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峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

ジャブ ワンツー

2015年12月18日 | スポーツ

Kurofune Gym & Bar-格闘技フィットネスジム-に通いたいとは思っていたものの、現在、練習できる時間帯が火曜・木曜の夜8時からと聞き無理だと思っていた。

そんな中、昨日の木曜日、夜、塾生たちが9時前には帰ってしまったので、とにかく練習風景だけでも覗いてみようと思い立ってジムに出向いた。何せ歩いても1分かかるかかからない場所なのだ。

リングでは健ちゃんの奥さんがK-3の元チャンピョンの指導でミット打ちに励んでいた。リングサイドに座りしばらく練習を眺めていたが、間もなく彼女がリングを降りると、やってみませんかと元チャンプに声をかけられた。もうムズムズしていたのでお言葉に甘えグローブをつけてリングに上がらせていただいた。

ミット打ちなんて実に45年振りくらいだ。元チャンプの指導でジャブからストレート、そしてワンツーまで進んだところで、上手に褒められ調子に乗ってしまった。キックボクシングに興味があるんですよと身の程も知らず言ってしまったのだ。
それでも、K-3の元チャンプはふざけるななどとは言わず、にこやかにパンチングミットからキックミットに持ち替えてくれた。本当に強い男は優しい。

先ずは右足のキック、次に左足のキック、最後にワンツーから右キック続けて左キックのコンビネーションを指導していただいた。ミットにキックを打つのは初めての体験だったが面白かった。こうして一通り練習した後、いろいろとチャンプにお話を伺ったが、しまいには町内会の課題等にまで話が及んだ。

結局、元チャンプが火曜・木曜の午後1時から指導に来ていることが分かった。来週からの指導をお願いし、スキップしながら家に帰った。
キックだけでなく、サブミッションにも興味がある。そのうち、総合の選手に教えもらう機会もあるだろう。楽しみだ。


愛すべき格闘技

2015年12月14日 | スポーツ

子供の頃から知っている向かいの家の健ちゃん(彼は、もう立派な大人なのだが、彼が子供の頃からこう呼んでいるので、今でもそのまま呼んでいる)が設立したKurofune Gym & Bar-格闘技フィットネスジム-の初めての交流試合が先週土曜日午後10時から西町の同ジムで開催された。

試合はKurofune対佐賀の丸得総合格闘倶楽部の対抗戦形式で行われたが、第1・第2試合がキックボクシングルール、第3試合がボクシングルール、第4試合は総合ルール、そして最後の第5試合目は再びキックボクシングルールと多様で興味深かった。
交流戦ということで、勝敗にこだわり本気で打ち合うのではなく、手加減したスパーリングという感じ、いわゆるマス・ボクシング的で、当初怪我などを心配していのたが、安心して観戦できた。

格闘技というと、とかく暴力的で不健全だと見られがちだが、決してそうではない。ボクシングを始め、テコンドー・空手・キックボクシング・レスリング・少林寺拳法・日本拳法・柔道、そしてUFCで馴染みになったMMA・総合格闘技まできちんとルールが定められたスポーツなのだ。

真面目に練習に取り組んできた選手は、一様に優しくて礼儀正しい。
この日、最後のスパーリングが終わった後、健ちゃんに紹介されリングに上がらせていただき、選手のみなさんと共に記念写真をご一緒する幸運に恵まれた。Kurofuneそして丸得総合格闘倶楽部の選手のみなさんは、言うまでもなく礼儀正しかった。

 


大人の遊び方

2013年11月05日 | スポーツ

昨日は、第1回目の「saza親睦ゴルフコンペ」が開催され1日中ゴルフを楽しんだ。
朝7時半、このコンペにお誘いをいただいた町内会長連合会のお仲間であり大先輩であるAさんに自宅まで迎えに来ていただいた。その後、同じ組でラウンドするAさんの先輩Mさんのご自宅に伺い、もうお一方のNさんのお車に同乗させていただき、会場である世保カントリー倶楽部へと向かった。お二方とはこの日が初対面だった。

この日の参加者は117名、顔なじみの方が多数参加されていた。私たちの組は、8時24分INからのスタートだった。
前日1日中降り続いた雨も上がり、絶好のゴルフ日和だった。仲良しの大先輩お三方の実に楽しい会話にリラックスしてプレーすることができた。前半ハーフのスコアは、シングルプレーヤーであるAさんが38、Mさんが48、Nさんも48、私は55を叩いた。
昼食後の後半ハーフ、Aさんは、3番ロングホールでOBとバンカーの壁に捕まり9を叩くも42でまとめられた。さすがハンデ5の実力者だ。Mさんも48と手堅くあがられ、INの後半から調子をあげてこられたNさんは41でまとめられた。
そのような先輩お三方のプレーに引っ張られるように、私も上がり4ホールをパー・ボギー・パー・パーとまとめ、ゴルフ再開後ベストの45で周ることができた。

