってください」。これは依頼。

ずっとこの違いを一日中考えていたんですが、僕個人の感覚として日本人がする「指示」というのは限りなく「依頼」に近いんじゃないか、むしろ建前上「依頼」を使って「指示」をしているので結局は「指示」になっていないんじゃないかという感想があります。

それをわざわざ横柄な態度か申し訳ない態度かを分けて、このときは指示の意味で、このときは依頼の意味です、と教える意味はなんだろうかと疑問に思っています。

正直、タクシーの運転手に「左に曲がってください」が指示というよりも、本来「すみませんが左に曲がってください」が省略されているだけで、赤の他人に対して親切に丁寧にお願いをしているんではないのかという疑問が。

例で示されてる空港の係員が「パスポートを見せてください」は指示になっています。指示は指示だけど、それも今の日本人的感覚的に言えば「すみませんが…」という気持ちが内包されているんじゃないのかなぁ…。

まぁネットでここの教案をいろいろ見てみてもかっちり分けて教えているひともいれば、なんとなくこんなときも「てください」を使いますよ的な曖昧な感じの人もいます。

でもまぁ違いを分かるように教えないといけないんだろうなぁ。

声優は伊達じゃない

2014-01-16 07:22:23 | 勉強
先日、授業で発声の授業がありました。

わざわざ声優の方が先生としていらしていただいて、直接なじられると(何。

いままで声優の方と直接お会いしたことがなかったのですごい新鮮でした。(※僕は声優に関しては興味がない)

正直な感想としては『いやぁすごいなぁ』。本当にこれに尽きる。
発声の教授法とか授業の内容とかは別段なんだということはないのですが(ぉ、声優って本当に普通の人と声が出ているんだなぁと思いました。
なんていうんだろうなぁ、授業とかで先生が自分のいったことや生徒の言ったことに対して突っ込みを入れるときに独り言のように突っ込むときがあると思うんですけど、あれが舞台のセリフのように聞こえるんですなぁ。本当に文化放送で声優のラジオを聞いているみたいで、普段しゃべっていることが段々セリフみたいに変わって、声の色が変わるんですよ、瞬間的に。

これが声優か!ジーザス!

いやぁやっぱプロは違うなぁ…というよりも、生でプロの所業を体感するのって感動するんだなぁと思いました。

そうだよなぁ、やっぱりお金払っても現場でものを見ないといけないというか、現場でしか感じられないことがあってそれ相応の良さがあるんだろうなぁ。

ドイツのサンタクロースは…フリーダム

2013-12-25 23:46:52 | 勉強
昨日たまたまラジオを聴いていたらクリスマスにおける諸国のサンタ事情というのをやっていました。
TBSラジオだったかなぁ。

色々な国のサンタさんについて現地レポートあったんですけど、ドイツの話があったのでその話を。

ドイツの話をするまえにもともとサンタクロースの起源についていうと、聖ニコラウスという司教がもとになったとされていますね。4世紀ごろのトルコ出身の司教です。

「ある日ニコラウスは、貧しさのあまり、三人の娘を嫁がせることの出来ない家の存在を知った。ニコラウスは真夜中にその家を訪れ、屋根の上にある煙突から金貨を投げ入れる。このとき暖炉には靴下が下げられていたため、金貨は靴下の中に入っていたという。この金貨のおかげで娘の身売りを避けられた」という逸話が残されている。この逸話が由来となり、「夜中に煙突から家に入って、靴下の中にプレゼントを入れる」という、今日におけるサンタクロースの伝承が生まれている。(ウィキペディアより)

ということもあり、正教派では12月25日のクリスマスはクリスマスでキリストの誕生日でしかなく、サンタクロースは無縁で、それで聖ニコラウスの日が12月6日にあり、その日に靴下を下げておくとお菓子が入っているというのが一般的らしいですな。

