山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

うつぼ公園のローズマリーで鶏煮込み

2016年09月27日 23時12分34秒 | Weblog
9月19日、大阪靭公園で戦争法強行1周年の集会があり、5000人が集った。デモに移る列に並んで公園を少しづつ進んでいると、ローズマリーらしき木に出会った。高さ1メートルあまり、花火のようにこんもりとしていた。ちぎって匂いを嗅ぐとやっぱりローズマリーだ。そこで2房ほどちぎって持ち帰った。
鶏もも肉に塩コショウをし、ローズマリーの小さい葉も肉にからませた。ビニール袋にたっぷりのオリーブオイルとともに入れて2日も寝かせた。
小鍋にすべて絞り入れ、塩を足して煮た。オリープオイル煮だ。靭公園のローズマリー煮は格別においしかった。
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地下鉄の黒字をつかって便利で安全な大阪市営交通を

2016年09月25日 22時40分12秒 | Weblog
維新市政の下で、大阪市営交通ががたがたにされている。赤バス廃止にとどまらず、市バスがひどいことになっている。路線廃止、減便で、大都市とは思えない状況になっている。大阪駅、なんば駅に向かう幹線以外の路線では朝夕の時間帯でも1時間1本という、田舎のバスになっている。ほとんど使い物にならない。これが維新政治の交通政策だ。市民生活の基本がこれだ。
地下鉄はここずっと300億円台の黒字を出している。2015年は374億円だ。市バスも、路線の廃止・減便、運転手の大幅賃金カットで3年連続黒字になっている。
すぐに路線回復、増便をすべきだ。もしそれでバスが赤字になるなら、地下鉄会計から繰り入れをすればいい。市営交通として地下鉄・市バスを一体経営をすべきだ。橋下は市バスを解体し、地下鉄も資本に売り飛ばす考えで、地下鉄会計から市バスへの繰り入れを禁止してきた。政治的思惑のための悪だくみが着々とすすんできた。
これを食い止めなければならない。370億円をこす地下鉄黒字を有効に使えば市民にとって役立つことがいっぱいできる。市バスの復活整備、地下鉄のホームドア=可動柵の設置は喫緊の課題だ。中国上海の地下鉄ではみな可動柵が整備されている。維新吉村市長は地下鉄民営化を目指している。大阪の私鉄にひとつでもホームの可動柵があるか。ない。あったら教えてほしい。必ず来る津波災害。これに備える地下鉄整備を今からやらないと間に合わない。
民営化すれば、固定資産税が52億円入る。それよりも374億円をがっちりものにして、地下鉄の安全・災害対策、市バス支援をしっかりやることが市民にとって一番いい。
もともと公営企業の民営化は赤字でどうしようもなくてやるのが通例だった。地下鉄は赤字どころか、大黒字の優良経営。そのどこに民営化=売り飛ばす必然性があるのか。地下鉄の黒字を市民の足の確保、交通権のために使わせよう。
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松井知事、総合区で公明党引き込み策す

2016年09月23日 23時19分35秒 | Weblog
今日(2016・9・23)松井一郎大阪府知事は、大阪市を廃止して「特別区」に再編するよりも、大阪市を残したまま区の権限を強める「総合区」の導入を優先することを記者会見で語った。松井知事・吉村市長ら維新勢力は、去年の住民投票で大阪市廃止の都構想が否決されたにもかかわらず、しつこく、もう一度住民投票に持ち込もうと画策してきた。維新は度重なる選挙を通じて、いまや大阪では巨大な組織を持つ既成政治勢力として君臨するに至った。いまや立派な既得権益者だ。一方、大阪市解体反対・反都構想の票を投じた人々は、また同じ投票をやるんなら、こんどは行かないという気分さえ漂っている。維新支持層はうち固められ、号令がかかれば、投票に総決起する力がみなぎっている。そういう状況の下で、ふたたび大阪都構想をと打ち上げてきたのが松井たちだ。否決され続けても、府庁移転を出しつづけて、ついに災害救援に何の役にも立たない咲州庁舎を実現させた、あの手法に学んでのことだ。
一方で、現在の区のままあるいは合区したうえで権限を強める「総合区」の案が、自民、公明から提案されていた。維新松井・吉村は、2017年2月の議会に特別区設置協議会を諮る考えだった。そのうえで2018年秋に、「総合区」か「特別区」(都構想)かの住民投票をしたいといってきた。そこにむけて住民説明会を始め、すでに此花区、東住吉区、都島区、住之江区でおこなわれた。そもそも「総合区」か「特別区」かどちらかを選べという選択自体が恣意的なもので、そんな選択方法には同意できないといって投票に行かなかったら、維新支持者による比較多数によって一気に特別区すなわち大阪市廃止が決まる筋道が描かれていた。
ところが、法定協議会設置には維新単独では数が足りない。公明の応援が必要だ。前回は、否決されたものを首相官邸が創価学会本部を動かして、大阪の公明党に協定書に賛成しろと超法規的な圧力をかけた。その結果、幽霊がよみがえって、住民投票にまでいたった。
今回も大阪市廃止特別区設置の協定書にも、その前段の協議会設置にも公明党の応援が必要だ。だから、公明党がいう「総合区」を先にやるから「特別区」を協議する法定協議会にも賛成してもらおうということだ。
だから松井は「公明党の提案している総合区の12区案には我々は最低限賛成だ」「まずは総合区を決定しておくというのもありだ。決定後も導入まで1~2年かかる。その間に特別区の住民意思を問うというやり方もできると思う」と述べた。
自民党(24区を基本にする総合区)でなく公明党の案に賛成することによって公明党をを引きずり込んで、「特別区」法定協議会設置・採決にも賛成させ、「総合区」設置の作業をすすめながら、本丸の「大阪市廃止・特別区設置」の住民投票に横滑りさせようというのだ。
もし24区を12区に合区して「総合区」にするだけなら、維新・公明の多数決で住民投票はいらない。だったら今やっている住民説明会も不要だ。しかし説明会の日程は決まっているから、どんどん出席して、質問をし、意見を言わなければならない。「特別区」については去年、法に基づく住民投票で正式に否決されたのだから、再びの住民投票はいらないし、協議会設置も不要だ。
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教員の質は落ちているか? 9年前の投書(2)