ラウンド後、一旦表彰式会場に上がったものの、表彰式までたっぷり1時間はかかるということで、もうハーフ周ろうということになった。ちなみに、Aさんが74歳、Mさんは77歳、Nさんでも68歳の御年である。特に最高齢のMさんは、前日雨の中をラウンドしておられるという。本当にゴルフがお好きであり、それだけの体力がおありなのだ。驚いた。

帰途、車中でお誘いを頂き、みなさん行付けの寿司屋でご馳走になった。運転代行を頼み、もう1軒ということになり、すっかりいい気持ちにさせていただいた上、自宅までお送りいただいた。

若い人たちと飲むのもいいが、本当の大人と飲むのは誠によろしい。
Aさんのおかげで、また新たな知己を得た。交遊の輪がさらに広がりそうだ。


ボクシングとチャンポンと敬愛する先輩方

2012年09月26日 | スポーツ

誕生日の翌日の日曜日、女房どのを誘い長崎市まで出かけた。
長崎市では9月30日から「市民体育・レクリエーション祭」が開かれており、この日は諏訪体育館ボクシング場でボクシング競技が行われることになっていた。

長崎県では2年後に国体が開催される。大学のボクシング部OB会の会長である斎藤先輩から、その手伝いをするようかねてよりお話をいただいていたのだが、私ごときの出る幕などないと思っていた。ところが、長崎市にお住まいの田中先輩のお骨折りがあり、このたび県アマチュアボクシング連盟の理事職に就くこととなった。愛するボクシングのため、できる限りのことをやらせていただくつもりである。

そんなことで、県のアマチュアボクシング関係者の方々に紹介するいい機会だから、試合観戦がてら出かけてこられませんかとの田中先輩のお誘いで、この日の長崎往きとなったのだった。

時間に少し余裕を持って自宅を発ったのだが、道路事情がよくなったおかげで思ったよりずいぶん早く試合会場に着いた。
早速、田中先輩によって関係者のみなさんにお引き合わせいただいたのだが、みなさん口々に「お若い」とおっしゃる。それもそのはず田中先輩始め、県連盟理事長・理事・各市の理事長・会長とかいったみなさんは私より一回り年長者でいらっしゃるのだ。
町内会長職なども同様だが、このような組織の運営を担っておられるのはほとんど高齢者の方々だ。サラリーマンでは務まらないから当然のなりゆきではある。私などまだまだ若造なのだ。

大会は高校生の試合が11試合行われた。鹿町工業や猶興館など県北からの参加もあり、女房どのはリングサイドの最前列で彼らに小声で声援を飛ばしていた。

大会終了後、チャンポンを食べに行きましょうと田中先輩に誘われて先輩の高校時代の同級生がやっておられるという長崎新地中華街の北門入り口傍の名店「会楽園」を訪れた。ここのチャンポンは絶品ですよとの田中先輩のお言葉通り、本当に美味しいチャンポンだった。

その他、大会会場すぐそばの「長崎歴史文化博物館」を訪ねたが、時間に限りがあり十分に見て回ることができなかった。
長崎県に住んでいながら県都・長崎市のことをほとんど知らない。高速道路を利用すれば片道1時間半ほどで行ける。また来ようねと女房どのと話し、田中先輩とお別れした。


2人目の金メダリスト

2012年08月13日 | スポーツ

ロンドンオリンピックが閉幕した。
期間中、きょうは何の競技が行われるのか、放送時間はいつかと女房どのとの会話は専【もっぱ】らオリンピックのことばかり、それほどスポーツの持つ魅力の虜【とりこ】となっていた。
きょうの朝日新聞一面トップは、ボクシング競技・ミドル級で村田選手が金メダルを獲得したことを報じている。

今年の1月13日、このブログに「ただ1人の金メダリスト」という題で、東京オリンピック・ボクシング競技バンタム級のゴールドメダリストである桜井孝雄さんの死を悼む文章を書いた。
その中に、オリンピックのボクシング競技で金メダルを手にした選手は、後にも先にも桜井さん外いないと記した。が、それがそうでなくなった。

5月中旬、母校のOB総会に出席するため上京した。総会の前夜、今年度の関東大学ボクシングリーグ戦1週目、母校の対法政大学戦を懐かしの後楽園ホールで先輩方と一緒に観戦した。
試合は母校の勝利に終わり、その後、勝利の美酒に酔ったが、その席で選手として桜井さんと同時期を過ごされた斎藤先輩に、桜井さんにまつわる話をいろいろと伺った。

