峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

私たちの失敗

2016年05月31日 | 民生児童委員

町内会のお一人暮らしの方を中心に時々、ご高齢者のお宅を訪問させていただく。
昨日、あるお一人暮らしの方を訪ねたところ、このところ体調が思わしくなくてと気弱になっておられた。

ご高齢者の方の多くは、自宅に1人でいる時、倒れたらどうしようという心配をしておられる。携帯電話器は常に身近な場所に置くとか、固定電話器はなるべく低い位置に置くなどのことは当然心がけておられる。だが、意識を無くした場合のことが気がかりでいらっしゃる。

こちら側もそれを最も恐れる。ただし、だからといってお一人暮らしのお宅を毎日訪問するというのもお互いはばかられる。それぞれの方の状況に応じて包括支援センターと連携をとりながら臨機応変に訪ねさせていただくことになる。

訪問の意義は体調の面のみならず、精神的ケアの側面もある。
数日前お訪ねしたご高齢者のお宅では、タクシーを利用した際、待っていた時間が長いとタクシー料金の他に4千円も請求されたことについてのお話をひとくさり伺った。金額云々ではない。高齢者に対する思いやりに欠ける態度に立腹しておられるのだ。
お話を伺うことでその怒りは次第に収まることになる。

わずかな年金で爪に火を点すような生活をしておられるご高齢者がいらっしゃる。社交的でないご高齢者は、公的な福祉サービスも受けることなく孤立化しがちだ。たとえそうでないご高齢者にしても、先のことを考えると決して安穏としてはいられない。
年金制度はいつまで持つのか。介護保険制度も改正の度に使えないものになってしまっている。

何かと苦労を重ね、人はやがて皆老いる。幸福な晩年を希求するのは人として当然の権利ではないか。何の心配もなくのんびりと老後を過ごすことのできる社会でなければならないはずだ。私たちは、何を、どう間違えているのだろう。


子安の石

2016年05月30日 | 家族

私たち夫婦にとって3番目にやってきた天使である糸葉さんが誕生から1か月目を迎えた。
1か月検診では体重が1㎏増え、身長も5㎝伸びていたそうだ。

昨日、初宮参りに同行するため女房どのと2人して福岡へ出かけた。
参詣する神社は、安産の神として信仰される「宇美八幡宮」、巫女さんに聞いたところ福岡県内外はもちろん、遠くは北海道や外国からも参拝客が来られるらしい。

糸葉さんの家から20分ほどの道のりを、糸葉さんのお父さんが車を運転し、お母さんが助手席に座り、後部座席に私と女房どのが並び、私が糸葉さんを抱っこして、その宇美八幡宮へと向かった。この日、糸葉さんにとっては初めての本格的な外出となった。

先ずは社務所で受付を済ませる。その後、本殿でお祓いを受け、祝詞を奏上していただいた。糸葉さんは、大きな太鼓の音に特に驚く様子もなく、落ち着いていた。

お祓いを受けた後、玉垣を築き、手のひら大の石がたくさん積まれている「子安の石」へと向かう。
「子安の石」というのは、安産祈願をしてもらった妊婦が、無事に生まれた赤ちゃんの誕生日・氏名等が記され奉納された石の中から、お産の鎮めとしてそのうちの1つを持ち帰り、無事に出産した暁には、新たに赤ちゃんの氏名・誕生日等を記し、先に預かった石と共にお納めするという習わしとなっている。この信仰を「子安の石」と呼ぶようだ。

新しい「子安の石」には、糸葉さんの氏名・生年月日、出生時の身長と体重、そして「みんなに愛され、すくすく成長してね。」「元気に生まれてきてくれてありがとう。」との両親のメッセージが記されていた。有難きは親の愛かな。
今度は、この「子安の石」を新たな若い夫婦が持ち帰り、お産の鎮めとするのだろう。


君たちが立て

2016年05月29日 | 町内会長

昨日土曜日は佐々町役場若手職員の皆さんを中心とするゴルフのコンペが佐世保国際カントリー倶楽部三河内ゴルフ場で開催され参加した。

諸々あったのだがが、とにかく役場の若い職員のみなさんと1人でも多く意見交換できればという思いが今回のコンペへの参加を決意させた。

プレー後の成績発表・懇親会、そして二次会の席でS君が反応してくれた。

諦めるにはまだ早い。


オバマ大統領の広島訪問の意味

2016年05月27日 | 暮らし

アメリカ合衆国のオバマ大統領が現職の大統領として初めて被爆地・広島を訪れ、原爆死没者慰霊碑に献花し、広島と長崎を含む第二次世界大戦における全ての犠牲者に哀悼の意を示すと共に、核なき世界を主導する責任についても言及するスピーチを行った。