2016年09月21日 13時58分35秒 | Weblog
≪ 教員の質は落ちているとの断定に立った政策は正しいか ≫
 教育再生会議の目玉として、この国会に法案を出すという安倍内閣の教員免許法改正=教員免許更新制は上記の問題解決になんの役にも立たない、歴史に残る愚策です。ただ教員を統制するためだけのものです。そのことが目的の人々にはかつてないチャンスでしょう。不適格教員を排除するためだといいますが、すでに各県でつくられている制度でこの課題は達せられています。免許を更新することで不適格教員をどうこうすることは不可能ですし、単なる無駄遣い以外の何ものでもありません。30時間の講習を受けさせるといいますが、1回4時間として、8日かかります。受講者がそのような時間をどのようにしてひねり出すのでしょうか。運転免許の更新時の短時間の講習、免許停止者の4時間程度の講習を思いうかべれば、そこにあるのはみごとにシステム化され、流れ作業のごとき講習に対し、受ける側はとにかく免許証をを手にするために耐え忍ぶ姿です。そうでなければ膨大な数をさばけません。運転免許所有者は数千万いるでしょう。教員免許所有者は運転免許をのぞけば、おそらく最も多いのではないでしょうか。医師免許、税理士、保育士、社会保険労務士、危険物取り扱い、電気工事士など免許、資格はたくさんあります。百万の現職教員のほかに50万は下らない退職教員、拒食経験者の何倍もいる免許所有者、あわせれば500万を前後する免許所有者をどう講習するのでしょうか。学習指導要領がいうように自ら学ぶ力が問題なのに、むりやり30時間受けさせることの教育効果はどうでしょうか。私たちが講演をききにいくのは、この先生のこのテーマということが前提です。学校を出て以降の勉強の仕方、いうならば大人の勉強の仕方は、深めたいテーマがまずあって、そのために必要な勉強をする、本を読むという形です。究明型という勉強法です。それに対し、生徒の勉強法は、系統的な勉強です。土台から順に積み上げる勉強です。これこれをこの順に勉強しなさいとなります。こんどの講習30時間は、専門職の教師を対象にした勉強としては、倒錯したしろものです。政府からすると、上から押しつけたいものがあるからそういう方法をとるのだといえます。いずれにしろ、運転免許の講習に近い状況になることはさけられません。30時間の講習を予定されている各県の教員養成大学こそ大変な迷惑でしょう。夏休みだけでなく、教員以外の免許所有者のことを考えると、土日に年間を通して開講する体制をとらないとさばききれません。いやそんな人は別にこなくていいというのは、差別的取り扱いで許されません。講習を受ければそれで無条件に更新するのか。現職教員を選別する制度をそこで導入しようとすれば、現職教員でない人はほとんど免許をとりあげられることになります。そんな免許更新制はありえません。一方、校長、教頭や指導主事などはこの更新から除外するといいます。無前提に校長らが一般教員よりすぐれているという証明はどもにもありません。むしろ、もう授業をしたくない、担任などしたくない、そんなことはもう卒業したいという人が校長を目指すのです(全員がそうとはいえませんが、なってほしい人よりも、なりたい人がやっているのは確かです)。教員免許は、中高校では教科別にだされています。むしろ校長などは短くて10年、教育委員会勤務などを経て校長になった人は20年は授業をしたことがありません。その彼らが講習を免除されるというのはお笑いです。
 ここまで書いていたら、テレビのニュースで更新の対象は現職教員のみだと報道していました。そういう恣意的な免許更新制というのはありうるのかと、驚きを禁じえません。現に運転している人のみ運転免許更新だとしたら制度は崩壊します。政府が意図する制度は、もはや免許更新制ではありません。更新を使った単なる脅しです。そもそも日本で免許の更新制をとらないと質が維持できないという現実はありません。元東大教育学部長の藤田英典氏がどこかで言っておられたのですが、免許更新制をやっているのはアメリカだけだと。アメリカは教員の待遇が悪くて、なり手が少なく、読み書きも不十分な人が教員をやっている現実がある。だから、免許更新によって最低限の質を保とうとしているのだと。日本は、教員に採用されるのは、かなり狭き門で、高い水準を確保しています。私の身近でも、優れた学力と指導力、人間性をそなえた人が何年も講師として低賃金にたえながらがんばっています。
 教員を伸ばすのは現場です。自由な雰囲気、大学と同じように学問の自由が完全に保障されたもとで、自主的な教育研究(行政用語の研修という語はあまり好きではありません)を行なえることが決定的です。佐久間さんのいわれるとおりです。手弁当で身銭を切って勉強する自主研修の風潮が衰えたらおわりです。

