前頭側頭型認知症 夫が前頭側頭型認知症に

夫が63歳で前頭側頭型認知症と診断されました。
若年性認知症なのだそうです。そんな夫の事など綴っていきます。 

39. 17日面会

2013-03-19 22:47:54 | 健康・病気・認知症
ブログの更新が、かなり遅れて、友達や娘たちに心配をかけました。
ごめんなさいね。 ちょっと、あまりの自分の不甲斐無さにブログの更新に躊躇
する気持ちが出たことと、昼夜逆転するほど、ネットで調べたり、あちこちのブロ
グを見て、やらなければならないことを後回しにした付けが、この年度末にどっ
と重なって表れてしまいました。ようやく、後回しにしていたことにめどが立っ
て、ブログに向かえるようになりました。
  ご心配かけました。 色々ありがとう


17日 姑 と 主人の妹 と 面会に行きました。
      なんと、ナースセンターの中にある観察室から、個室に移されて
     いました。ご主人はだいぶ落ち着いたので、観察室に別の観察を
     要する患者さんを入れたいために、部屋を移ってもらったとの事。

     部屋は少し狭くなって、カーテンを閉めていたので、殺風景で淋し
     い感じでした。カーテンを開けると、すぐ側が林で、何やら廃屋?
     家?農家?作業小屋?らしき建物があり、農作業の格好をした
     女性の歩く姿が見えました。

     窓は雪解けで汚れていました。夫はそこに反応。
     『 汚ねがら閉めでおげ 』
     『 部屋移ったんだね 』 の 私の言葉に反応無し。
     姑と妹の姿に気が付く。『 ・・・ 』 言葉が出て来ない。
     『 4時に帰るからね 』 と 私宣言。
     
     夫 『 風呂に入った 』  
     私 『 え? 本当 良かったね 』
        『 着替えてくれるともっと良かったな~! 』
     妹 『 兄さん 着替えなかったの? 』
     夫 『 着替えなかった 』
     私 『 もう 1か月以上 着替えてないんだよね 』
        『 風呂に入ってきれいになったから、着替えようか 』
     
夫  『 え(いらない) 』
     妹 『 兄さん 着替えれば、 着替えたほういいよ 』
  
  

  妹の発言で、なんと! 着替える気になってくれました。
  流石、大好きな妹の発言には従うか・・・

  妹の前でも、もう恥ずかしいとかの感情も判断もできない夫は着替えた。
  妹と姑は、気にして横を向いていたが、
  私『〇さんはずがしいという気持ちなくなってしまっているから、気にしなく
          ても
大丈夫だよ』

今回、大好きな人のいう事は 
素直に聞く と言う発見
私には、悔しいような残念なような、複雑な結果 
それでも、洗濯物を持ち帰れました

   その後、夫 『 髪長くなった  床屋に行く 』
         私 『 この中に 床屋あるから 頼んでおこうか? 』
         夫 『  ここの床屋は駄目だ 』
         妹  『 兄さん 髪そんなに長くないから、まだ切らなくても
            いいんじゃない? 』
   そう妹が行ったことに、補聴器をしていても聞こえない姑、
           『 頼んでもらえ 切ったほういいな 』 (私 いらいら)
         妹  『 母さん まだ大丈夫、切らなくても。そんなに長くないから 』
   

   少しやり取りがあって、
 
  
   私、声を大きくする
   夫が落ち着かなくなって、暴言など困る事になっては大変なので、
   
仕方がない、介入!
   

   こんなことが、夫を連れて帰ったら、毎日家の中で起こる事予想される
   年を取って仕方がないだろうと姑はいつも言う
   
   年寄りの判断力の衰えと耳の聞こえないのには、本当にいらいらと
   困ることが多発する。 
   みんなが通る道とはわかっているが、つい声も大きくなる。

 次に、3時のおやつの時間
 
 
 

 夫はおやつは無し、絶対に甘いものは摂らない
 
 お茶を飲むと言う
 
 
 私に取りに行って来いと言う
 
  私『一緒に取に行こうか』
 
 妹も『一緒に行ったら』と助言(いいタイミング!)