その桜井孝雄さんが脚光を浴びた東京オリンピックから48年、ついに1人の若者がボクシング競技の栄光の歴史を塗り替えた。
村田選手は「金メダルが僕の人生の価値じゃない。これからの人生が僕の価値。恥じないように生きていこうと思う」と語っている。彼の人生に幸多からんことを願う。

ちなみに、今オリンピック・ボクシング競技の解説を受け持っていたのは母校・日本大学ボクシング部現監督の梅下新介さんだ。オリンピック競技の解説者と賀状の交換をしている者はそういないだろう、と家族に自慢している。

 

 


ただ1人の金メダリスト

2012年01月13日 | スポーツ
1964年の東京オリンピック・ボクシング金メダリスト・桜井孝雄さんが亡くなられた。
オリンピックのボクシング競技で金メダルを手にした日本人選手は、後にも先にも桜井さんの外いない。

桜井さんを直接存じ上げるものではないが、齋藤さんというある私の先輩を通して桜井さんに関してこんな思い出がある。

2003年、長崎県で全国高校総体が開催される直前、尊敬する大先輩であり、今でも何かとお引き立ていただいている齋藤さんから1本のお電話をいただいた。
ご友人の桜井さんのご子息が小浜で開かれる高校総体のボクシング競技に出場なさるそうで、その応援に桜井さんが行かれることになられた。ところが宿がとれない。そこで、長崎県在住の私に何とかならないかとのお話だった。

桜井さんは中大、齋藤さんは日大と大学は異なるが、お二人は、東京オリンピック強化策の一環として行われた1962年11月のメキシコ・ハワイ遠征、また1964年3月に行われたオーストラリア・ニュージーランド遠征をそれぞれバンタム級、フェザー級の日本代表として共にするという間柄でいらっしゃった。

日本大学ボクシング部は、昨年、創部八十周年を迎えたが、その記念誌に寄せられた齋藤さんの現役時代のお話と共に、オーストラリア・ニュージーランド遠征中に香港空港で撮影された日本代表選手団の写真が掲載されている。
みなこの年の全日本チャンピオンというそうそうたるメンバーだ。
各クラスの代表に混じり、桜井さんと齋藤さんの凛々しいお顔がある。

ちなみに、長崎ゆめ総体に千葉県代表で出場した桜井さんのご子息・大祐君は、フェザー級で1、2回戦を勝ち上がったものの残念ながら3回戦で敗退した。

不世出のボクサー、桜井孝雄選手の早い死を悼むと共に、ご冥福を祈る。

チームの結束力

2010年06月25日 | スポーツ
W杯サッカー南アフリカ大会、日本が決勝トーナメント進出をかけた対デンマーク戦、ご覧になられましたか?

腕を揺すられたような気がした。
完全に覚醒【かくせい】しきっていない前頭葉が懸命に状況を把握しようと努めている。
どうやらいつの間にか眠りに落ちていたようだ。
NHK総合のウィンブルドンテニスとBSのW杯・スロバキア対イタリアのゲームを、床に就いて交互に見ていたのまでは覚えているのだが…。

腕を揺すって起こしてくれたのは隣で寝ている女房どのだった。日本対デンマーク戦が始まろうとしているようだ。
しかし、睡魔に勝てるほど私の意志は強くない。
再び目が覚めたのはゲームが後半に入るところだった。
驚くことに女房どのはずっと観戦していた。
経過を尋ねると、前半終わったところで日本が2点リードしているという。なんてことだ。想像できなかった展開に眠気も吹っ飛ぶ。

見ごたえのある後半戦だった。
PKからデンマークに1点を許したものの、ゴールキーパー川島選手は適確な反応を示していた。何より、彼の悔しがりように彼らの勝利に対する並々ならぬ執念のようなものを垣間見る思いがした。彼らは本気なのだ。

1点差に追いすがられたところで効果的な3点目をお膳立てしたのが本田選手だった。彼は「準備」という言葉を意識的に用いている。ことに精神面の準備を心がけているという。
その言葉通り、たいそう落ち着いたプレーでフォワードの岡崎選手に花を持たせた。

試合終了後のインタビューで、岡田監督始め選手たちがピッチ上のプレーヤーだけでなく控えの選手・スタッフまでを含めたチームの結束力の強さを異口同音に語っているのが印象的だった。

スポーツに学ぶことは少なくない。
W杯を前にしてのどん底状態のテストマッチから、快進撃で予選リーグを突破するまでの日本代表の変貌ぶりは興味深い。
その要因のひとつに「チームの結束力」の強さがあるのだろう。

日本チームは今、本田選手をワントップにサポーターまでも含め1つの有機体となって機能しているように見える。
佐々町チームも彼らに倣【なら】い、町長・副町長をツートップに私たち町民すべてが一丸となることが求められている。