≪ マスコミの教育問題の取り上げ方について ≫
 マスコミの教育問題の取り上げ方については、不満を感ずることがたびたびです。特にひどいのがテレビです。教員も、権力機関の末端に位置します。生徒に対して、成績・進級の判定、懲戒をするというように権力的にふるまうことがあります。しかし、教員も一回の労働者です。とはいえ、親からみたら、とくに有名大学をでて社会的地位を獲得した親からみたら、自分の方が上だという気分が生まれるのも一概に否定できません。ただ子どもの前で学校や教員を馬鹿にするような言動をするとすれば、それは子どもを教育する態度ではありません。この点は野口さんの指摘のことです。学校・教員からすれば、これはもう経験済みのことで、これをふまえて対応しています。
 問題はこのような風潮をテレビがあおりたてていることです。教職員の中での不祥事はどんなささいなことでも大々的に報道されます。類するような事象は世間には無数にあるなかで首をかしげざるをえません。マイナスイメージを植え付けるばかりです。教員と親との間の信頼関係にヒビを入れるようなものが目につきます。このような姿勢は少年事件でもいえます。あまりのセンセーショナリズムと猟奇趣味には辟易します。かつては少年事件を思いやりをもって報道する、むしろ報道しないという見識を持っていたと思います。いじめ事件でも、もっと冷静なとりあげ方を望みます。感情むき出しにした方が、視聴率をとれると考えているのでしょうか。
 今年の正月明けだったかと思いますが、あるコメンテーターのあまりにひどい物言いに初めてテレビ局に抗議を電話をしました。それは、フジテレビ系関西テレビの夕方の番組でした。3人現役の先生が出演し、教師はいじめを発見できるかという問いにイエス、ノーで答えるところから始まりました。若い教師二人はイエスと答え、この3月に定年を迎える小学校の男性教師はノーと答えました。ノーと答えた人から理由説明をしました。いじめをする子は教師の前ではかくす、特に高学年では、その点、親が変調に気付いたらすぐ学校にいってほしい、そうすれば90%うまく対応できるというような説明をしたのを、コメンテーターの青山繁晴氏が言葉をさえぎって、「あんたみたいな教師がいるからいじめが起こるんだ。最低の教師だ。うんぬん」とそれは聞くに堪えない罵詈雑言の嵐でした。その年配教師はそれでもつとめて冷静に自分の経験を説明しましたが、青山氏の罵詈雑言は終わりませんでした。それは人格を完全に否定するもので、根拠もなにもないのに、ダメな教師の代表だと決めつけていました。見ていた私からすれば、いじめは担任があらかじめ発見できるかといえば、発見できる場合が多いけどできない場合もあると思いました。どちらも正しい。自分はわかると思い込んでしまうことの方が危険でもあります。その年配の先生は、管理職にもならず、3月に定年を迎え、そこまでクラスをもって子供の面倒を見ている人で、実直そうな人でした。親からの一言があれば、適切に解決できるといっているのに、人格まで否定してしまう、そのようなワイドショーでの取り上げ方に暗澹たる思いにとらわれました。これは極端な例かも知れませんが、教師をやり玉にあげる、親のつらい気持ちも顧みない、このような傾向は、親と教師の信頼関係を築き、両者の協力によってはじめて子どもの教育はうまくいくのに、それにくさびを打ち込むばかりです。お互いにささえあう関係を築くことが根幹であるのに、そこに思いが至らない番組があまりに多いように思います。
 新聞は、テレビより冷静に報道しているように思います。教師がいじめを主導したケースは言語道断ですが、教師や親を励ます視点をもっていただくようにお願いします。
 教育記事で目につくのは、政府や教育委員会からの教育改革の説明のような記事が多いことです。はっきりいって、その施策への切り込みが少ないように思います。今回の教員の質の特集のような切り込みを望みます。個人的には、教育改革に待ったをかけないと大変なことになると危惧しています。本校の前校長が、大阪の教育もこのままつっぱしったらJR西日本になりかねないと語ってくれたことを思い出します。この文章は教育改革がテーマではありませんのでこれ以上触れませんが。
 朝日新聞で以前、東住吉高校の生徒の日々を紹介した記事は心に残りました。府立高校の良き伝統が息づいていることが紙面からもうかがえました。事件や制度改変だけでなく、教育の現場、生徒や親の姿を紹介することが、教育記事の新たな世界を開くと思います。朝日新聞が去年から編集方針を変え、ジャーナリズム宣言をしたことを歓迎します。心待ちにしていました。構造改革の結果が目に見える現在、その現場に分け入った記事を書かれていることに敬意を表します。教育でもこの視点をつらぬいてほしいと思います。朝日新聞は37年間読み続けていますが、数年前から05年までの紙面には大いに不満をもっていました。教育記事で個人的な経験では、北野高校定時制存続運動のとき、小杉記者から丁寧な取材をうけたことに感謝しているのですが、しかし紙面にはあまり反映されませんでした。定時制存続でこもごも語られた学ぶことへの切ない思いをぜひ取り上げていただきたかったです。
 今後とも、ジャーナリズム宣言を実践されることを希望いたします。
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教員の質は落ちているか? 9年前の投書(1)

2016年09月20日 22時52分40秒 | Weblog
新聞の切り抜きをはじめとした大変な量の資料を整理しないと足の踏み場もなくなっている。本も半分処分できれば、いつでも手に取って見ることができる。作業にとりかかったが、ほとんど処分できずになかば頓挫している。でもごく一部だが整理作業をしていたら、9年前に朝日新聞に紙面の感想を送ったものがでてきた。


2007年2月26日
朝日新聞大阪本社・オピニオン係様
山上 俊夫

朝日新聞07年2月23日付け「オピニオン・『教員の質は落ちているの?」を読んだ感想をお送りいたします。雑文でだらだらと書き連ねていることをお許しください。私は、山上俊夫と申します。北野高校定時制の教師で、社会科を教えています。来年で定年を迎える者です。

≪ 教員の質は落ちているか≫
結論を先に言えば、野口さんがいわれるとおり、日本の教員の質は落ちていないと思います。佐久間さんがいわれるように、教員の質を数値化する方法は確立されていないし、質が下がったというデータは見たことがありません。逆に上がったというつもりもありません。正直な思いを言えば、よく持ちこたえている、という評価です。しかし持ちこたえているという現実は、教員の質の絶対値を表すよりも、現実の教育課題との格闘においての教員の現状といういうべきものでしょう。
教員の質が落ちているという評価を教育学者から聞いたことはありません。聞くのは政府関係者とテレビからです。教育再生会議は、いまの公教育は機能不全だから、教員の質の向上をかかげたのだそうですが、ずいぶんひどい評価です。公教育という概念は私学教育も含むおおやけの教育という概念のはずで、公立学校教育ではありません。それはさておき、質が落ちた論で目につくのは、第1に、「指導力不足教員」の存在や、セクハラなどをする教員のような特殊な問題をあたかも全体の状況を表しているかのようにいうごまかしの議論であり、第2に、、複雑困難な教育課題や問題状況に公立学校が十分な教育効果をあげていないという評価に対する原因を教員の質の低下に求める議論です。いずれも教員の質を証明するものではありません。それどころか、俗受けする議論の仕方をしているところに意図的なものを感じます。
 時おり目にする議論で、私学の教員は能力があって、公立の教員は能力が低いというものにも、首をかしげざるをえません。一部私学のように同質の同じ目的を持った生徒を囲い込んで教育することで得られる教育効果を、それが教員の能力によるものだという思い込みは正さなければなりません。同じ方向を向いた生徒に叱咤激励をすればするほど、一斉に走り出し、いい結果をだします。いろんな家庭環境、成育歴、ばらばらな方向を向いている生徒をひとつにまとめて教育するのは、大変な苦労を要し、進学というひとつのものさしで見ると成果はそれほどではありません。私が、渋谷高校10年の後、定時制に転勤したとき、1年間、教育大付属池田高校で世界史の非常勤をした経験から言うと、よく勉強してくれ、反応もいいので教師の力をひきだしてくれるというのを実感しましたが、彼らを教えた教師がえらいわけではありません。生徒や世間の人々のなかには、学校のランク付け制度からみて教員もそれと連動していると思う傾向がかなりあるように思います。しかしそれは事実ではありません。困難をかかえた生徒を教育することこそ意義があります。
 いま日本では、大都市部を中心に、一部エリートが自らを囲い込んで別の社会をつくろうとする傾向が顕著です。それに教育が巻き込まれています。このままいくとアメリカのように社会が分裂する危惧を感じます。公立の小中学校の存在意義が問われているし、がんばらなければなりません。それにしても、かつてゆとり教育を決定した教育課程審議会の三浦朱門氏が、ゆとり教育の裏の意味、本当の意味は、エリートはわずかで結構、できんものはできんままでいい、せめて実直な精神だけ身につけてくれればいいということを、斎藤貴男氏に語ったことが現実に着々とすすめられてきたに怒りを覚えます。全部の子どもをかしこくすることを目指さず、格差教育をつくることをかかげた政策を実行しながら、今の教育、公立学校教育がなってないとバッシングするのです。政府は、現状をつくり出すことを意図していたのに、公立学校と教員を攻撃することで問題をそらそうとするのは容認できません。