世界中に発信されただろうこのアメリカ合衆国現職大統領の被爆地訪問を、核保有国の指導者たちはどのように受け止めたのだろう。
核兵器廃絶、戦争が起こらない世界の実現への道は、気の遠くなる程の果てしなく遠い道のりだ。だが、それに向けての小さな一歩は明日からでも踏み出すことが出来るはずだ。

私は、優しく丁寧な言葉遣いを心掛けよう。私は、決して弱いものをイジメない。私は、決して体罰を振るわない。


整理しなければ

2016年05月26日 | 町内会長

毎年、町内会のみなさんから好評をいただいている「のんびり温泉 日帰りバスの旅」(ちなみに私によるネーミングなのだが‥‥。)も早いもので今年で11回目を数える。
今年、何処にしようかと考えることもないまま回覧を回す頃となり、最初に頭に浮かんだ「伊万里温泉 白磁の湯」に電話を入れ、日にちを押さえ、すぐに回覧を作成した。

もう一つ、民生児童委員の一斉改選に伴い、町内会から候補者を推薦してほしい旨、役場から依頼があった件について、役員・班長に対し臨時役員会を開く案内の文書を作成した。
班ごとに話し合いをして、適任と思われる方を各班より挙げていただき、臨時役員会で候補者を1人に絞るという段取りをつけた。

回覧と案内文書を必要分コピーして、すぐさま役員と11の班の班長宅へ届けた。

その他、江迎地区防犯協会・暴力追放推進協議会の総会及び懇親会への佐々町町内会長連絡協議会役員及び総務課長への案内と出欠確認を一人ひとり行う。
町内会長は、このような地味だが手間暇のかかる仕事も多くこなさなければならない。

有線放送のアンプが壊れた。アンプの型式を調べ、メーカーに修理依頼を行う。仕事が溜まっている時に限って‥‥。
愚痴を言うまい。
ゴルフのコンペもなかなか出場できないでいる。毎年楽しみにしている大学のボクシングOB会参加も見送らざるを得なくなった。
仕事に追われている。好ましくない状態が続いている。何とかしなければならない。



くるみさんらしく

2016年05月25日 | 父親と子

昨日、女房どのが福岡へ発った。また、数日1人の生活となる。

夜、塾生を送り出した後、ブログを書き終え、シャワーを浴び、晩酌を始める頃には11時近くになっていた。
ビールを飲みながら、くるみさんとラインのビデオ通話で1時間ほどあれこれ話した。彼女の就活も佳境を迎えている。昨日も日帰りで東京へ行き、面接に臨んだそうだ。

くるみさんは、製薬会社の研究職に限って応募している。研究職そのものの採用枠が限定的であり、彼女の希望する研究内容の枠となると、さらに限られてくる。もし、すべてダメだったらと考えてしまうと言うが無理からぬことだ。昨日の面接で一緒になった他大学の学生ともそんな話になったと自嘲気味に笑っていた。
ダメな時は、塾を開けばいいじゃないと持ち掛けると、考えていたよとまんざらでもないような答えが返ってきた。決していい加減な話ではなく、私塾はおすすめの仕事だと考えている。時々、子供たちに私塾のすすめを語るのだが、くるみさんは頭の片隅には置いているようだ。

それはともかく、私のようにちゃらんぽんに生きてきた人間には分かり得ないような精神的圧迫と彼女は闘っている。不憫に思うが、そこは1人で乗り越えていくしかない。
くるみさんは、将棋で、ここ一番という大勝負を何度も戦ってきた経験を持つ。将棋盤を挟んで向かい合った相手との戦いにおいて、どんなに苦しい局面でも誰かに頼るわけにはいかない。決して逃げるわけにもいかない。押し寄せる不安、屈辱、焦燥、恐怖諸々を1人で引き受け乗り越えなければ、勝利はおろか1局を戦い終えることができないのだ。

くるみさんの対局を傍で観戦していて、苦しくていたたまれなくなりその場を離れたことが何度もあった。そんなぎりぎりの勝負を彼女は彼女らしく戦ってきた。
就活も、またくるみさんらしくあればいいと話している。


