不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

ハンセン病原告団会長・谺雄二さん死去

2014年05月12日 22時15分39秒 | Weblog
 2014年5月11日、ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会会長の谺雄二さんが亡くなった。5月11日は、2001年に、90年間もの国の強制隔離政策を違憲として断罪した国賠訴訟熊本地裁判決の出された日だった。また、第10回ハンセン病市民学会総会・交流会が開かれているなかでの死だった。
 7歳で発病し、1939年、のちの多摩全生園に入所し、51年からは群馬県草津市の栗生楽泉園に移った。患者への偏見と差別、虐待に対するたたかいの先頭に立ち、1996年、患者隔離を定めた「らい予防法」廃止をかちとった。『赤旗』11日付によれば、1955年日本共産党に入党となっている。
 今年の4月30日開館、5月1日から一般公開にこぎつけた患者懲罰施設「重監房」の復元にも尽力した。栗生楽泉園の重監房には、反抗的とされた入所者が各地の療養所から送り込まれ、23人が命をおとした(『朝日』『東京』)。
 わたしは、社会科教師として、国賠訴訟熊本地裁判決以後、憲法学習の平等権の教材としてこの運動と判決をとりあげてきた。また大阪大学の廣川和花さんのハンセン病史の研究も資料として使ったりした。廣川さんの博士論文の中心部分は、草津温泉が江戸時代からハンセン病者の自由療養地として利用され、地域住民と混住しながら治療してきた長い歴史があること、しかもその地域の社会経済的分析も含めて構造的歴史的に問題をとらえた点で並の研究とは質が違っていた。高校生にそのまま持ち込んでもダメなので常識をくつがえす自由療養地とこれを否定する強制隔離が草津にもおよんで1932年栗生楽泉園がつくられ、自由療養地がつぶされたことを簡単に紹介した。
 栗生楽泉園は、数年前、旅行した際に立ち寄った。予約なしに突然であり、しかも日曜日?だったため、宿直の職員の人にご迷惑をおかけした。まだ一般国民への教育施設も整えられる前だったので、すこしお話を聞いただけで引き上げた。

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『朝日』の「反基地に反対・... | トップ | 安倍首相の集団的自衛権容認... »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
日本人の誇り (shigeo)
2014-05-13 23:55:10
 谺さん、神さん、が市民学会開催中に亡くなった。政府はお元気な時に国民栄誉賞を与えるべきだった。運動と同じく差別撤廃に貢献された業績は計り知れない。
 詩人としての谺さんの代表二篇は、私は、「ライは長い旅だから」と「死ぬふりだけでやめとけや」を採る。 
 「ライは長い旅だから」の題名初出は「ライは」の言葉はない。正面から「ライは」と言い切るまでに、さすがの谺さんも少し時間がかかった。
 「死ぬふりだけでやめとけや」は野趣横溢の音楽詩。教科書に載せるべき詩である。もはやハンセン病文学の範囲を軽々と越えている。
 「療養所文芸なんかつまらない。」「塔和子さんの詩は闘わない詩だ。」「もののけ姫は愚作だ。」などのご意見は永遠のやんちゃ坊主・谺雄二だけが言えること。
 谺さんは、「私と日本共産党」と言う言い方ではなく、「私の日本共産党」と言い続けた。日本人の誇りであるのは、日本共産党員であったからだ。
Unknown (yamagami)
2014-05-15 15:35:36
ハンセン病文学・日本近代文学研究者である秦重雄さんのコメントは谺雄二さんへの最高の弔辞だと思います。

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事