≪ 現状のなにが問題か ≫
 小学校の学級崩壊が問題になって何年もたちます。中学校と現象的には同じ問題をかかえることになったわけです。
 小学校の学級崩壊は、本来なら学級をまとめていく役割を果たすべき成績上位の児童が、勉強についていけない児童といっしょになって遊び、かきまわすことによって起きているところに問題解決のむずかしさと悲劇があります。中学受験をする児童が、すでに先走って勉強しているので特に真面目にする必要がない、塾の勉強での疲れを学校の授業中に騒ぐことでストレス発散をするなどの問題があります。かつては担任を補佐するような存在でもあり、自治的な集団づくりでもそれなりの役割を果たしたであろう児童が、マイナスの役を演ずるとなると、その差し引きは大変なものになります。すこしでも歯車がくるうと学級崩壊になります。さらに、学習の習慣づけや、生活習慣の指導も、以前にくらべで家庭が担っていた分を受け持つ割合がふえています。いちゃもんあるいは正当な要望をぶつけてくる保護者がふえているという問題もあり、それを受容しつつ、その背景にもふみこみながら、親とあらたな協力関係をむすんで解決方向をさぐるという課題もかかえています。
 それでも多くの教員が持ちこたえていることこそ、驚異です。はっきりいって、アメリカの小学校のように18人学級にすべきです。でなければ、複数担任制にしなければ、もちません。問題がここまで複雑困難になっているのに、そこに目をつぶり、教員の質が落ちたからだなどというのは、よほどの無知か、悪意にもとづくものといわざるをえません。
 私の体験でも、日本の小学校の教育、教師の力量は大したものです。かってに動き回り、落ち着きのない子どもを、きちんと前を向かせ話を聞くように習慣づけ、世界的にも高い学力をつけさせています。以前、家の倉庫を片付けていたら、子どもの小学校時代の作品が出てきました。それは文集であり、教科でひとまとまりの勉強をしたあと、それをまとめ、表現する活動をした証がリボンでとじた何枚かの画用紙にしるされていました。学芸会のほかに、お楽しみ会での小さな発表も随時おこなわれていたようです。総合的な学習でやってるようなことが、以前は日常の教育活動のなかに組み込まれていたのです。
 中学校は以前から多くの教育困難をかかえていました。一定数の生徒が、授業に集中せずさわぐ、立ち歩く、出ていく等々です。その背景にある根本問題は、勉強がわからないということです。小学校4年生頃からじょじょに勉強から遅れ、中学校ではついていけなくなっていることが問題の根幹です。また、ぜんそくをはじめ病気で長期入院した子どもの落ちこぼれも重大で回復が困難です。入院した子どもの院内教育、派遣教育、勉強についていけない子どものための複数教科担任などが必要です。勉強で疎外感を味わわせないことが、崩れをふせぐ根本です。そのための教員の配置が求められます。
 学力低下が問題だ、教員の力が落ちているといわれます。しかし、佐久間さんもいうように、世界でも上位グループです。それでもやや落ちてきているのですが、そこにある問題は、学力上位層と下位層のふたこぶラクダ型になっていることです。あきらかなおちこぼれをつくり出していることに問題が集中しています。この生徒たちにしかるべき手立てをとれば、日本は世界一になるでしょう。この点で、参考になるのは、フィンランドです。学級規模がちいさく、生徒同士が教え合うクラスなどたいへん教訓的です。
 中学校の教員はもっとも疲れています。教員をふやして、負担を軽減しないと、課題をかかえた生徒をあまねく受け入れている公立中学校はたちゆかなくなります。それを教師の力量が落ちているとか、質が落ちているというのは現場を知らないもののいいぐさです。教員をバッシングし、管理統制をつよめるなど政治目的のために教育政策を左右しているうちは、状況はもっとひどくなります。教師のまじめさだけにおんぶしていてもやがて本当の限界がきます。
 高校は、教育条件的にも、生徒が少しは大人に近づいている点からも、中学校よりは恵まれています。しかし、あいつぐ教育改革、特色づくり競争、学校間競争によって、高校でも多忙化がすすみ、教材研究のゆとりがうばわれています。総合学科や普通科総合制など新しい学科の上からの押しつけによって、5科目6科目も受けもたされるようでは、学問的裏付けをもった優れた授業を準備することは無理です。多様化にストップをかけて、もっとシンプルな学校に戻すべきです。
 高校の教育困難としては、学区のさらなる拡大によって、学校間格差が際限なくすすむことがあります。教育困難の集中する学校では、それでもさまざまな努力で中隊を防止し、自立した社会人を育てるためにがんばっています。
 定時制では、全日制にいけない生徒、中退して働いている生徒、かつて学ぶ機会をうばわれていた年配の生徒が学んでいます。その定時制も半分に減らされます。半減の結果、すでに働いている生徒は通学困難から入学の希望さえなくします。定時制が半減することは、社会政策的にも最悪の方策です。ゆったりした定時制に通うことでなんとか一人前になる道を保障してきたのに、その場所を奪うことは、後に禍根をのこします。 (つづく)
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戦争法強行1周年、うつぼ公園で集会、なんばまでデモ