メッシが走る

2010年06月13日 | スポーツ
私たちの天使が誕生して今日で7ヶ月経った。
若い父親と母親の子育てが微笑ましい。

有紀さんは昨日、大学の付属小の研究発表授業を参観したらしい。来週からの教育実習に備え、友人3人とマンスリーマンションを借りているそうだ。
親の関知しない、いや関知できない、いや関知する必要のない彼女の人生がどんどん広がっている。

くるみさんは、昨日・今日と模試を受けている。6月は週末、テストが続くようだ。


サッカーのワールドカップが始まった。
アルゼンチン対ナイジェリアの試合、メッシのプレーに魅せられた。ゴールネットこそ揺らすことはなかったものの、マークされているにもかかわらず、ディフェンダーの間をですり抜けていくドリブルの技術、相手が分かってていても防ぐことのできないワンツー、後半になっても決して衰えることのない運動量、サッカーの面白さを十分に堪能することができた。

大切なことって

2010年02月24日 | スポーツ
先々週土曜日に開かれた佐々町社会福祉協議会主催の高齢者と子供たちのための囲碁・将棋大会は、110名の参加者でにぎわった。会場は、いつものように和やかな雰囲気に包まれ、皆さんと共に半日を楽しく過ごすことができた。
そんな中、Bクラスで見事に優勝された方から、ブログ、いつも見ていますよと、声をかけていただいた。
思いもかけず温かい気持ちに触れることができ嬉しかった。と同時に、しばらくブログを放っていることが心苦しかった。その際、その日にでも書くようなことをつい言ってしまったが、今日になってしまった。
女房どのからは、ブログが更新されないので、以前のを読み返しておられる方がいらっしゃるという話も聞いている。

人は他者と心が通い合う。当たり前のことだが、ともすれば疑心暗鬼を生じやすい今日の殺伐【さつばつ】とした社会にあって、私たちはそれを見失いかけていまいか。とかく、大切なことは目に見えないように思う。見えないところでも人はつながっている。

バンクーバーで開かれているオリンピックに心をひきつけられている。きょうのフィギュアスケートの浅田真央選手の演技前には、緊張して胸をドキドキさせ、無事に滑り終えた後には1人で手をたたき喜んだ。

ところで、少し前になるが、男子のスノーボードのハーフパイプ競技に心を奪われた。
前回のオリンピック時に比べ競技のレベルが飛躍的に向上しているのが素人目にもはっきりと分かる。中でも圧巻は、優勝したアメリカ代表のショーン・ホワイト選手の演技だった。

決勝の舞台、メダルを手にすることができるか否かは、「ダブルコーク」という大技の成否にかかっているようだった。事実、見事に「ダブルコーク」を決め3位に入ったラゴ選手の得点が42.8点、これは、国母選手が予選2回目に出した42.5点を上回っている。国母選手は、予選で何故か「ダブルコーク」を出さなかった。
結局、国母選手は決勝で「ダブルコーク」を試みたものの、2度とも失敗に終わりメダル圏内から消えた。ただ、国母選手のその他の技には魅了された。かっこよかった。

さて、ホワイト選手だが、彼はライバルたちを尻目に、はるか高みにいた。
決勝の1本目、「ダブルコーク」を鮮やかに決めた彼は、2本目の演技に入る前には、すでに連覇を確かなものにしていた。
そもそも国母選手を始め、今大会で他の選手が必死に取り組んだ「ダブルコーク」はホワイト選手が編み出した技だった。

決勝の2本目、その彼が、このオリンピックのために用意していた技は、だれも挑戦すらできなかった「ダブルマックツイスト」という、中継のアナウンサーが形容できないほどの大技だった。
「スポーツは、不可能と思われることを創造することにある。これからも進化し続けたい」
彼は、常々そう語っているという。

人間って、素晴しい。

不可能なことは何もない

2009年08月24日 | スポーツ
尾崎が女子マラソンで銀 やりの村上は銅の快挙(共同通信) - goo ニュース

ベルリンで行われていた世界陸上選手権の最終日、女子マラソン競技に佐々町出身の藤永佳子選手が出場し、見事14位で完走を果たした。

このレースで尾崎選手が銀メダルを獲得したが、特筆すべきは、やり投げの村上選手の銅メダルだ。

走る・跳ぶ・投げるという人間の最も基本的な身体能力の高さを競う世界陸上選手権、これまで、100m・200m等の短距離走において日本人選手が決勝どころか準決勝・準々決勝に進出するのは極めて困難なこととされている。
中・長距離走や跳躍競技、投擲【とうてき】競技でも予選を突破することが大きな目標とされてきた。

それが、投擲種目の中でも最もシンプルな競技といえるやり投げで、尾崎選手が世界の3位に食い込んだ。これはまさに歴史的偉業といえよう。日本人でもやれるのだ。

「不可能なことは何もない」ボルト選手のためだけにある言葉ではない。