山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

映画「生きろ 島田叡——戦中最後の沖縄県知事」を見る

2021年04月13日 11時31分58秒 | Weblog
 第七芸術劇場で佐古忠彦監督の「生きろ 島田叡(あきら)——戦中最後の沖縄県知事」を見た。「アメリカが最も恐れた男 その名は、カメジロー」をつくった佐古監督の作品だからこれは見るべしと思って行った。
 戦時中までは知事は官選、官僚だった。沖縄は戦後はアメリカの軍政となる。沖縄が地上戦に突入することが必死の1944年(昭和19)11月18日、牛島満司令官は「県民指導要綱」を出す。そこには「第一方針 六十万県民の総決起を促し・・・軍官民共生共死の一体化を具現」とあった。住民も軍と一体化して戦えということだ。その最後の姿が集団死だった。住民を保護すべき官=行政も軍事作戦推進を仕事とする。
 最後の官選知事・島田叡は1945年1月12日大阪府内政部長から沖縄県知事への異動発令を受け、家族と別れて、31日着任。前任知事は12月末に空路上京し帰らなかった。その主な部下も出張を理由に東京へ行った。役人にあるまじきと評されるが、自分第一の考えから軍との共生供死を拒否した行いだった。
 島田は死を覚悟して、沖縄県民の命を背負う道を選んだ。まず県民の食糧のためアメリカが制海権をにぎるなか台湾から米を確保した。だがまたたく間に米軍上陸、地上戦となる。日本軍は県民の命を守ることは眼中になく、本土決戦のための時間稼ぎが作戦思想だった。県庁も壕を転々とした。日本軍が住民の壕に入り込み、食糧を奪い、幼児を殺害するなど暴虐を尽くした。
 島田は6月15日県庁解散を決断した。それは「軍官民共生共死」を遮断することだった。島田は住民には投降を促すことばをかけた。県庁輸送課職員だった山里和江さんは、軍司令部に向かう島田の最後の姿とことばを覚えていた。「君たちは最後には手をあげて出るんだぞ、敵は女子供にはどうもしないから絶対に友軍と共に行動するんじゃないぞ、手をあげて出るんだぞ、とおっしゃって軽くわたしの肩を押して出ていらっしゃいました」と証言している。
島田の影響を受けた住民は集団自決することなく生き延びた。
 沖縄戦から75年、アベスガ政治の下で理想とされる官僚像と島田とは対極にある。21世紀にあって、権力中枢のためにウソをつき、公文書を偽造する官僚と、共に死ぬことを強要された下で、住民の命を守るために公然と生きろと叫んだ島田叡。これから日本の指導層になるであろう青年にぜひ見てもらいたい映画だ。


 
 

   
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