山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

注目、諏訪哲史の「再び人殺しの国に」

2014年08月29日 10時06分27秒 | Weblog
 「毎日新聞」の集金の時にもらう冊子『毎日夫人』(2014・9、№656)の巻頭エッセーに注目した。作家諏訪哲史さん、1969年名古屋市生まれの芥川賞作家の文章だ。

 「再び人殺しの国に」
 1人を殺せば殺人者だが100万人を殺せば英雄だ――チヤプリンが「殺人狂時代」で述べる台詞。防御や報復や聖戦など、いかなる理由があろうと人を殺したものは人殺しで、殺した国は人殺しの国だ。死刑執行者も人殺しであり、善人が「やむを得ず」殺人を犯しても悪には変わりない。やむを得ぬ殺人や仕方のない戦争など、言葉のごまかしに過ぎない。殺人に善はありえず、殺せばそれは悪である。
 かつて人殺しの国であった日本はこれを猛省し、「永久に殺さない国」を作った。人類史上最高の平和への宣誓憲法。これを頑なに墨守することで、他国から怨みを買わず、テロの標的にもならない国を作ってきた。
 「殺さなかった時間」の実績を、先人たちが凄まじい忍耐と覚悟で、あたかも鍾乳石を作る雫のようにひたむきに、今日まで積み上げてきた。それを現代の無能者が反故にして、「他国と同様、日本も殺すんだってとこを示そう。周囲を黙らせるために機会があれば一発お見舞いしろ。日本は本気で戦争をするんだってところを見せておくんだ」と主張し始めた。幼稚な虚勢意識。シンナーを吸う不良中学生にも劣る恥かしい誇大妄想である。
 集団的自衛権に賛成する者は、自分と自分の家族を「反対者よりも先に」戦地へ赴かせられるはずだ。しかし現実は、自分や家族の代わりに他の国民、つまり国費で雇われた自衛隊員たちが賛成者である自分より前に殺し合いに行ってくれる。好戦的な賛成者どもは「自分と家族の命を国民の代わりに戦地へ差し出します」と一筆誓書せよ。卑怯者にはそれができまい。
 右の頬を打たれても左の頬を差し出す気概があるからどちらの頬も打たせずにきたのが戦後の日本の生き様、鬼気迫る精神力なのだ。
 積極的平和主義?平和のための海外での武力行使?それが今より平和を損なうことだとなぜ解らないのか。好戦論者によって損なわれるのは僕ら戦争反対論者なのだ。

 「右の頬を打たれても左の頬を差し出す気概があるからどちらの頬も打たせずにきたのが戦後の日本の生き様」、日本国憲法第9条の真髄を表現したことばだ。
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