ただし、ドイツ。ここはプロテスタントの国である(カトリックも同等数いるのを最近知ったわけですが、しかも現在のドイツにおいて日ごろから教会に行く人間の割合が3%とか、クリスマスのでさえ30%とラジオでいっていました)。ともかくとしてプロテスタントは聖人崇拝を禁止しているから聖ニコラウスの崇拝を捨てて、土着の信仰と結びついて今に至るのが一般的な説(真偽は謎)だとか。そのおかげもあって、ドイツ人ってクリスマスが何の日かわかってないらしいですよ(汗。

んでその実態とは。

1、聖ニコラウス単体
(ドイツ大使館より借用)
まぁカトリック教徒はまんま祝っているわけですから、聖ニコラウスの格好をしたおっさんがいると。
これは12月6日に現れるサンタ的なおっさん。

2、聖ニコラウスがヴァイナハツマン(Weihnachtsmann)に進化した
プロテスタント教徒は聖人崇拝をやめたので、聖ニコラウスがヴァイナハツマン(訳クリスマスおじさん)に進化させた。
これもドイツ内の地方によって違うとからしいけど、日本でいうサンタクロースの格好をしたおっさんをヴァイナハツマンと呼んでいるらしい。
もともとは土着の精霊でそれがプロテスタントたちの情報操作で担ぎ出され定着したそうな。
これは12月24日に現れるおっさん。

3、聖ニコラウスとクネヒト・ループレヒトがペア
(ウィキペディアより借用)
クネヒト・ループレヒトというおっさんがもう一人いて、「黒いサンタクロース」と呼ばれている奴がいるらしい。
こいつがこどもの行いを査問して悪行をするこどもにお仕置きをするといういかした存在らしい。聖ニコラウスがこどもの善行を見てプレゼントを贈る存在になると。
ということはこれも12月6日に現れる連中だと思われる。

※ここまで記述した通り、日本でいうあの赤い服着たサンタというおっさんを見てドイツ人は「サンタクロース」ともいうし「聖ニコラウス」ともいうし「ヴァイナハツマン」ともいうらしく、正直それが何であってもあまり気にしていないご様子。

4、聖ニコラウスと「シャープ」と「クランプス」という化け物を引き連れている
(ウィキペディアより借用)
12月6日、聖ニコラウスは二種類の化け物を引き連れて街をねり歩くそうだ。正直オールアバウトの記事を読んでもらうのが非常にわかりやすい(http://allabout.co.jp/gm/gc/217545/2/)。シャープとヤバれる化け物は麦わらの塊で、クランプスは悪魔というか鬼。こいつらが悪行をしているこどもにお仕置きを加えるそうだ…。靴下の中にお菓子ではなく木の棒を突っ込んだりするらしい、木の棒でお仕置きするために。

ただもともと彼らは土着信仰の存在でその役割は木の棒で人様を殴ってその生命エネルギーをひとに転嫁するというものがもともとの役割だったのが、時代が進むにつれいろろ改変されてプレゼントの対としてのお仕置き、それが棒でたたくことにつながってきたらしい。ちなみにラジオではこれを紹介していて、もともとがこどもの行いなんてものと関係がないものだから、大人も木の棒で殴られるらしい。そんでもって善行悪行なんて最初からどうでもいいからその木の棒で殴ること自体がプレゼント(生命的なエネルギーの転嫁)ともされて、ただ殴られるということもあるらしい。

5、キリストキント
(ドイツ大使館より借用)
「12月24日に誕生したキリスト(クリストキント)の元へ3人の王たちが駆けつけ、贈り物をした」という話が存在し、カトリックでは12月24日の夜にプレゼントを送る習慣が生まれたとする経緯があるそうだ。その日、クリストキントがやって来る、つまりキリストの誕生とプレゼントの両方がやって来るという解釈で、このキリストキントという存在に手紙を出してプレゼントをお願いしたりするらしい。
まぁだからこれは12月24日に現れる存在なんですね。

と、まあいろいろなサイトを読んで研究してみましたが、いかがでしょう。なんて自由な存在。
とりあえずメリークリスマス!