2016年09月19日 23時41分00秒 | Weblog
 2016年9月19日、戦争法が強行されて1周年に日に、大阪うつぼ公園で総がかり行動実行委員会主催で集会が開かれ、そのあと、なんばまで御堂筋をデモをした。5000人以上の人が参加した。うつぼ公園の深い森にぽっかり空いた広場をびっしり埋めた。前日は土砂降り、当日も朝から雨で心配されたが、開会時間が近づくと雨が止んだ。広場はぬかるんだが、雨がやんでよかった。
 2時からの集会は早めにおわった。デモに移るまで時間がかかった。御堂筋デモは休日ということで多くの人出の中を歩いた。若者風の短いシュプレヒコールで大声をあげた。短い方が大声を出しやすい。北御堂、南御堂、難波神社を通って、宗右衛門町、道頓堀、なんば高島屋、難波元町公園まで1時間半かかった。
 東京はじめ全国で集会がおこなわれた。立憲主義破壊、憲法違反の安保法制は廃止するしかないという声はいささかも衰えていないということを示した。
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商道徳をわきまえないドン・キホーテのやり方

2016年09月18日 21時39分41秒 | Weblog
前々から、ドン・キホーテの商売の仕方に違和感を覚えていた。それは何かというと、ドン・キホーテは安い、近隣のどのスーパーよりも安いという宣伝の仕方にある。どこよりも安いという範囲では問題はない。わたしが問題だと思うのは、ドン・キホーテが店内いたるところに、完全調査済みだといって、これこれの商品は関西スーパー様より何円安い、この商品はイオン様より何円安い、このティッシュはコーナン様より安いなどというステッカーを貼りめぐらしていることだ。
 問題だと思うのは、他店の名前を宣伝に勝手に利用していることだ。まさか関西スーパーやイオンやコーナンに承諾を取っていることはないだろう。承諾を取ったうえで名前の使用料を払っていることはないだろう。自分の宣伝のために、他社の名前を勝手に使っているのだ。こんな宣伝は他に例を知らない。政治宣伝で政権党を批判することは民主主義の原理として認められている。批判なしに民主主義は成り立たない。でも商取引の世界ではどうなのか。少なくとも批判には反批判の権利が保障されなければならない。
 ドン・キホーテの全ての商品が他のすべてのスーパーより安いということはないだろう。商品には価格だけでなく品質が大切だ。わたしはドン・キホーテがやや遠いのでごくまれにしか行かないが、こんな記憶がある。鶏のレバーと心臓のパックは確かに関西スーパーより安かったが、ドンキのそれはちゃんと仕事をしていない、脂肪などを取り除いていないものだった。だから商品の比較を値段だけに単純化することには慎重にしなければならない。
 昨日、久しぶりにドン・キホーテに行った。あれっと思ったのが、サンデイの品よりも安いというステッカーが3枚あったことだ。以前は、サンデイ以外のスーパーをやり玉に挙げて宣伝していたのに、サンデイより安いとはいわなかった。ところがサンデイあったのでビックリした。たしかにサンデイは安い。開店10分前からお年寄りが列を作るのだ。さすがのドン・キホーテも対抗できなかったのに、3商品だけは勝ったと自慢げに宣伝していた。
 どこよりも安いと自慢していたのに、本当はそうでもなかった。サンデイよりも少し安いものが見つかったのでこれ見よがしに貼りだした。比較の方法は新聞折り込みのチラシによるらしい。価格競争はやってくれたらいい。
 でも他店をやり玉に挙げて、その名前を宣伝に利用するのは商道徳に反すると思う。利用するのだったら、了解を取ったうえで、名前の使用料を払うべきだ。それが資本主義の原則だろう。
 
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沖縄県民の意思を内閣と一緒になって押さえつける判決

2016年09月17日 11時14分34秒 | Weblog
昨日(2016・9・16)、福岡高裁那覇支部(多見谷寿郎裁判長)が、法の番人としての役割を捨て、政府の追認機関に堕した判決(翁長知事)を出した。国が翁長知事の辺野古埋め立て承認取り消しを取り消せと命令したのに、知事が従わないのは不当だとして国が起こした裁判の判決だ。
 はっきり言って、安倍内閣に追随判決だ。ろくに調べもせずに早々と判決をだすということから、最初に結論ありきの判決だとは思っていたが、そのとおりだった。「国防・外交上の事項は国の本来的任務であり、国の判断に不合理な点がない限り尊重されるべきである」「普天間飛行場の危険性を除去するためには辺野古埋め立てしかない」という。国防外交は問答無用、国に従えというのだが、沖縄だけになぜこれが押し付けられるのか。他県でこんな横暴に裁判所が従えといえるか。普天間の負担を辺野古に移し替えるのを県民意思は拒否しているのに、なぜ国に従えといわれなければならないのか。
 「(環境破壊などの)不利益や沖縄の民意を考慮しても、公有水面埋立法の要件を欠くと認めるには至らない」という。翁長知事が埋め立て承認の取り消しを行なったのは、第3者委員会を発足させ、9カ月かけて公有水面埋立法に沿って丁寧に検討した結果だ。仲井真前知事が環境破壊に目をつぶり、翁長知事が環境破壊を止める判断をした、そのどちらが公有水面埋め立て法に沿っているのか。ここを本格的に検討することなく、外交防衛にかかわることで県が国に盾つくのは認められないと押さえつける。
 国と地方公共団体は対等・平等であると地方自治法は改正されている。この判決はその改正の趣旨からほど遠い。翁長知事の決定は、もはや動かない県民の総意だ。だが国は従えと命令し、従わないのは違法だと裁判を起こした。判決は、従わないのは違法だという。とにかく力づくで押さえつける構図だ。
 沖縄県民が、国や裁判所のいうことはごもっとも、と屈服すると思ったら大間違いだ。
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中国では大同炭鉱万人坑にいきました

2016年09月13日 22時13分04秒 | Weblog
9月18日は、1931年の「9・18柳条湖事件」=満州事変85周年に当たる。関東軍(日本軍)傀儡国家の下で、1932年の9月16日には「平頂山事件」が起こされた。平頂山事件は、抗日ゲリラが南満州鉄道の経営する撫順炭鉱を襲撃し、日本人職員を殺害したことをとらえ、平頂山住民がゲリラと通じていると決めつけて、村民を殺害した事件だ。子どもから老人まですべてを集めて、機関銃で殺害し、土砂で埋めた。犠牲者はおよそ3000人だ。この殺害現場を平頂山万人坑という。万人坑は単純に1万人を意味するものではない。
かつて平頂山万人坑を訪れた際、その惨状に息をのんだことが思い出される。こんどの山西省大同市への植樹ツアーの行程に万人坑が入っていた。訪れたのは「大同煤鑛万人坑遺址記念館」だ。盧溝橋事件を機に中国全土に攻め込んだ1937年から敗戦の45年までの間、大同炭鉱で石炭採掘をした。日本は石炭を1400万トン略奪したと書かれていた。買ったのではないから奪ったのだ。中国人労働者に賃金は払っただろうが金額はわからない。大同炭鉱には20の炭鉱がある。その20か所で万人坑が形成された。非人間的な労働環境で死亡した、あるいは働けなくなった労働者を投げ入れたところが万人坑となった。説明では6万人と書かれていた。
 1966、67年に12名の学者がこの万人坑を掘り出し、死体判定をした。死体の衣服の名札と鉱山所有の履歴書のようなものとが照合された写真が6~7体分展示されていた。万人坑の遺体の名前が、一部ではあれ特定されていることに衝撃を受けた。折り重なる遺体の展示もあった。
 中国人の教育用の施設として整備されたもので、日本人の訪問者はごくわずかのようだ。
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「見境のある殺人」を許さない

