山田氏は、共産党が政権協議に加わる、政権を争う選挙で役割を演じることそのものを忌避しているのだろう。そういうところに加わる立場ではないだろうと。しかし山田氏の論は、どうかんがえても偉そうな議論だ。共産党が政権協議に加わったのは、情勢が求めた結果に過ぎない。
山田氏は、自民党ともうひとつ第2自民党との2大政党間での政権交代がありうべき姿であり、反体制政党の共産党がその一方に加わるなどとても容認できないという立場だろう。
かつて90年代半ばの政治改革論議はまさにそういうところを目指していた。自民党政治の金権腐敗に対しても、共産党を排除したうえでの政権選択がすすめられた。巨大マスコミがそろって、あからさまに共産党排除とセットの政権論議をすすめた。
その結果、曲折を経て2009年の民主党政権に至る。だが未熟さもあり3年で幕を閉じる。安倍元首相は自らの失敗もあずかって民主党政権に至ったのを逆恨みして、政権回復後ことあるごとに「あの悪夢の民主党政権」とののしりつづけた。しかし悪夢といった経済は、リーマンショックの真っ盛り、東日本大震災によるものだった。それを悪印象を塗り付けることばをいいつづけた。そのやり方はとてもフェアなものではなかった。実際は民主党政権時が谷底で、はっきり持ち直し上向きになったときに安倍政権が返り咲いた。経済循環のお得な時に権力を握ったに過ぎなかった。
安倍氏の極右性、根性の悪さは尋常ではない。秘密保護法、共謀罪、そして集団的自衛権行使だ。日本国憲法に対するシロアリ作戦そのものだ。立憲主義という民主政治の根底が覆された。70年間、憲法9条のもと認められないとしてきた集団的自衛権を一転容認するという犯罪的な憲法解釈を強行した。こんな解釈が正しいというなら、安倍菅内閣肝いりで始まる「論理国語」なる科目では安倍さんは確実に零点をとる。
憲法論では180度反対の、国語的にもなりたたない論理破綻の集団的自衛権行使を閣議決定し、それにもとづく安保法制を2015年強行した。極右安倍氏の暴走だ。これが、以後の日本政治を路線を決める基軸となる。
憲法もある程度は尊重する、穏健な2大政党制として民主党も尊重するという姿勢が安倍氏にあれば政治情勢は現在とは違ったものになっていただろう。
憲法を完全に破壊した安保法制強行を前に、70年間憲法に親しんできた国民の世論は沸騰した。政治集団としての市民連合が名乗りを上げた。その市民連合がリードする形で民主、共産、社民が参加する野党共闘が成立した。「野党は共闘!」の大合唱が国会前に鳴りひびいた。民主党は昔も今も安保容認だが、その安保を極東安保から世界安保に膨張させ、専守防衛の自衛隊を米軍との集団的自衛権行使の軍隊に変身させたことに対しては、当然のことながら容認できない。当時の安倍首相の子供だましの説明はテレビで繰り返し宣伝されたが、だまし切ることはできなかった。
ここから出発した野党共闘は安保法制を廃止することを軸に政策を発展させ、選挙協力をつくりあげ、今度は政策・政権・選挙の3点セットでの共闘に成長させた。
共産党が参加する政権協議ができたのも、もとはといえば、安倍政権の憲法を真っ向から破壊した悪行にあった。穏健な保守としての自民党であれば、ここまで政治情勢が発展することはなかっただろう。極右・憲法破壊・立憲主義破壊の安倍政権のもたらした帰結だ。その後も自民党は反省の片りんも見せず居直り続けているから、この対抗関係はつづくだろう。
山田氏は安倍首相とねんごろに会食を繰り返していたのだから、見通しのある記者ならば、安倍氏にあからさまな憲法破壊はしてはいけないと何度も忠告すべきだった。ところが山田氏は、逆に共産党の方を向いて、綱領を捨てよと忠告する。政権参加をねらうなら綱領を変えよという。安保廃棄を持ち込まないと断言しているのに、安保容認に路線変更しない限り政権論議に入る資格はないという。何という横柄。自らの立ち位置が安保のガードマン、自民政府の用心棒ということを告白したようなものだ。
「風知草」の後段で山田氏は、太平洋戦争開戦と共産党綱領を同一線において首をかしげる論を展開する。
太平洋戦争では、常識を見失った指導者の、過去の成功にとらわれた慢心、無敵無謬の過信、意思疎通の欠如、責任回避が教訓だという。その教訓は現代政治、与党は言わずもがな、共産党綱領にも当てはまるという。「安保や天皇をめぐる共産党綱領の現実離れも、私から見れば度を越している」というフレーズはここで出てくる。
だが考えてみたい。共産党を批判するために、あろうことか、アジア太平洋戦争をもちだすその無神経を。中国侵略・アジア太平洋戦争に命をかけてたたかった共産党を批判するその根拠を太平洋戦争に求める。共産党への最大の侮辱であろう。批判するにもそれなりの作法が要る。
安保条約を廃棄して平和友好条約をという綱領が、常識を見失い、慢心、過信、意思疎通の欠如を表し現実離れしているというのだ。
だが、安保が安保の枠をはるかに超え、世界安保になってることを検証もせずに現実を見失っているのは誰か。自主的判断力を失って米軍に付き従っているこの20年だけでも不法な戦争がどれだけの命を奪い、中東の国家を破壊し、地域情勢を不安定にしてきたか考えたことがあるのだろうか。安保は常識だ、安保廃棄は度を越した非常識だというのならば、これらの現実について、山田氏は「風知草」で検証結果を報告すべきだ。安倍菅氏らは辺野古新基地を提供しないことは日米同盟の信頼を揺るがせ、その崩壊つながるという。これこそ安保の提起する現実の問題だ。山田氏はこの現実を問題視せずにどれだけの月日を過ごしたのか。県民投票で圧倒的な意思が示されたのに、自公政府は
沖縄県民を押さえつける。この権力の慢心、意思疎通の欠如は戦後これほどのものは見たことがない。
フィリピンが米軍基地を撤去してちょうど30年になる。当時は衝撃的に受け止められたが、外国軍基地があることは主権を犯す度を越した事態なのだ。核兵器禁止条約が国際法となり国連の常識となった。だが核安保に固執する被爆日本政府は核保有国が参加した後に条約に参加するのだ。核禁条約忌避と安保は日本政府においては一体だ。山田氏は大切にする現実、現状追随の核が日米安保・軍事同盟だ。これに固執する限り世界の常識となった核禁条約には接近できない。なぜなら日米同盟の中軸戦略が核抑止力だから。
山田氏は共産党批判の手立てとして綱領の安保・天皇制を問題視するが、開かれた議論においては、当面の課題と将来の展望を関連させつつ区分けすることは、理論的には当たり前のことだ。ところが課題を提起することだけで退場しろとばかりの論をいいたてる。およそ理論的にはありえない、きわめて政治的なものいいだ。山田氏は市民連合の諸氏といちど議論してみたらいかがか。