山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

韓国最高裁の元徴用工、元勤労挺身隊の慰謝料判決は人道に沿うもの

2018年11月30日 23時30分12秒 | Weblog
 2018年11月29日、韓国最高裁が、戦時中の元徴用工5人・元女子勤労挺身隊員5人が三菱重工業に求めた損害賠償請求に、一人当たり800万~1500万円の賠償を命じた。10月30日に新日鐵住金の元徴用工の判決に続くもので、今後も同様の判決が出るのは確実だ。判決は、戦時中の動員は日本政府の不法な植民地支配や侵略戦争と結びついた日本企業の反人道的な不法行為だと認定した。原告の日本企業に対する慰謝料請求権は1965年の日韓請求権協定には含まれない、賠償を求める権利は消滅していないとした。
 請求権をめぐっては、日韓両政府も、両最高裁も個人の請求権は消滅していないという点では一致している。しかし、10月30日も今回も、日本政府はあまりに過剰、いや異常な反応をしている。10月、安倍首相は「判決は国際法に照らして、あり得ない判断だ」(安倍氏の言う国際法は日韓請求権協定のこと)、個人賠償請求権は日韓請求権協定により「完全かつ最終的に解決した」、河野外相は「法の支配が貫徹されている国際社会の中では、およそ常識では考えられない判決」「暴挙だ」といった。今回、菅官房長官、河野外相は「きわめて遺憾で断じて受け入れることはできない」「国際裁判や対抗措置を含め、あらゆる選択肢を視野に毅然とした対応を講じる」と同じ声明を発した。日本政府が人道主義とは無縁の異常な反応をし、マスメディアがそれをオウム返しに、個人の請求権も1965年に消滅したかのような言説を垂れ流したことが、異常な世論状況を生んでいる。
 政党では日本共産党(11月1日)が、法律家では弁護士有志(11月5日)が、詳細な見解表明で個人の請求権は消滅していないことを明らかにした。弁護士有志は、「(安倍首相は)日韓請求権協定により完全かつ最終的に解決したと述べたが、それが被害者個人の賠償請求権も完全に消滅したというのであれば、日本の最高裁判所の判決への理解を欠いた説明であり誤っている」「全ての請求権が消滅したかのように『完全かつ最終的に解決』とのみ説明するのはミスリーディング(誤導的)である」と批判した。
 11月14日、衆院外務委員会で日本共産党の穀田恵二議員が、1991年8月27日の参院予算委員会で柳井俊二条約局長が請求権協定第2条は「個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない」と答弁したことを、「これは間違いないか」と河野太郎外相に迫った。居丈高な発言を繰り返してきた河野外相は、しぶしぶ「個人の請求権が消滅したと申し上げるわけではございません」と認めた。さらに穀田氏は、1992年3月9日の衆院予算委員会で柳井条約局長が「一定のものを消滅させる措置を取ったわけでございますが、そのようなものの中にいわゆる慰謝料請求権というものが入っていたとは記憶しておりません」と答弁していたことを示して個人の慰謝料請求権は請求権協定の対象に含まれていないことは明らかではないかと追及したのに対し、三上国際法局長は「柳井局長の答弁を否定するつもりはまったくない」「権利自体は消滅していない」と認めた。
 問題ははっきりした。安倍・河野・菅氏らの居丈高な言説は誤りだということだ。ただ残念なことに、この穀田議員の追及と答弁は、徴用工、勤労挺身隊裁判の核心をなす部分であるのに、一流新聞もテレビも、1行も1秒も報じなかった。ここまで無視して政府のミスリーディングのお先棒を担ぐこともあるまい。堕落もここまで来たかという思いだ。
 安倍・河野・菅氏らは、国際司法裁判所に訴えるといきまいている。堂々と訴えればいい。国際的に白黒をつければいい。だが、安倍首相が国際法といったのは日韓請求権協定であり、それだけでも上に見たように破たんしている。さらにサンフランシスコ講和条約にかかわる諸問題で日本政府は日本人の個人の請求権は消滅していない、シベリア抑留の日本兵の個人請求権は消滅していない、被爆者のアメリカへの請求権は放棄していないとしている。国連の人権理解は日本政府とはレベルが違う。請求権問題だけでなく、請求の基礎にある植民地支配、侵略戦争の反省の有無も重要な問題だ。
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日本政府・安倍晋三・河野太郎は直ちに国際司法裁判に訴えよ

2018年11月29日 22時59分20秒 | Weblog
 10月30日の韓国最高裁の新日鐵住金判決に続いて、今日11月29日、韓国最高裁で三菱重工業の韓国人元徴用工と元女子勤労挺身隊員が慰謝料を請求した裁判で原告勝利の判決があった。人道主義の立場からは、当たり前の判決だ。
 河野太郎外務大臣は、前月の判決の時よりも興奮して、韓国政府に直ちに是正を要求するといった。判決を政府がくつがえすことはできない。これからも同じ判決が続くことは間違いない。
 河野太郎外相は、「国際裁判や対抗措置も含めあらゆる選択肢を視野に入れ、毅然とした対応を講ずる考えだ」と表明した。
 
