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威風堂々

晴れ晴れと、伸びやかに日々を過ごすために。
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魂は愛そのもののはずだ!

2011年06月05日 | 第九章 愛
明治36年(1903)5月。、第一高等学校の生徒藤村操は、日光華厳の滝の傍らに立つならの大樹を白く削り、それに次の「巌頭の感」を記し、滝壺に身を投じて18才の命を絶った。


 「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからんとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉くす、曰く『不可解』。我この恨を懐て煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを」

 夏目漱石が一高の英語の担当教諭であり、死の前日、この生徒を叱っていたらしい。

 私は『こころ』を漱石が書こうとしたのは、この出来事があったからだと思っている。

 (独断だが)教え子の自殺は非常に「痛い」ものである。

 鎮魂の物語が『こころ』にあると私は思っている。それは、自己本位の行方、自己実現の困難さにテーマがあって、伏線として革命政府「明治」と安定政府「大正」の狭間で揺らぐ、日本人の精神性というのがある気がしてならない。

 一般的に高校国語では、お嬢さんを巡るKと先生の三角関係で若者を引きつけようとする教え方があるが、私は誤りだと思っている。

 「愛の欠如」たる今の時代にも非常に重なる内容で、現代の若者はストレス耐性が無いとはいうものの、「うつ」傾向になってしまうのは、この「巌頭の感」にその謎が存在していると私は思う。中古・中世の「無常観」とは違う、もっと切羽詰まった息苦しさがこの現代の若者達を取り巻いていると思える。

 オウム事件の失望の後、若者達の魂の救いはどこにあるのだろうか。


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