無責任じゃないかい 俺は

2016年05月24日 | 佐々町町内会連合会長

午前10時から正午まで町社会福祉協議会の理事会に出席した。
審議事項の第1号議案が27年度の事業報告書について、第2号議案は一般会計財務諸表についてだった。
事業報告については十分理解でき、質すべきは質すことが出来るが、いかんせん財務に関する知識は持ち合わせていない。私以外の理事4名も同様だ。41ページからなる財務諸表について、事務局長の説明についていくのが精いっぱいだった。

事前に2名の監事により監査が行われ、この日、その監査報告もなされたが、彼らが財務に明るいとは聞いていない。
本来、財務諸表を読める者が理事・監事に就くべきなのだろうが、他の社会福祉法人はどうなのだろう。我がことなのに甚だ心許ない話ではある。

昨日の佐々町観光協会理事会での議論から感じた理事の責任の重さというものを、あらためて考えてみたい。


長い物に巻かれてはいないかい 俺は

2016年05月23日 | 佐々町町内会連合会長

各組織の定期総会が目白押しだ。
昨日は午前10時からの「佐々町老人クラブ連合会」の定期総会に出席した。ここは、会長が任期半ばで辞任され、半年近く会長不在のまま総会を迎えられた。支部数・会員数の減少、役員のなり手がいないという問題は、自治会・町内会と同様だ。

今日の午後2時からは「佐々川をきれいにする会」の定期総会に出席した。
同会は、佐々町・佐世保市・県北保健所の3機関からなる組織で、佐々町と佐世保市それぞれ各行政の担当数名ずつと住民組織の代表2名ずつとで構成されている。会長は、佐々町保険環境課長と佐世保市環境部環境保全課長が1年毎の交代で受け持つことになっている。

歴史のある組織で、それ故、事業もマンネリ化している。昨年度の総会でもその話になり、具体的なアイデアも出され、担当者も検討すると話してはいたのだが、やはり新年度の計画案も予算案も昨年度と全く変わりないものだった。

その場の空気を読めない性分なものだから、再び同様の指摘をさせていただいた。
業務が忙しいからでは済まない問題だ。税金は、より有効に使われなくてはならない。また、どうせ行う仕事ならば、創意工夫して汗をかくことによって面白くした方がいいに決まっている。

午後6時からは、仕切り直しの「佐々町観光協会」の理事会に臨んだ。最終的に、新年度の事業案に反対することが出来なかったが、3,500万円もの交付金(血税)をポンと出す政府と、その一部とはいえ「世界最大のもろぶた寿司」を作るために使うという方々の感覚をどうにも理解できないでいる。


あの世と この世 ②

2016年05月22日 | 暮らし

高校生の時、K君と初めて出会ってから次に会ったのがいつだったのかをはっきり覚えていない。おそらく、大人になり、お互い所帯を持ってからだったように思う。たまに、他の友人と共にゴルフをしたり、酒を飲みに出かけることがあった。
また、彼には女の子と男の子とそれぞれ1人ずつ子供がいたが、その子供たちが小学生の頃に私の塾に通わせてくれた。

彼の通夜と告別式の日、私は福岡の娘たちの所にいた。こちらに戻って来た後、彼の家へ線香をあげに出かけた。玄関のチャイムを鳴らすと、K君の娘が出てきた。友人の娘であり、かつての私の教え子でもある。二十数年振りに会ったK君の娘は40歳になっていた。結婚して子供もいる。息子も家庭を持ち立派に父親の跡を継いでいる。

K君は、2年前だったか奥さんを亡くした。しっかり者の奥さんだった。
若い頃、奥さんを泣かせるようなこともあったようだが、奥さんを頼りにしていた。それだけに、奥さんの通夜・告別式の時、彼は憔悴しきっていた。その後、彼の息子と顔を合わせた際、彼の様子を訊ねたことがあったが、その落ち込みようは相当だと話していた。時には飲みにでも誘い出そうと思っていたのだが、ついつい忙しさにかまけてしまい果たせぬままになってしまった。