2016年09月12日 22時30分10秒 | Weblog
 『毎日新聞』2016・9・11の2面「時代の風」に日本総合研究所上席研究員・藻谷浩介さんの論考が載った。「相模原事件に思う 『見境ある殺人』も許さぬ」だ。
 相模原市の障がい者施設で大量殺人事件が起きた。「重度の知的障碍者は生きていても無駄」だと唱えた犯人による「見境ある殺人」だ。藻谷さんはいう。「他人に見境なく殺されるような世の中ではかなわない。だから見境なく人を殺した者は、必ず罰せられる。だが『見境のある殺人』はどうだろう」と問題を提起する。「人含集団の中のどこかに堺を設け、その向こう側にいる他人を殺すことは、きちんと罪に問われているだろうか」「残念ながら人類は歴史を通じて、戦争という『見境ある殺人』を見過ごしてきた。」藻谷さんはチャップリンの「殺人をすれば犯罪者、戦争をすれば英雄」という有名な言葉を紹介する。さらに「戦後の日本は、見境ない殺人はもちろん『見境ある殺人』をも許さない、健全な社会を築き上げてきた」という。
 まったくその通りだ。憲法9条がこの道を切り開いた。9条以前でも、もちろん捕虜や戦う意思をなくした兵士の殺害・虐待は国際法で禁止してきた。毒ガスや細菌兵器など大量殺人兵器、さらに最近はクラスター爆弾などの残虐兵器を禁止している。ならば核兵器禁止条約もつくるべきだ。残虐度・大量殺人度では一番だ。そこへいく第一歩として核先制攻撃放棄宣言をすべきだ。安倍首相はオバマ大統領の先制攻撃放棄への政策転換の足をひっぱり妨害した。国際法は無差別攻撃、すなわち民間人への攻撃を禁止している。このように戦時国際法で戦争にルールをつくってきた。
 しかし、国際法は戦争を禁止していない。侵略戦争は禁止しているが。日本国憲法第9条は、交戦権を放棄し、戦力の不保持を宣言している。日本国憲法がはじめて、個人や集団による殺人だけでなく、国家的殺人すなわち戦争を禁止した。「見境のない殺人」と「見境のある殺人」を別の論理で扱うのではなく、同一線上の命の問題として扱う道をひらいた。
人権先進国といわれるアメリカが、最悪の侵略国家であり、イラク・ファルージャなどで大量無差別殺人をしても、反省も謝罪もしない不道徳国家であることとの、別世界ともいえる違いが日本国憲法にはある。アメリカはまた、数え切れない銃殺人があるにもかかわらず、犯罪阻止のための銃規制をしようとしない。人権を盾に人権侵害の極み=殺人を放置する。究極のダブルスタンダード。
 相模原のような「見境のある殺人」だけでなくテロ殺人も戦争も許してはいけない。殺人に軽い重いはない。少数殺人も大量殺人も許せない。殺人の手を縛ることが必要だ。殺人用具、兵器を縛るべきだ。極限まで制限すべきだ。大量破壊残虐兵器だけでなく、通常兵器も規制すべきだ。その輸出を禁止すべきだ。死の商人の手を締るべきだ。核兵器から通常兵器まで、あらゆる段階でみずからの手を縛ることを通じて、核兵器廃絶、戦争の廃止へとつながる。みずからは最新の最強の兵器を貯えながら、他に対して追随を禁止するというのは論理的にも倫理的にもなりたたない。銃殺人をなくすには銃を放棄するしかない。すべてに通用する論理を大切にしたい。
 藻谷さんの論考をてがかりに今日のブログを書いた。
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日米合同演習反対 9・11あいば野大集会

2016年09月11日 22時31分17秒 | Weblog
今日、滋賀県高島市今津町の住吉公園であった「戦争法廃止 日米合同演習反対 9・11あいば野大集会」に参加した。750人が集まった。だが暑かった。カンカン照りのもと芝生に腰を下ろしたが、汗がだらだら流れる。デモも汗だらけ。ちょっとこたえた。
9月11日から21日まで11日間、陸上自衛隊あいば野演習場で日米合同演習がおこなわれる。いうまでもなくアメリカ軍はベトナム戦争やイラク戦争などの侵略戦争を行ってきた軍隊だ。それと一体になった訓練はどいういうものか自明だ。世界中どこでも96時間以内に移動できる高速装甲車ストライカーを使った訓練や155mmりゅう弾砲での実弾演習をおこなう。またアフガンやイラク、シリアを想定した市街地での戦闘訓練をおこなう。いずれも専守防衛の自衛隊の行うことではない。もはやアメリカ軍と一体になって海外展開をすることを目標としている。
安倍政権が強行した安保法制施行後はじめての合同演習であり、より危険性が増している。あいば野での日米合同演習は、1986年以降今回で15回になる。このような合同演習の常態化と自衛隊の演習の強化は、地元高島市民の「平和的生存権」をおびやかしている。昨年7月16日、12・7mm重機関銃の弾丸が民家の屋根と天井を貫通した事件の原因も究明していない。
 集会には、7月の参院選沖縄選挙区で現職大臣に10万以上の大差をつけて当選した伊波洋一さん、日本共産党衆院議員・宮本岳志さんも参加し、連帯激励あいさつ、情勢報告を行なった。リレートークでは高島9条の会世話人で真宗大谷派法正寺住職の青地徹さんの決意表明があった。また天台寺門宗管長・三井寺長吏・福家英明さんからメッセージが寄せられたことに注目した。デモは、旧今津町内と自衛隊正門を1時間かけて回った。
集会では赤とんぼがたくさん宙を舞い参加者のこころをなごませた。大阪の安保破棄実行委員会は大型バスで参加したが、行きも帰りも大渋滞に会った。道の駅で琵琶湖名産のアユや野菜を買って帰った。
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大阪府立高校つぶしを許すな

