ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

インパール作戦と パル判事  4/4

2011-09-27 13:37:18 | 本の話・素敵な話

4/4
英国にも日本の武士道に匹敵する騎士道精神が息づいています。

命を賭けた日本の将兵の戦いぶりに接したとき、たとえそれが国益であったとしても、英国の将兵たちは、果たして自分たちがインドを治めていることに、なんの意味があるのか、そんな気にさせられたのではないか、ということです。

作戦の全体を見る者、実際に日本兵と干戈を交えた英国の騎士たちは、インパールで日本の武士たちが示した、その「心」に気付いた。

実際、インパール作戦のあと、英国のインド駐屯隊が示したインド人の独立運動(英国軍に対する反乱軍)への対応は、当時の世界の常識からみて、あまりにも手ぬるいのです。

まるでやる気が感じられない。

ガンジーたちの非暴力の行軍に対して、銃を構えたまま、ほとんど発砲すらせずに、これを通しています。
それ以前の英国軍なら、デモの集団のド真ん中に大砲を撃ち込んでいる。

そして大東亜戦争のあとに行われた東京裁判では、なんと英国は、まだ独立も果たしていないインドから、わざわざ代表判事を送り込んでいます。
そうです。パル判事です。

そしてそのパル判事が日本を擁護する判決付帯書を書くことについて、当時の英国はまったくこれを容認しています。

なぜでしょうか?
どうして英国はパル判決を黙認したのでしょうか。

そもそも、植民地のカラード(有色人種)を、わざわざ判事に指名してきたのは、英国だけです。

その英国は、米国と同盟関係にあります。
ですから、東京裁判では、英国判事を出しています。

けれども英国は、自国の判事だけでなく、わざわざ有色人種のパル氏を判事として東京裁判の裁判官に名を連ねさせているのです。

およそ企業でも軍隊でも、用兵というものは、どういう人物を起用するかで、ほぼ決まる、といいます。

インド独立を希求するパル氏が判事となった場合、どういう判決を書くかは、裁判が始まる前から「わかる」話です。

加えて、英国にしてみれば、もし、英国領インドから送り出した判事が「気に入らない」なら、いつでも首をすげかえる、誰かに交代させることができたはずです。

けれど英国は、東京裁判という茶番劇(あえてこう書きます。はじめに結論ありきなら、それは裁判の名にさえ値しないからです)において、英国人判事には、米国との同盟関係に配慮して、連合国万歳の判決を書かせたけれど、植民地支配するインドの代表判事には、ちゃんとした「事実と正義」を判決として書かせています。

そこに、英国の「何か」を感じることはできないでしょうか。

インパール作戦当時の英国のインドのトップは、英国王室の人物です。
世界がどんなに歪んでも、わかる人にはわかる。

パル判決書は、インパールでメッセージを受け取った英国王室と、戦い、散って行った日本の武士たちがこの世に送りこんだ、正義の書といえるのではないでしょうか。

ボクには、そんな風に思えてならないのです。

おそらく、パル判事や、牟田口氏、インパール作戦の英国側指揮官ウィリアム・スリム中将に、「そうなのではないですか?」と問うたとしても、彼らは、笑って何も語らないと思います。

なぜなら彼らは、まさに武士であり、騎士であるからです。
そして武士であり、騎士であるからこそ、敵味方の将兵に多くの死者を出したことへの悔いを持ち、それがあるから、いっさいの言いわけをしない。

しかしだからと言って、彼らの行った事実を、うわっつらだけみて、安全な場所にいるわれわれ後世の人間が、感謝こそすれ、評価するのは間違いだとボクは思います。
それこそ卑怯者のすることです。

インパール作戦は、まさに世界史に残る「男たちの戦い」であった。

すくなくとも騎士道を持つ英国陸軍には、それがわかった。
わかったから彼らは、世界史に残る大会戦であるインパールの戦いについて、それを無用に誇ったり、記念日を作って祝ったりしなかった。

インパールの日本獅子たちは、私たち日本人の誇りだとボクは思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

最後にもうひとつ。

インパール作戦の退却行は、誰ひとり民家を襲うような非道な真似をしなかったのだけれど、そのことを誇るような記述をした人は、戦後、誰もいない、ということは、見過ごせない部分だと思います。

誇るどころか、関係のない民家を襲わないなんて、そんなことは「あたりまえ」のことにすぎない。
それが日本人だ、ということです。
そして、そうやってきたのが私たちの祖父の若き日であった、ということです。

世界では、襲うのがあたりまえで、襲わないことがありえない。
日本では、襲わないのがあたりまえで、誰ひとりそのことを誇ろうとさえしない。

さらにいえば、あの苦しい退却行において、生き残った人たちの手記を読むと、途中でビルマ人の青年に助けてもらった、あるいは民家の人たちが沿道で食事を振る舞ってくれたということに、心からの感謝を捧げている。

それが、日本人なのです。

なお、インパール作戦について、本文では、「負けるとわかって戦った」という一般の考察をそのまま記載させていただきましたが、異説もあります。

それは、インパール戦が、前半まで圧勝であったという事実です。
日本軍は、インパール街道の入り口をふさぐコヒマの占領に成功している。
コヒマの占領は、味方の補給ラインの確保を意味します。
従って、この段階では、日本軍側に補給の問題はなく、戦線は日本側有利に動いています。

このあと、牟田口中将は、近くにある敵の物資補給の要衝であるディマプールをつこうとしてます。
これが成功していれば、インパール作戦は、日本の勝利に終わっています。

そのことは、戦後になって敵将が、はっきりと認めています。

戦後左翼のああだこうだの評論よりも、戦った相手の言う事と、その後、何が起こったのかをきちんと見ることの方がよほど真実に近いのではないかと思う次第です。


【参考記事】
◆勇敢で高潔で、誰からも好かれた日本軍人
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-712.html

◆チャンドラ・ボーズ
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-668.html


とても感動しました。

このお話に出会えて良かった。

日本人であることに 誇りさえ感じます。

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