 わたしは、安倍首相や河野外相と180度立場を異にするが、この国際裁判で毅然とした対応をするというのには賛同する。みごと一致だ。頑張れ河野太郎。すぐに、国際司法裁判所に提訴しよう。日韓条約と付属協定という国際条約が争いになっているのだから、世界の人権をめぐる公正な司法の場、国際司法裁判所で正々堂々と意見を述べ合い、判断を仰ごうではないか。安倍・河野両氏よ、すぐに国際司法に訴えよ。
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カジノ付き万博はごめん、今やるべきは防災対策 

2018年11月25日 21時31分52秒 | Weblog
 金の力で2015年万博誘致が決まった。国内政治で金をばらまいて票を得ることは禁止されているが、対外的にはやりたい放題だ。誘致活動に35億使ったと公表されている。領収証のある誘致費が35億で、外交機密費など領収証のいらない金はどれだけか。発展途上国にはODAのうまみはよだれが出る。途上国100ヵ国に240億を約束したらしい。莫大な金がもらえたら、1票など安いものだ。腹は痛まない。経済的には日本より遅れているロシアは、独裁的権力をプーチンが持っているとはいえ、金の量では日本の後塵を拝したということだ。ロシアは万博を一度も開いたことがないのだから、何度も開いた日本ではなく譲ってあげたらと各国が考えたらいいのに、目の前にニンジンをぶら下げられた馬は理性が働かない。
 こんどの万博はカジノとセットをねらっている。これが大阪の起爆剤になり、経済発展が実現するらしい。しかしカジノで大阪と周辺の賭博好きの人々の金を巻き上げて何が発展だ。カジノの利益はアメリカのカジノ業者が本国に送金するだけだ。おぞましい風景が待ち受けている。
 万博は会場整備費が1250億円かかるという。これは今の時点での予定だから、実際にはどれだけ膨らむか。東京オリンピックの膨らみ具合を見てみるがいい。当初予算で収まるというのは子どもしか騙せない。これを国と、大阪と、経済界が分担する。どんどん膨らんだ分は誰が負担するのか。夢洲に引く地下鉄の建設費も莫大だ。
 大阪誘致が決まって、大阪・道頓堀で100人近くが万歳と騒いだ様子が新聞に写っていたが、なんだ、やっぱり、その程度かと思った。万博を大阪にというポスターが各商店に強制的に貼られていたが、なんともショボい当選の日だ。だいたい起爆剤をと爆弾要求が強い財界が、金には渋く、気前よく出す気はない。1970年とは雲泥の差だ。一般庶民はもっと覚めている。そんはところに金を使うのなら、防災対策に回せという声が、普通に聞こえてくる。台風21号で大阪はどれだけ被害を被ったか。倒木だけを見ても、街路樹は始末したが、公園の無数の倒木は今も放置状態だ。手が回らないのだ。そんな風景を日々見ている市民は、けっして浮かれない。今こそ、これから、防災が何より大事だ。公共事業はまず防災。万博カジノの費用は防災に回せが大阪の合言葉だ。さら地状態の夢洲自体が、台風で岸壁に甚大が被害があった。だがおそらく政治圧力で報道されなかった。25年の万博までにも台風被害は襲うに違いない。
 起爆剤を爆発させれば、それが呼び水になって経済が上昇気流に乗るなどというのは、ニューディールや戦後復興の時代じゃあるまいし、絵に描いた餅だ。いったいこれまでどれだけ起爆剤を爆発させてきたことか。硝煙の臭いがただよっているではないか。いかがわしい御用経済学者がすぐに何兆円もの経済効果をはじき出すが、事後に証明したためしがない。経済効果をはじくのはいいアルバイトだ。
 カジノ付き万博はごめん、今やるべきは防災対策。これが今のスローガンだ。
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「1987、ある闘いの真実」を観る