2016年09月10日 22時49分14秒 | Weblog
 大阪府教委が5日に教育委員会議をひらき、新たな府立高校つぶし案を発表した。西淀川高校(西淀川区)を2017年度から、北淀高校(東淀川区)を18年度から募集停止し、18年度に北淀の校地校舎でエンパワーメントスクールをつくるという。横文字風のものはいかがわしい。もうひとつは、大正高校(大正区)と泉尾高校(大正区)を18年度に募集停止し、同年度に泉尾の校地校舎を使って新たな高校を整備するというのだ。11月の教育委員会議で最終決定する。
 そもそも、維新が押し付けた、3年連続定員割れをした府立高校を廃校の対象にするという府立学校条例が土台にある。
 公立高校は、生徒の学ぶ権利を保障するためにある。定員割れは必ず起こる。それが特定の学校に集中するのは避けられない面がある。だからといってその高校が要らない学校のわけがない。その高校を必要としている生徒がたくさんいるのだ。
 定員割れをつづける高校は存続させるに当たらないというのは、勝ち組負け組の最悪の新自由主義だ。教育の精神とは真逆だ。こんな反教育的な政策を続ける今の大阪は異常だ。長い歴史から見て異常だ。
 全国的にも異常だ。北海道や鹿児島はじめ全国的には定員割れの高校をたくさん抱えている県が多い。定員割れが当たり前なのだ。定員割れした学校は悪い学校という発想がない。当たり前のことだ。余裕をもって、空きをかかえて生徒を待っている姿こそ尊いではないか。競争させて、はじきとばすのではなく、余裕をもって受け入れるのが本来の教育ではないか。
 定員割れが大きくなったら、その時は1学級の定数を40人から35人に下げるなど、教育条件改善のチャンスではないか。とにかく新自由主義的な教育政策に反対を呼びかけたい。
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投書「大阪の教育力低下を憂える」に納得

2016年09月07日 23時44分33秒 | Weblog
『毎日新聞』2016・9・5に「大阪の教育力低下を憂える」と題する投書が載った。無職の大嶋信次さん(60)のものだ。
 
「最近の先生はあまり本を読まないらしい。部活による長時間勤務のため、教材研究もままならない日々で、読書する時間も気持ちの余裕もないと聞く。従って、読書感想文の指導も満足にできなくなる。
 どうして、このようなことが起きるのか。端的に言えば、進学至上主義、部活の勝利至上主義で現場の先生たちが評価されるからだ。大阪市では、中学校の学校選択制を採用している23区全てが中学校案内に卒業生の進学実績を掲載することを決めた。「公立中学校の進学指導は進学実績を上げることが目的ではない」というある校長の意見は、実に教育者らしい発言と思う。だが、”改革熱”に浮かされた行政は管理職と教員を同調圧力で追い込む。
 大阪の数年来の教育事情の変化は優秀な人材の減少をもたらしている。これは確実に公立学校の教育力低下につながる。本来、教育評価の時間軸はとても長い。目の前の結果だけを追えば必ず反動がやってくることを強く憂える。」

 大嶋さんの論旨に賛成する。
 最近の先生は本を読まないのは事実だろうが、実際は、読めない、読む時間と精神的余裕がないのだ。これは本質的に深刻な問題だ。本を読まなくても、部活指導はできるし、進学指導もできる(進路指導とイコールではない)。締め上げるテクニックにたけた人ならば、本と縁がなくても成果は上げられる。教材研究に時間が割けないことが深刻になっている。教養的な読書よりも授業の中身そのものを決する問題だ。だから先生の読書はよりむずかしくなっている。
 私の経験でも、教材研修のための読書でも、一から積み上げて自分独自の教材をつくるのは時間がかかって、年にいくつもできない。一歩改善程度のものでもできればいい。これが実際だ。ところが今は、大阪では維新政治が教育を制圧しているので教材研究の余裕さえない。教育の良心を窒息させている。窒息しても、統一テストで締め上げる、学校別の成績順位を発表することで追い込む。テスト対策に特化すれば、一時的には成績が上がり、非教育者はよろこぶ。しかし永遠に伸び続けることはない。教育の本筋にもどる、本筋を大切にすることしかない。
 中学生をテスト競争の重圧に追い込むことは、学力向上とは無縁だ。維新政治は学校別に成績を公表するのは政治の透明化と同列としているが、これは生徒の成績をあばくことにつながる。小規模校ならば個人情報の暴露に近い。許されないことだ。地域的な差別につながる。生徒の学力観にもゆがみを生じさせる。
 大嶋さんが紹介した校長の見解は、校長レベルではもはや少数派ではないか。がんばってほしい。
 大阪の優秀な人材の減少は深刻だ。何年も前から、採用試験で大阪と他府県に同時合格したら、他府県に行くケースが多くなっている。維新による教員いじめ、自由のはく奪に恐怖を感じて、そうするのだ。他県から大阪が変に感謝されている。「大阪さん、ありがとう」と。橋下氏が権力者だったころ、教員の他県志望が顕著になったことに対して、「維新の政治についていこうという教員だけでいい」という趣旨のことをいった。これは橋下維新の教育支配の欲望をあからさまにした言葉だ。もとより、政治権力が教育を支配してはいけないのは歴史の教訓だし、教育の原則だ。維新の教育支配に従順な人ばかりになることは、大嶋さんがいうように、教育力の低下になる。優秀な教員が大阪から逃げているのは、新採用者だけではない。学校が抑圧的になり、教育的良心にしたがって思う存分教育ができなくなっていることから、公立の有名進学校で、他県の私学に転職する人がつづいていることが心配だ。 
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中国植樹ツアー報告(3)