1か月ほど前に入院したとのことだった。重篤な状態ではなかったようだが、肺炎を併発しあっという間に逝ってしまったらしい。65年の人生だった。

互いが高校生の頃に出会ってからほぼ50年、その間で共に過ごした時間はわずかなものだった。決して親友と呼べるような間柄ではなかったが、互いの人生の所々で交差することがあった。
K君は十分生きたように思う。奥さんを亡くした後の時間が必要なかったほどに。

正剛さんの1年祭が滞りなく執り行われた後、場所を移しての会食となった。献杯の音頭をとるよう依頼を受けた。いつの間にか、そのような役目を務める年齢になっているのだ。

昨日までぴんぴんしていた人が亡くなったという話などよく聞くことだ。
私を生み、育ててくれた父も母も彼らの務めを無事済ませ、あちらに行ってしまっている。正剛さんも、平戸で大きな役目を果たし、あちらに行った。しかし、彼らは彼らを思う人たちの心の中で生きている。
人間は、この世で一定の役目を果たし終えると、あの世へと旅発つのだろう。5月の穏やかな午後のひと時を、まだこちら側にいる者同士、キリンビールしか飲まなかった正剛さんの、こちら側にいた頃を偲び、飲み、食べ、語らいましょうというようなことを述べ、献杯の音頭をとった。

 


あの世と この世

2016年05月21日 | 暮らし

従兄・正剛さんの1年祭で平戸へ行った。
従兄といっても、父の一番上の姉の子なので私より20歳ほど年長だった。平戸でずっと「峰野」の氏を守っていてくれた。正剛さん亡き後は、彼の息子がきちんと継いでいてくれる。

亀岡神社の宮司の支度が整うまで、居間でお茶を飲みながら弟、それに正剛さんの奥さんの親戚の方々と談笑していたが、話題は、何処そこの誰それがどうこうして亡くなったというものばかりだった。

つい先日、高校時代からの友人だったK君が亡くなった。
彼と初めて出会ったのは高校生の時、当時、江迎町に「家主」というあだ名のT君が住んでいた。T君は、事情があり祖母と2人で暮らしていた。2階が彼の居室になっており、みんな「こんちわ~!」とおばあちゃんに挨拶しては2階へ通じる階段を昇って行った。
そこは「不良」高校生のたまり場となっていた。そんなことからT君は「家主」というあだ名がついていた。

2階の部屋の中央に大きな灰皿が据えて在り、いつもすごい数の吸い殻が溜まっていた。「千灯ろう」という県北随一の夏祭時には、10名前後の「不良」高校生が集っていた。「不良」といっても、タバコを吸ったり、喧嘩をしたり、授業をさぼったりという程度のものだったが。

高校入学後、すぐにM君という江迎中学校出身の子と仲良くなった。M君はT君の中学時代からの親友で、そのうち私もM君に誘われてT君の家に出入りするようになった。
M君は、野球部出身ですらっとしたいい男で、その上喧嘩がめっぽう強く、女の子にももてた。
私もM君もバス通学していた。私は、中学の頃からよく遅刻していたが、それは高校生になってからも変わらず、時々、定刻のバスに乗り遅れていた。

中学3年の時の担任が松尾という人だった。遅刻するたび、思いっ切りビンタされた。決して逆らえない大きな大人に黙って頬を殴られるのは悔しく、少年の私にとって大きな屈辱だった。何より、ビンタを怖がる自分の弱い心が堪らなく嫌だった。
強くなりたかった。松尾さんに殴られるたび強くなりたいと思った。どうすれば精神が鍛えられるか強くなれるかを考えた時、松尾さんと殴り合って勝てるようにならなければと思った。殴り合っても勝てるようになれば、頬を打たれても精神は傷つかないで済むようになると思った。後に、大学でボクシングを始めたのは松尾さんのおかげだ。ボクシングは私に大きな自信を与えてくれた。それは私にとって何よりの財産となって今の私を作ってくれている。

遅いバスに乗ると、一番後ろの席によくM君が座っていた。時々、途中下車して2人で映画を観に行ったりした。高校の教員は遅刻しても殴りはしなかった。卒業時に仕返しされるのを恐れるからだ。そんな卑怯な教員たちが堪らなく嫌いだった。
授業が面白くなかったし、そんな教員たちの話を聞こうという気すら起こらなかった。幸か不幸か学校の勉強なんかしたことがなかった。

高校1年か2年のある日、いつものようにM君に誘われてT君宅を訪ねた。そこにK君がいた。

【思いもかけず長くなってしまったので、続きは明日にでも記そうと思います。】