2018年11月22日 23時38分03秒 | Weblog
 十三の第7芸術劇場で映画「1987、ある闘いの真実」を観た。じつは来週、光州に行くのであわてて行った。
 1980年5月、権力を握った全斗煥の軍事クーデターに対して、韓国南西部全羅南道の光州で民主化勢力が決起した。一時道庁をも選挙する勢いだったが、10日間で戒厳軍に鎮圧された。日本では光州事件といっている。
 その7年後に、この映画のテーマとなった事件、そして韓国民主化の転換点の民主化闘争が巻き起こった。1987年1月あるソウルだ学生が拷問死した。権力は隠ぺいを図るが、ジャーナリストの奮闘で真実が暴かれる。全斗煥軍事政権に対する新たな民主化闘争が噴出する。たたかいの中で、6月、延世大学の学生が催涙弾を頭部にうけて死亡する。国民的怒りはさらに燃え上がり、全斗煥を追い詰める。翌年に迫ったオリンピック開催さえ危ぶまれる事態となる。100万のデモが、画面を圧倒し、感動を呼ぶ。
 この事実をふまえた映画で、スペクタクル映画化と見まごうばかりの迫力だ。ちょうど朴槿恵政権を追い詰めるろうそく革命の真っただ中でつくられた。映画を観終わって、わたしはこの間の沖縄のたたかいを頭に浮かべた。必見の映画だ。
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がんばったご褒美につけ麺

2018年11月20日 16時57分43秒 | Weblog
 掖済会病院での心臓の8か月検診を無事終了しほっとした。またまた詰まりましたねえと言われるのではという思いもあったが、いいでしょう、さらさら剤も一種類減らしましょうといわれた。しかし森岡先生と同じ心不全にもなっており、疲れを自覚するようになっている。体を動かすのがおっくうになっていたが、検診もあるので自転車にはできるだけ乗らずに歩くようにしてきた。今日は港区から歩いて、大正区のせいきょう診療所に行って薬をもらった。1種類減ったとはいえ、たくさん。診察除いて薬代ひと月5000円。これでも多くがジェネリックに切り替わって安くなった。
 そんなこんなで今日の昼は、みなと通りの「磯路亭」というラーメン屋でつけ麺760円を食べた。数カ月前に開店したが、前を通るたびにちらっとのぞいても、あまり客が入っていない。どんな味かと思ったが、うまい。つけ麺は太目、小麦の味、つけ汁はこってり、ごまだれ風味でほんのり魚介系。これなら店は続くのではないかと思った。
 いつもは昼食は家で控えめにしているが、久しぶりにカロリーたっぷり。つけ麺といえば、ひと月ほど前に長堀のかどや食堂でも食べた。カロリー高いので食べないようにしているが、10年前はよく食べた。十三の定時制の閉校間際、年史を書くために朝から晩まで学校にいた。で、昼は散歩を兼ねて十三界隈を食べ歩いた。そのときよく行ったのが「よかにせ」というラーメン屋だ。おもにつけ麺を食べた。がつんとくる魚介系でとりこになった。大盛まで注文した。おかげで脂肪も蓄えた。なつかしいつけ麺だ。

 
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何万もの労働者を泣かせた強欲資本家カルロス・ゴーンを断罪せよ

2018年11月20日 05時30分40秒 | Weblog
 11月19日、日産のカルロス・ゴーン会長とグレッグ・ケリー代表取締役が東京地検に有価証券報告書に虚偽記載をした疑いで逮捕された。容疑は99億9800万円の報酬を49億8700万円に虚偽記載したことだ。じつに50億円ごまかしたのだ。だがこれは2010~14年度の分についてだ。それ以外もほじくればもっとすごい犯罪になる。巨額の脱税をしたのだ。許せない。下々の労働者、零細業者、年金生活者にも厳しい課税がある。おまけに消費税は10%にするという。なのに、日本で指折りの高額報酬のカルロス・ゴーンがじつはその2倍を得て、脱税をしていた。こんな連中がのさばっている一方で、消費税を上げるなど断じて認められない。しかもこれらの資本家連中は、法人税をもっと負けよ、企業がもっと好き放題できる環境をつくれと経団連を通じて政府に要求し、これがそのまま政府の方針となっている。外国人労働者拡大の出入国管理法改正もそうだ。安倍首相のお友達優遇政治は森友・加計だけではない。経団連が本丸だ。税金を少なく少なく払い、一方で国家と国家財政を自分たちのために好き放題に使う。これが20世紀末から21世紀の腐敗した資本主義の姿だ。ピケティの「21世紀の資本論」を思い起こせ。
 このカルロス・ゴーンは日産を回復させたと、マスメディアはもち上げてきたが、何のことはない黒い強欲資本家でしかないのだ。忘れてならないのは彼によって、4万人以上もの労働者が首を切られ、下請け企業が切り捨てられ、非正規労働者も使い捨てられたことだ。血も涙もないとはこのことだ。江戸時代の百姓は年貢に苦しめられたが、追い出されることはなかった。追い出したら生産が減る。現代資本主義のヒーローと持ち上げられたカルロス・ゴーンは、労働者、下請けを情け容赦なく切り捨て、生活の道を閉ざした。そのやり方が、いちばんいい経営手法だと持ち上げられた。強欲資本主義には人の道はない。
 何万の労働者、下請けの生活の道を閉ざしても犯罪でなければいいということだったが、今度は明白な犯罪だ。徹底的に究明し、4年以外のすべてを白日の下に引きずり出し、断罪すべきだ。
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学生時代からの仲間、近藤知昭さんの生き方に学ぶ