 
 ナースセンターの受付の窓をノックして、自分の黄緑色の
 プラスチックコップに、やかんのほうじ茶をついでもらう。
 
 『 もっと 』 と要求し、なみなみと注いでもらって、一気にゴクゴクと飲んで
 
 おやつの時間はおしましい。ちょうど3時でした。(全く時刻表的)

   妹 『 そろそろ 帰ろうか? 』
   夫 『 まだいろ! 』
   私 『 いつも 4時に帰ると言って、帰るなと言われるから、15分まで
       
居るんだよね 』
   妹 『 でも、 もう帰らないと 』
   姑 『 んだな 帰るか 』

夫 ちょっと怒ったような表情になるものの、妹には逆らわない。
淋しい顔になるが、帰ることになる。  妹も何か用事があるのだろうと

自宅に帰って来てから、夫の様子について、
落ち着いていたね と 共通理解

聞こうと思っていた、体重が 45キロだった。

心配(心筋梗塞)な胸の苦しさは、見られなかったので、今回は聞かなかった

今回の一番の収穫は 洗濯物 
黒いTシャツやポロシャツが襟元白くなっていました
そんなに臭くないのは、動いて汗をかいたりしないからかな?
     

38.  36.面会に行っての補足

2013-03-11 23:08:48 | 前頭側頭型認知症
夫と昨日の面会で話した事で、36に書き忘れていたことを
ここに補足します。

新聞を読んで、震災から2年たったこと、福島原発のことから、
『 私たちの住む県に原発がなくてよっかたかな 』 と私が言うと、
夫は 『 あった方がよかった 』 と行ったのです。
私がどうして?と問いかけても、それに対しては、返事はありませんでした。

何も考えなくなって、社会に対してもう無関心になってしまっただろうと
思っていたので、話さないだけで、頭の中では考えているんだと解りました。
総理大臣が誰かも聞いてきました。でもこれは、長女が一月に帰る前
面会に来た時、話して教えていたので、やっぱり記憶に残らないことも
あることが解りました。

血糖値の話をしたとき、『 高血糖でも死ぬことあるんだや 』 とも言いました。
確かに、高血糖昏睡は、死に至るので、この記憶は残っている事が解りました。
まだまだ、血糖値は、気になる・こだわりの強い関心事です。

一番気になったのが、ため息を深く何回もついて、胸のトレーナーを掴んで、
『 くるし~~ 』 と言っていた事でした。糖尿病の合併症に、心筋梗塞も
あった事を家に帰って来てから、思い出しました。
看護師さんにも、言ってくるのを忘れてしまいました。

次回、夫の様子をしっかり見てくることにします。
そして、今回言い忘れてきたことも、看護師さんたちに伝えなくちゃいけないと
思います。

37.面会に行って

2013-03-10 21:05:58 | 前頭側頭型認知症
今日は、また冬に戻ったような吹雪の中を面会に行きました

道路はアスファルトが出ていましたが、強風で車が横転してしまわないかと心配になるほど、西からの横風がすごかった。

7病棟のカギを開けてもらい、看護師さんとちょっと話した。
  それで判ったこと
      ・ ほとんど部屋にいる
      ・ 水は飲まなくなってきている
      ・ 食事の時はホールに出るが、TVはうるさいと文句を言っている
      ・ 食事中、他の人の話がうるさいと文句を言っている
      ・ 好きなニュースは見ていない
      ・ 新聞も読んでいない
      ・ TVの野球、特にBSの大リーグは見られない(時間帯が無理)
      

夫は、じっと観察室の中にいました。
体育座りで、空中に視線を集中?していました。

入るなり、
『 寿司喰う 』
『 え?今日寿司食べたの? 』
『 この前、お前、寿司喰うって言ったべ 』
     前回の面会で、3月31日(日)が夫の誕生日なので、外出許可をもらって、
     自宅で刺身か寿司を食べよう と行ったのを覚えていたようでした。
『 うん、お父さんの誕生日に家に帰ったらね。先生と話して、外出許可をもらってからね 』
『 そこに、医者いるから聞いてこい 』
『 え? どこ? いないよ 』
『 いるべ。 目の丸い男 』
『 え? あの人看護師さんだよ 』
『 いいから、聞いてこい 』