2016年09月04日 07時06分13秒 | Weblog
 緑の地球ネットワークの黄土高原スタデイツアーでは、もう大同市で確保した土地は植え尽くし、他に適当な場所もなくなり、今度、河北省に活動の舞台を移す段階に来ている下での活動だった。そのため、実際の植樹活動は少しだった。この点、物足りなさが残ったのは事実だ。でも過渡期でしょうがない。
 20年以上前、黄河が大きく湾曲している内側のクブチ砂漠で植林をしたときは、労働そのものだった。長ぐつ持参。まさに月の沙漠の風景だった。そんなところに植樹するのは、砂漠緑化そのものだった。砂漠なので活着率はそう高くない。ちなみに黄土高原は砂漠ではない。でも環境破壊とたたかう最前線だ。
 こんどのツアーの最後に北京の中国人民対外友好協会で緑の地球ネットワーク25周年の記念シンポジウムがあった。中国の要人も出席し意見交換が行われた。そのあと会場を移し、「中日友好使者称号授与儀式」がおこなわれた。高見邦雄・緑の地球ネットワーク事務局長が「中日友好使者」の称号をもらうことになった。日本公使も出席し挨拶した。25年の活動を総括する高見さんの講演も行われた。現地で迎えてくれ、案内してくれた高見さんは、日焼けした中国人の農民に近い風貌だ。質素は服装で植林地を歩き回る人だ。年間90から100日現地に滞在して中国人と協力して仕事をすすめている。表彰式で高見さんは、背広を着て現れたが、どこか借り物の服を着ているという風情だった。そしてずっと恥ずかしげだった。よくあるような得意満面の政治家の風情とは対極だった。人生をかけた、このようなひとの努力で中国の緑化がすすんできた。中国との関係が悪くなっている下だからこそ、地道な活動が重みを増している。


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中国植樹ツアー報告(2)

2016年09月03日 21時56分53秒 | Weblog
 この度、緑の地球ネットワークの黄土高原スタデイツアーで、山西省の大同での植林に参加した。緑の地球ネットワークは山西省北部の大同市で活動している。中国の市は日本でいえば県だ。中国の県は日本の市だ。 
 ➀霊丘県の南天門自然植物園での活動。海抜1316mの南天門という山の麓から頂上近くまでが植林地だ。ここが木の成長が最もよく、樹種も多い。見事な自然林として育っている。植林は海抜900mの自然園の事務所近くでおこなった。土はやわらかい。スコップでやすやすと掘れる。ここも黄土高原だとわかる。一人一本ほどのアブラマツと柳を植えた。もっとたくさん植えるのかと思っていたが、大同市で得られる植林活動の場がもうなくなり、あらたに河北省で活動する転換期にあるということだった。昼食で中国のカップラーメンを食べた。そのあと1100mくらいまで登って、ふもとまで見下ろして、25年に及ぶ植林活動の成果を実感した。松は直径10センチ、高さ10mを越すほどに成長している。木の種類は600種、科は80に達する自然林となっている。登るときも、下草と枝をかき分け、ずり傷を気にしながら息を切らせての行動だった。山の北斜面は活着率がよく、南斜面はよくない。常識を覆すことを教わった。冬、南斜面は夜凍ったのが昼溶けるをくりかえすことで植物の細胞を破壊するのでダメになるそうだ。北は凍ったままなので生きていける。実際あちこちの山でも北斜面が木の育ちがいい。
大同市の山は基本的にはげ山だ。それは中国での文明の発達とともに黄土高原は荒廃してきた。草を食べつくす山羊や羊の放牧。豊かになるためには山羊や羊をふやす。環境破壊との悪循環が止まらない歴史だった。耕作もそうだ。黄土高原では「耕して天に至る」という言葉がその特徴を表していた。だがむきだしの黄土は、雨が降ると表土を流し、浸食谷をつくる。実際行ってみると、テーブル状の高原が、あるところで垂直に近い崖になっている。それが折り重なって深い浸食谷をつくっている。今立っているところもいつかは崩れるときがくる。そもそも黄土高原は、西のタクラマカン砂漠からの偏西風に乗った黄砂が太行山脈にぶつかり、数十mの厚さの黄土高原を形成した。黄土高原は、山西省、その西の陝西省、さらに寧夏回族自治区や甘粛省まで広がっている。ここが中国文明のゆりかごであり、舞台だった。だから環境破壊もすすんだ。
②アンズ果樹園。渾源県呉城郷のアンズ果樹園へ。この果樹園こそ、もう1m前に出たら断崖絶壁という典型的黄土高原の姿をとどめている。そこに30万本ものアンズを植えている。立派に実っている。アンズの実は乾燥アンズに、種はヒマワリの種のように菓子に加工している。村人にとっては粟やキビをつくっていたころに比べたら格段の収入になった。収益の一部は教育費にあてられ、すべての子どもが学校に行けるようになった。商品化したアンズの種を割って中の実を食べるとアーモンドのような味だった。だが買い物時間に大同城区のウオールマートで必死に探したが、このアンズの種は売ってなかった。
③大同県王千戸庄の緑の地球環境センター。大同市政府から提供された23ヘクタールの土地で苗をつくったり、多様な植物を育てて、展示管理している。2011年に土地を確保して15年にプロジェクトは完成した。ここで8月29日、「中日緑色地球環境中心(センター)緑化基地建設項目竣工儀式」がわれわれも参加しておこなわれた。日本の北京大使館の前川一等書記官や大同市総工会(労働組合)副会長があいさつして式がおこなわれた。前川書記官は一日中われわれと行動を共にした。ここでわずかに残った土地にアブラマツを植えた。一人当たり1本だ。相当大きく育った松を植えた。アブラマツは日本にはない中国の松だ。でも区別はつかない。このあと全体を見て回った。多様な木と野菜が植えられていた。野菜はここの現地職員の食用だ。ここには日本政府の資金援助も入っている。昼食はここのセンターのおばさんたちがつくってくれた料理をたべた。おいしい。スッポンの炒め煮まであったのにはびっくり。人生2度目のスッポンだった。
④大同県聚楽郷の采涼山地球環境林とカササギの森。采涼山はなだらかな丘だった。采涼山プロジェクトは2000年から始まり、モンゴリマツを3m×1m間隔でうえた。斜面に垂直に畝をつくり、うねの陰に苗を植えた。畝をつくることにより雨が降っても土が流れず水がたまる。
これと地続きの実験林場カササギの森。黒と白のカラスに似た鳥・カササギがいる森だ。2001年から、谷をはさんで向かい合う600ヘクタールにモンゴリマツを中心に植えている。モンゴリマツ1本1本に番号をつけて観察を続けている一角もある。少数の枯れたもの、生育の悪いもの、直径10センチにまで太ったもの。全体に成長はいい。ここにはイオンやサントリーなどの会社や労働組合の植樹記念碑がたくさんある。中には画家の平山郁夫さんや政治家・武村正義さんらの碑もあった。安倍首相の流れの右翼政治家のはなかった。
大同市での日中協力の植樹活動は大いに成功している。苦労の連続だったと思うが、正しい道だった。
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