2018年11月18日 16時32分58秒 | Weblog
 11月16日、志位委員長を迎えてナンバの府立体育館満員の演説会で訃報を聞いた。大阪外大2部で共に学び、活動をした仲間、近藤知昭(ちあき)さんの死だ。横浜翠嵐高校出身の秀才で、外大2部のロシア語から早稲田大学のドクターでロシア文学を研究した。研究職に就くことはかなわなかったが、たくましく生き、神奈川県大和市の地域のために尽くした。遠く離れたので疎遠にはなったが、2005年の衆院選で近藤君の名前を見つけて驚いた。神奈川13区で日本共産党から立候補したのだ。えらい!と、さっそく選挙事務所に花を贈った。大阪から応援が届いたと話題になった旨聞いた。2009年も立候補した。相手は後に世間を騒がせる甘利氏だった。公開討論会では甘利氏をぐいぐい追い詰めたそうだ。
 わたしが上本町8丁目の外大から上町台地を東の方に少し下りた細工谷に下宿していた時、近藤君はしょっちゅう遊びに来ていた。近藤君は自治会の書記長や委員長をつとめた人だ。1967~70年は、外大民主化闘争が闘われた時代だ。その中身は真に学問ができる大学をつくろうというカリキュラム改善闘争だった。外大は戦前の外事専門学校の流れを引きずっており、われわれ学生は古く貧しい大学の体質を批判した。与謝野晶子が歌壇の大御所に立ち向かったように、私たちも恐れを知らない若者だった。
 先輩たちそして私たちの闘いによって、一般教養の科目が大幅に増えた。自治会の学生みずからが関西各地の大学、教授宅を訪ねて訴えた結果招聘された。さらに専門的な科目とゼミを開設する運動をすすめた。その結果一番運動が実ったのが、英語学科だった。経済学の森岡孝二先生や、アメリカ政治、イギリス史専門の若手の研究者が専任として着任した。単なる語学学校的なものから多様な研究、教育をする大学へと変容し始めた。その後の外大のすすんだ道は、私たち若造がえらそうに主張した方向をさらに発展させたものだ。その運動の中心に近藤君もいた。のち和歌山大学副学長を務める堀内英雄君、その他研究者になった先輩・友人たちがたくさんいた。貧しい生活だったが、意欲にあふれていた。
 近藤君が亡くなった翌日、その外大2部の自治会運動の中心であるいは周りで支えた仲間たちが上六に40人ほど集った。東京、横浜からも何人も来てくれ、懐かしさで心が満たされた。近藤君を偲び、思い出を語り、思いを引き継ごうと、出席者一同心に誓ったことだ。日頃は離れていて、日々思い出すことはないが、心の中でつながっていて、生きる支えになっている大切な仲間がいることを幸せに思う。ちょうどBSプレミアムで山田洋次監督が、幸せとは何だろうか、金とモノをあふれるほど持っていることだろうか、それより、大切な人とのつながりではないだろうか。寅さんは、自分のふるまいで人が温かい気持ちになってくれることに、幸せを感じているんではないでしょうか、という話をしていた。山田監督の話を聞いて、昔の仲間とのつながり、離れていても励まし合う、ここに幸せと生きる希望があるのだとしみじみ感じた。
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二泊三日の心臓検査入院