聞きい行くと、お医者さんじゃなく、副師長とネームプレートを見せてくれながら、
夫にも、親切に
『 〇さん、ぼくは、ほら、先生じゃないから、そういう決定は出来ないんだよ。
  先生が来たら話しておくからね 』 
と機嫌よく話してくださった。

夫にいい人だねと言うと、『 あれだけだ 』 とのこと
人の好き嫌いが、元々はっきりしている人なので、病院でもこういうことを
面と向かって言っていないかと、心配になった。
  ( きっといっているだろうなあ )

今日帰れないとわかると、急に私の話に関心が無くなって、
ドアの傍に行って、ナースセンター越しにホールの方を覗いているよう。
何を見ているか聞くと、
『 あれ、また鍵かけた、勝手にナースセンターに入ってくるやつがいるから、
  だから俺はここから出られないんだ 』 と 恨めしそうに言う。
金髪に紙を染めている若い女の人がいて、五年も入院しているとか、
新しく3人おかしい人間が入って来たと、新しい病院の情報も教えてくれた。
まだまだ、新しい変化を観察し、人に話せる。まともなところだ!!

話をそらそうと、娘に電話する。
今日はいらないとは言わない。 (よかった)
娘と体調の事を話したようで 『 あまりよくない 』 と答えていた。
機嫌も悪くなく、それなりに娘の話にきちんと耳を傾けていた。
いつもより、電話の応対が、穏やかだった。
     (いつもはすぐ私に携帯を押し付けるように返していました) 

いつもの 抹茶入り玄米茶を あげました。
看護師さんには内緒にしておけと言われたので、今回は内緒にしました。
いつもは200mlなのを、今回は私が家で少し飲んで、少なくして持ってきました。

甥が結婚するかも知れない話をすると、『 即座に俺も出るからな 』
『 うん、今回は大丈夫だと思うよ、この前(東京に住む姪の結婚式)は
出席できなかったからね、同県人だから大丈夫だ、 一緒にみんなで出ようね。 』

新聞を読もうと、持ってきてあげると、日付に目が行ったようで、
『 今日3月だってが? 』
スポーツ面になると 『 ん? もう野球始まったってか? 』

自分では、お悔やみ欄で、誰か自分の知っている人が死んでいないか確認して、
見つからないと、
『 60で死んでるね、 おれもあと死んでもいいな 』
    ( 出ました、 死ぬ発言 )
無視して、知っている人いないねと話を逸らしました。

今度は、食事について、残していないか、聞いてみると
監視されているから残していないとの事、よかったよかった
今晩の献立を見てこいと言われ、一緒にホールに見に行こうと言うと、
怒られるから出て行かないとの事、
今日の夕飯の献立は、豚肉の生姜焼きと五目おから煮
また食べられないと言う、肉を食べると血糖値が上がると思い込んでいる。
野菜を先に食べて、と話す。

よ~~く 見ると、かなり痩せた。足に触るとゴツゴツと筋と骨の感触。
体重を聞くと、42キロとの答え。( 本当かな? 帰りに確かめよう )
髪はべっとりフケも浮き出ている。着ているものの、もう一ヶ月以上同じ。
今日も洗濯物は持ち帰れなかった。

帰り、夫のお気に入りの看護師さんが親切にも、ナースセンターの外に出て、
夫に見えないように配慮してくれ、夫の様子を話してくれた。
   ・ TVはあまり見ない
   ・ 食事は残さない
   ・ 夫には、きちんと夫の好き嫌いに対応した糖尿病食を栄養士さんが
       作ってくれ、提供している
   ・ 水の管理は上手くいっている
   ・ 作業に誘っているが、やりたがらないため参加していない
   ・ あまり歩かないが、たま~~に病棟を一周することがある
   ・ 体重はもう一度ナースセンターに入って資料確認しないと
        いけないという事で、次回に改めて聞くことにした

色々な配慮に感謝の挨拶をして、建物を出た

外から、夫の部屋の方を見ると、
( お!! 今日はちゃんと見送っている!! )
聞こえていないだろうが、
『 おとうさ~~ん  今度は ◎◎(夫の妹)と来るからね 』 と 手を振る。