2018年11月15日 23時13分21秒 | Weblog
 二泊三日の検査入院から解放された。この3月に心不全さらにステント装着手術をやったが、8か月後の検査だ。事前に心電図、心エコー、胸部レントゲン、血液検査を済ませたうえで、入院した。カテーテル手術と同じ手順でやるが、検査なので気分は楽ちんだ。先生から、3月の心エコーと比べるとましなので大丈夫でしょうとカテーテルの前にいわれたので安心した。
 2日目がカテーテルだ。手術室に入る。病室から車椅子で向かうのがなんとも気恥ずかしい。そうしなければならないらしい。今回は右ひじの動脈から挿入だ。動脈は静脈と違って腕の内部にある。血液検査で肘の静脈から採血するのもなかなか技術がいるのに、深い動脈にうまく太い針を差し込むのは至難の業だ。へたをすると突き破ってしまう。大量出血になる。血管造影剤を注入して心臓の冠動脈に装着されたステントの状態を映し出す。モニターが5台あるが、そのうちの3台に映像が映る。メガネ、金属類は付けてはいけないので、0・01の視力ではほんとにぼんやりしか見えない。でも、ステントがあるところは太く映っている。
 状態はまあまあだということでカテーテルを引き抜いて終了だ。肘の挿入口を強く圧迫してテープを引っ張れるだけ引っ張って固定する。腕の皮が引き連れるくらいに。6時間後に圧迫終了。出血なして安心。3月の時は圧迫を解いたら内出血が広がって、ふたたび圧迫しなおすという事態になった。
 わたしは手術室に入るのは3番目、11時の予定だったが、朝、急患が入って4番目になった。わたしも救急で搬入され助けてもらったので何か言える立場ではない。しかも本来の1番の人が2時間半もかかったために、わたしは1時半からとなった。2時間半の人は向いのベッドだったが、帰った後、途中で死ぬかと思ったとなんども言っていた。そういえばわたしも、5年前心筋梗塞で太い冠動脈2本にステントを入れたとき、死ぬかと思った。この世とあの世の境目、三途の川のあたりの風景をこの目で見た。麻酔はカテーテルの挿入口だけなので、病室全体も医師や看護師の動きもモニターも(わたしはぼんやりだが)見える。その目に映ったのが黄緑と桃色の風景だ。3秒くらいで順に入れ替わる。それまで天井が見えていたのが、黄緑と桃色の世界になったのだ。これが、丹波哲郎がいっていたこの世とあの世の境目の風景なのかと納得した。実際に見えたのだ。太い冠動脈にステントを装着し、内部の風船にヘリウムガス15気圧20秒(わたしにはそう聞こえた)ほど送り込んでステントを広げるとき、完全に冠動脈の血液が止まるので三途の川状態になったのだろうと解釈している。この3月にもステントを入れたがその時は先の方の細い血管だったので三途の川に行くことはなかった。向いのベッドの人は、初ステントということで太い血管に装着したため5年前の私と同じように死ぬかと思ったのだろう。
 あけて今日昼、支払いも済んで無事退院した。
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金澤翔子さんの新しい書「どうにかなる」を額に

2018年11月13日 12時54分09秒 | Weblog
 これまで金澤翔子さんの書を『愛の物語』など2冊の本から拡大コピーして、コーナンで買った額に入れて玄関に飾っていたが、新しい書を目にして、これはいい!これも額に!と思った。金澤翔子さんはもう有名なダウン症の書家だ。力強い書体から勇気を与えられる。
 これまでは、「夢」「笑」を玄関正面に掛けていた。金澤翔子さんの書は『女性のひろば』に毎月ひとつづつ掲載される。12月号に載せられたのが「どうにかなる」だった。うん、これはいい!!とおもった。
 コンビニで300%くらいに拡大コピーして、額に入れた。「夢」「笑」の上に三角形の頂点に「どうにかなる」を飾った。「どうにかなる」「夢」「笑」ととてもいい関係だ。
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8ch「バイキング」の自己責任攻撃の道理のなさ

2018年11月11日 15時20分09秒 | Weblog
 先日、昼のテレビで8ch坂上忍の「バイキング」がえげつなかった。3年4カ月も拘束され、生きるか死ぬかの瀬戸際をくぐりぬけてきたジャーナリストの安田純平さんを非難しまくっていた。安田さんへの人間としての敬意のかけらもなかった。悪意ばかりがあふれていた。安田さんが2時間半の記者会見で、外務省や関係のみなさんにご迷惑をおかけしたと謝罪した。だが番組では、あれは本心が隠されている、芯からの謝罪ではないと言いがかりの連発だった。なかでも一番悪意ある言葉が、安田さんの「表情には血が通っていない」というそのまんま東の断定だった。にこやかにせよとでもいいたいのか。神経的後遺症さえ心配される人に対する言葉がこれだ。
 そもそもこの番組の内容の構成そのものが意地悪い、意図的なものだった。政治的社会問題を扱う際の公平性のみじんもなかった。その象徴が、安田さんが拘束中に「金を払わないでほしい」と日本の関係者に伝え、当然外務省にも伝わっていたことを消し去っていた。さらに、拘束側に対して、最後には「すぐに解放するか、さもなくば殺してくれ」とまで迫っていたことも完全に無視していた。解放後、自分のしたことは「自業自得だ」とまで言った。これぼど自分の責任を問うた言葉はない。なのに一番大事な点を削除して番組構成をしていた。
 テレビで自己責任をうんぬんするなら、これらの証言が最も大事ではないか。これを黙殺して、自己責任の取り方が足りないとか非難をあびせるのは、番組風にいえば「どうかしてるぜ~」だ。
 それでも外務省は大変な仕事を強いられ、大迷惑をこうむったというのだろうか。だが3年4カ月、外務省が救出に全力を懐中し続けたとはいえないだろう。殺された後藤さんの件で分かったのは、ほとんど救出活動はなかったということだ。
 番組は、装備、計画が不十分だと、批判が続いた。ある戦場カメラマンをビデオで登場させ、自分はイラクの写真取材のときは、武装警備員を1日100ドルで雇い、十分準備した、安田さんはなっていないと批判した。それに乗っかって、安田攻撃がエスカレートした。武装して取材することもありうるが、人々の生活に入り込んで取材するのに、銃を構えて入るのは信頼を得られず、逆効果になるとおもう。
 救出に日本政府は金を出していないだろう。後藤さんのとき明確になった。安田さんも「金は出さないで」といっていたし、金での交渉に応じるなら3年4カ月もかからない。なのにこんなバッシングを受けるいわれはないではないか。安田さん自身が失敗だったと認め、その責任を背負って、苦難を一身に受け止めて、やっと生き返ったのに、何の関係もないテレビ、タレント、お笑い芸人たちがあしざまに悪口を言う。なんという荒廃した風景だろう。坂上忍ももうすこし人間的な仕事をする人だと思っていたが、がっかりした。

 ここで自己責任という問題について考えてみたい。
 『大辞泉』では、責任とは、「自分のしたことの結果について責めを負うこと、とくに失敗や損失による責めを負うこと」とある。自己責任とは、「自分の行動の責任は自分にあること(例 投資は自己責任が原則)、自己の過失についてのみ責任を負うこと」とある。ちなみに『新明解国語辞典』(第4版1989年)には自己責任の語はない。責任と自己責任には辞書的には意味に差がない。なのに、なぜ自己責任なる語が登場したのか。それは政治的意図があってつくられたものだろう。2004年、日本政府がイラク戦争でいち早く、国際法違反、100%の侵略戦争を全面支持し、紛争地に自衛隊を派兵したことの責任を問われる事態が発生したからだ。高遠菜穂子さんらが拘束されたのに対して、政府および政府寄りのマスメディアが、囚われたのも、万一解放されない場合の責任も自分にあるというために一斉に持ち出したものだ。政府に迷惑をかけた責任を取れと。邦人保護の責任を不問にできる程度のバッシングが組織された。この自己責任バッシングは、拘束問題にとどまらず、生活保護、老人福祉などへの攻撃に大いに利用された。権力にとってこれほど利用価値のあるイデオロギーはない。
 安田さんが、自らの判断ミスもあり拘束される結果を生んだことに他から責任を問われるいわれはない。指導者が子供を引率して遭難させた場合は責任を問われる。安田さんは自分の身で被害を全部背負っている。自業自得だとまでいっている。
 では何故に安田さんをしつこくあげつらうのか。それは日本の国家、政府に迷惑をかけたという一点に尽きる。国民は逆に国家に奉仕すべき存在だというイデオロギー、戦前の教育勅語のイデオロギーが復活しているのだ。しかし戦後民主主義国家では、国家は国民保護の責任を負う。救出のための外交努力をするところに国家の存在意義がある。だが、いらぬ外交努力をさせられた、だからその責任を問う、もとから反政府的思想の持主らしいからこの際徹底的にやっつけてやれということだ。だが安田さんに責任を問うのはスジが違う。
 山岳会が冬山登山で遭難事故を起こして、捜索に警察が大動員され、公費が支出されることは数限りなくある。そこでは登山計画や装備、現地での判断の適否が問題になる。だが、救出はしなくていいと言わしめることはない。救出された場合、ご迷惑をおかけしたと謝罪し、感謝の言葉を述べてことは収まる。同じく権力機関が動き、公費が支出されても、安田さんのように大々的なバッシングは組織されない。
 自己責任バッシングも、2004年当時より進化しているというか、変化している。当時は、救出は政府の責任だという当然の考えに対して、政府を守る防護策だった。救出されずに殺されたときに、政府に非難が寄せられるのを防ぐために、すべては本人の責任だという自己責任なる論をふりまいたのだ。だが、今や、本人が金を払わないでくれといっているケースで、めでたく解放されたのに、あらん限りのバッシングだ。今や、政府が音頭を取らなくても、ネット右翼が大量培養され、それにあおられて同列の週刊誌、テレビが躍り出る。国家、政府にへつらわないジャーナリストが問題を起こすだけでいきりたっているのだ。人権思想やリベラリズムというと西洋かぶれと嫌悪する右翼が、日本古来の農村共同体の人の優しさをも投げ捨てる狂気のふるまいは恥ずかしい姿だ。
 