この前みたいな、怒ったようなカーテンの締め方でなかったのはうれしいかった

帰ってきて、姑にも報告する。
次回は、姑も娘(夫の妹)を誘って行こうと言ってくれた。

36. もうすぐ 3.11

2013-03-10 00:22:33 | ふだんの生活

もうすぐ 3.11 です

2011年 3月11日金曜日 午後2時46分 東日本大震災発生

その2日前、あまり話題にはならないが、震度5弱の地震がありました。
昼食の準備をしている最中で、家が軋んだ音を出して、かなり長い間
大きく揺れ続けました。揺れている中、ガスを止め、姑に声をかけ、
愛犬ポン太にリードをつけ、家の外にでました。家の外にでても、

揺れが長く続き、電柱が倒れてくるのではないかと怖い思いをしました。

そして 3.11   職場で 大地震
携帯電話とバックを持って、同僚と一緒にいた人と外に出ました。
1度目は日本海沖地震の時同じくらい大きく、次の余震も同じくら
い強く長かった。外で、同僚が携帯のTVで地震の状況を確認し
ました。なんだかよくはわからないけど、非常事態だとの認識は
ありました。

雪がちらついていた日で、停電しストーブが消えたため、勤務時間
まで仕事をしましたが、薄暗くなり、真っ暗になり、公衆電話(ピンク)を
使うのに手回し式充電器の懐中電灯を私が回し、同僚がダイヤルを
回し、各所に連絡を取ろうと試みました。
ベンチコートを着て行っていたので、わりと温かくすごせました。


仕事を終え、車で帰宅する時には、大変でした。
信号機が全く点いていません。踏切の遮断機も下りたまま、車から
下りた人が、押し上げていてくれている間に、通り抜けていきました。

大きい道路の交差する十字路では、広いほうの車が優先して通り、
細い方から左折するのも危険な状態でした。みんな心の余裕が無
くなり、譲り合う気持ちが無くなるようでした。広い方から狭い方への
右折ができず、その広い方の道路が大渋滞になっていました。
私は幸いすいすいと進みました。
途中感心したのは、若い男の子がボランティアで、手信号で交通
整理をしていてくれたことです。危険を伴う事でした。なにしろ、あた
りは真っ暗で、ヘッドライトの明かりがたよりでしたから。


なんとか家に帰り着くと、家ももちろん真っ暗。
幸いガスはプロパンで、水道も大丈夫だったので、圧力鍋でご飯を炊き、
缶詰の魚と、お浸しと朝の残りの味噌汁だけで食べました。
その時、姑が 『 うめぇもの喰いでなあ 』 と 行ったので
夫と私 『 こんな時 何言ってるなや?! 』 と 激怒しました。
非常事態を認識できないのかと腹立たしかったです。
1日目、夫は2階の自分の部屋でラジオを聞きながら寝ましたが、
私は自分の部屋の箪笥が倒れるのが心配だったので、姑と
布団を並べて居間で洋服の上にベンチコートを着たまま寝ました。
その日の夜は氷点下だったように思います。


3日目にようやく電気が復旧し、TVを見ることができました。
そして、あの巨大津波の映像。
横一直線に長~~~い白波が遠くから海岸線に向かって行く様子が
自衛隊のヘリコプターか飛行機からの映像で映し出され、陸前高田、
が呑み込まれていくのを、まるで映画かなんかのように、嘘でしょう
嘘であってほしい、でも現実なんだと・・・
ことばになりませんでした。

むすめ達とも連絡が取れなかった。
長女も東京で大変だったようだ。こっちを心配して電話しても連絡が取れず
やっとつながった時には、娘の帰宅困難だったことを知った。
次女の大阪には自宅の電話で職場にかけた。
かかっては来ないが、かけることはできた。

その後も、食料品が買えなかったり、制限があったり、品不足だったり、
家は車にガソリンがあったが、ガソリンがない人はガソリンスタンドの
行列に並んだ。

甥も仙台の大学に行っていて、音信不通で連絡が取れなかったと、
電気が復旧して電話ができるようになって初めて分かった。
幸い無事だった。

あの大地震忘れない!!!
非常時のこともいろいろ勉強した。


私は、何もしない善意の人、やったのは募金だけ声援だけ
ごめんなさい!