 
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アメリカ中間選挙、民主党が下院を奪還、トランプに打撃

2018年11月07日 22時17分32秒 | Weblog
 2018年11月6日の米中間選挙で民主党が下院で過半数を奪還した。上院は引き続き共和党が多数だが、改選議員で見れば民主22、共和9であり、民主党の躍進は明らかだ。注目すべきは18歳から29歳までの若者が67%も民主党に投票していることだ。またヒスパニック系、黒人系、そしてとくに白人・有色系を問わず女性がトランプの差別的政策に異議を唱え積極的に投票したのが特徴だ。マイケル・ムーアがいう方向に確実に動いた。
 ただ彼が示したほどには前進しなかったともいえる。それはトランプが「ものすごい成功だ」と勝どきとも負け惜しみともいえない雄たけびをあげたことにもうかがえる。選挙最終版、トランプが巻き返しをしたことは事実だ。中米からの移民キャラバンが何千人も行進をしそれが大々的に報道され、トランプが「犯罪者集団の移民が押し寄せてきている」「軍を差し向けて取りしまる」と叫び続けたことが功を奏した。思い出す。ちょうど1年前の日本だ。安倍首相が、「国難に直面している、北朝鮮の脅威が迫っている」とあおりつづけた。あれと同じではないか。北が日本のどこにミサイルを撃ち込んだか。そんなことをしたら身の破滅だということを金正恩は知っている。中米からの移民が犯罪者集団だとどうしていえるのか。誰が証明したか。この間銃を乱射して大量殺人したのは中米系の人か。ちがう。白人男性だ。日本でもアメリカでも冷静に考えればわかることだが、感情だけで判断するととんでもないことになる。
 でもこんどの中間選挙では、2年前の大統領選の反省から、女性や若者たちが自覚を強め、行動したことが成果を生んだ。バーニー・サンダース系の社会主義者・最年少29歳のオカシオコルテルさんも圧倒的な票で当選した。希望が持てる。
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警鐘を鳴らし、希望を語る。マイケル・ムーア「華氏119」を観る

2018年11月04日 17時54分11秒 | Weblog
 マイケル・ムーアの「華氏119」を上映初日の朝に見に行った。朝なのに結構な入りなのでびっくりした。今回の作はトランプ打倒版だ。後半で、トランプを生んだ状況がこれからも続くと、これはヒトラーのファシズム独裁になると警告する。トランプとヒトラーの共通性も描かれる。
 こういう状況を生んだ要因としてメディアもやり玉に挙げる。視聴率がとれるトランプをおもしろがって追い続けたメディアだ。大阪のハシズムを産み育てた大阪のマスメディアの責任と同じ。さらに民主党主流も厳しく批判する。ウォール街の金融資本、大企業から巨額資金を得て腐り、共和党と見分けがつかないくらいになっているのが民主党だ。私などからすれば、アメリカ2大政党制なるもの、金融資本があやつる2つの人形に過ぎないと思っていたが。民主党は一時の不満吸収スポンジ役だった。やや単純化していえば。そしてムーアはついに我慢ならず、クリントンやヒラリー、オバマもやり玉に挙げる。この映画で、共和党のミシガン州知事が黒人の町フリント市の水源を変更し深刻な鉛被害を起こしながら、データも改ざんして知らんぷりをする事態に、オバマ大統領が立ち上がったが、なんと現地で安全宣言をするという茶番を演じたことを暴く。
 ムーアは、前の大統領選の民主党予備選で、社会主義者を自称するバーニー・サンダースが多くの州で本当は勝っているという。予備選の投票では各州で勝っているのに、負けるとはどういうことか。民主党全国大会には「スーパー代議員制度」というのがあって、いわば長老に割り当てられた特権で、選挙での代議員に加えてヒラリーに上積みされた。その数2割。その結果サンダースはヒラリーに負けた。これをごまかしだとムーアは批判する。金融資本支配のアメリカを維持するための二大政党制はじつにうまくできている。
 こんどの映画は以前と違って、ムーア監督の突撃がない。でも、ミシガン州知事のでかい自宅に、タンクローリーに積んだフリントの汚染水を太いホースでぶちまけたのには、マイケル・ムーアここにありという感じだった。
 ムーアは、この11月6日火曜日の中間選挙に立候補しているサンダース・グループの候補者に注目している。そのひとりがニューヨーク州のアレクサンドリア・オカシオ・コルテスさん。今回は女性の進出がいちじるしい。結果を注視したい。ムーア監督は、日本でも11月2日封切りだから、アメリカでは中間選挙に十分間に合うようにこの映画をつくった。
 2016年11月の大統領選挙は、ヒラリーが85%の確率で勝つと「ニューヨークタイムス」は報じていたそうだ。だが、マイケル・ムーア監督はトランプの勝利を予言していた。マイケル・ムーアの生まれは、ラストベルト(錆びついた工業地帯)のひとつミシガン州だ。汚染水の州だ。五大湖周辺の工業地帯は、かつて鉄鋼、金属、自動車産業で栄えたが、資本の損得で海外移転し空洞化した。マイケルの父も自動車産業の労働者だった。彼はラストベルトの白人労働者の気分、感情を理解していた。だからトランプ勝利を予想した。いっぽうのヒラリーは、もともと労働組合ぐるみで民主党の支持が強かったペンシルヴぇニア、オハイオ、ミシガン、ウイスコンシンの4州ではあまり選挙運動をしなかったという。労働者に手を差し伸べる政策が貧弱、ヒラリーもウォール街につながるエスタブリッシュメントだ。そこをトランプは突いた。自らは金満資本家なのに、金融資本と国家権力に攻撃の矢を向け、労働者の味方を演ずる。日本でもいた。小泉なんとかが自分は自民党総裁でありながら、自民党をぶっ壊すと叫んだ。大衆はコロリとだまされた。ヒトラー並みの演説だ。ヒトラー・ナチスは、国会議事堂放火事件を共産党のせいにして独裁権力を掌握する。トランプは、捨てられた白人労働者を救うふりをしながら、大企業大金持ちの減税を実施した。映画はここにもふれる。大金持ち減税をやれば、庶民を締め付けなければ財政がもたない。人気のレーガンも、トランプも減税をやるが、それは大企業・大金持ち減税だ。えっ、これは日本でも同じだ。1989年消費税が導入されて以来29年、徴収された消費税の総額は349兆円、一方、法人3税は281兆円減、所得・住民税266兆減だ。つまり導入では福祉のためといった消費税はすべて大企業・大金持ちの減税に消えたのだ。日本では、なんでトランプなんかになびくのか、だまされるのかと不思議がる風潮がつよいが、なんのことはない日本もすでにトランプ現象がまん延しているではないか。大阪の橋下・ハシズム現象も同じだ。
 ムーアはトランプの行き着く先はナチスドイツだと警告する。だからこの映画をつくった。ムーア監督は、希望の灯もしっかり伝える。そのひとつが、全米でのバーニー・サンダースの民主党民主化運動だ。2つが、2018年2月から3月のウエストヴァージニア州55郡での教員のストライキだ。違法攻撃を打ち破り、職員とバス運転手も参加して全員の賃上げを勝ちとった。3つ目が、フロリダ州バークランドの高校銃乱射事件で立ち上がった高校生の活躍だ。2018年2月14日、17人の生徒教職員が殺された。1か月後、同校の生徒が中心となり、銃規制強化を求める「命のための行進」をワシントンはじめ全米でおこなった。高校生が銃規制に反対の議員につめ寄る。議員はおろおろして、その発言は議論の体をなしていない。ワシントンの集会で高校生が堂々と主張する。じつに頼もしい。この生徒らは2020年大統領選挙では率先して選挙人登録にいくだろう。映画は高校生の映像で終わる。
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石井国交大臣、行政不服審査法の趣旨をふみにじる決定

2018年11月02日 18時18分34秒 | Weblog
 石井国交大臣が、沖縄県の辺野古埋め立て承認の撤回について、その効力の執行停止を決めた。多くの行政法学者からきびしい批判が寄せられていたにもかかわらず、異常で違法な解釈で出した決定だ。
 そもそも行政不服審査法は、行政機関によって国民の権利・利益が侵害されたとき、金や時間がかかる裁判ではなく、「簡易迅速な手続きによる国民の権利利益の救済を図る」ことを目的にしている。同法は、安倍内閣のようなずるい国や地方公共団体が私人を装って登場することを防ぐべく、7条2項で「国の機関・・・に対する処分で、これらの機関・・がその固有の資格において当該処分の相手方となるもの・・・については、この法律は、適用しない」と明確に規定している。安倍内閣が自作自演の猿芝居をする道を閉ざしているのだ。しかし、どれほど不法性を指摘されようと、好き勝手な法解釈をする。ところが安倍首相は国会で、法治主義という言葉を使って石井大臣の決定を正当だといった。もう頭が変になりそうな世界だ。
 石井大臣の決定には、もし工事続行したとしても10数年かかる「普天間の危険性の除去」「日米間の信頼・同盟関係」「外交・防衛上の不利益」という「公益性」を理由にするが、これは私人の権利救済とは対極だ。また緊急性とは縁がない。法治国家は崩壊の危機に瀕している。
 安倍首相は、口をひらけば「沖縄のみなさまの心に寄り添い」と決まり文句を言うが、そのことばを発した同じ場で、過去最高の得票で示した県民の意思を平然とふみにじる。沖縄県は220頁の意見書を25日に提出した。これを読んで、検討を加え、審査するには相当期間を要する。ところがその5日後に決定を出した。ということは最初から結論ありきで、県の文書など目もくれないという姿勢で突っ走ったのだろう。
 このような安倍内閣の一連のふるまいは、けっして余裕があってやっていることではない。塀の上から落ちるかどうかという危ういところを渡っているだけのことだ。
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