あの頃 夫に認知症らしい兆候はなかったように思う。
まだ全然普通で、それなりの心遣いもできていた。


35.2012年のエピソード 4月から6月 T病院に入院の経緯

2013-03-09 01:29:56 | 健康・病気・認知症

2012年は

1月から血糖値の 上下動があり
3月頃からは 朝食前の血糖値 
夕食前の血糖値が 徐々に高くなってきていた
私が食後の散歩を勧めても やらない
それだけが血糖値の上昇に繋がっていたとは
思わないが このころから
私への料理への不満 
わたしの言ったことへの反発
自分の体調の悪さ
天気への文句を 口にすることが
多くなっていたように 今は思う

そのころから 血糖値のコントロールの為
入院することをT病院の糖尿病専門の
主治医S医師から勧められていた

4月に入ると 血糖値300以上の日が多くなり
昼食後血糖値が 急激に下がり 
低血糖を示す日も 頻繁に表れるようになった

この頃 主治医から 食前の血糖値により 
インスリン量を自己判断で
±1の増減をするように指示されて行っていた

その判断が うまくいかないため 
昼食後血糖値が急激に下がることになっていた


  4月3日 深夜3時頃
  台風並みの暴風雨があった 
  わたしの勤める職場の建物が 
  その暴風雨の為屋根が剥がれ落ち
  隣近所に被害を及ぼした。
  いつもは午後出勤だったが
  緊急の呼び出しがかかり
  慌ただしく出かけ
  建物内の雨漏りの片づけをする
  この時期 出来合いのお惣菜が
  食卓に出ることもあった
  私は勤務先が一時的に別の所に異動となった

この頃から 血糖値の自己管理ノートによると
夫の不眠が表れ始めている
ノイローゼか うつに近い神経質な状態が続き
私への食事管理の不満をいつも口にするようになった

そんな夫の苦しい訴えに 
わたしは私のかかりつけのK病院に
体調不良で診てもらいに出かけ 
その頃の夫の私への食事への不満や
血糖値コントロールがうまくいっていないことを相談した
それでその病院に診てもらうことを奨められた

夫が嫌がるのを 
まず 話を聞くだけでも聞いてみたらと
連れて行き 話を聞く
インスリンの打ち方など かなり 違うやり方に
夫の心が動き
K病院のやり方で トライしてみることになった
それが4月22日から5月2日のこと
その間 朝食前の血糖値が
400、500、そして300代の後半の値だった
あまりの高血糖に 夫の不安が爆発

とうとう 5月3日 祝日で病院が休みにもかかわらず
元のT病院の糖尿専門のS医師に電話し
事情を話して 血糖値の支持を受けた
血糖値は ぐ~~~んと下がったものの
その5日後くらいから また 乱高下しはじめた

そして 5月15日 T病院へ入院
血糖値のコントロールがスムーズにうまくいっていたが
色々な検査の結果 Ⅱ型糖尿病から 稀なことだが 
Ⅰ型糖尿病に変異している事が わかった

血糖値が 200代のことが数回と 落ち着き始めたのと
夫より重症な患者さんの入院があったためか
急に 退院することになった
6月8日 退院

この入院期間中
水分の摂り方
薬の出し方 料理のまずさ 待遇の悪さ
病院の設備の悪さ 
『死にそうな人間ばかりで まともに歩ける人間はいない』
『まともなのは 俺くらいだ』 
同室の患者さんへの 『早く死ねばいいのに』 
『最低な病院だ 最低な看護婦ばっかりだ』発言
看護師さんたちにも 聞こえていたようで
私への態度も みなさん よそよそしかった

この暴言が 前頭側頭型認知症の症状だと
今はわかります

脳の委縮がはじまっていたから 
血糖値のコントロールがうまくいかなかったのじゃないかと
今は推測しています
そうなのかどうか まだ 誰にも確かめたことはありませんが