魔女裁判と復活祭
『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』は私が今でも再読する小説の一つである。大審問、という無神論者となってしまった次男坊が語る。善なる神は、悪をも生み出した。それを肯定するのはしんどいから、彼はそこから逃げ去る道を選択する。貧乏学生ラスコーリニコフは考えを突き詰めた末に悪を懲らしめようと金貸しの老婆を殺すが、この行為も悪ではないのか?
良いことをするときに、悪いことをしても許されるのか? という問いかけだ。
普天間もそうだし、マスコミの政権批判逃げ腰、諸々の社会的問題は永遠にこのテーマから逃れることはない。
カトリックが行った「魔女裁判」は非常に興味深い。一度疑われたら、米国で1960年代に吹き荒れたレッド・パージ、戦前の天皇批判、国家批判への弾圧、と同じくもう、助かる見込みもなく犯罪者に仕立て上げられるわけで、、、。
誰が、どうやって一つの集団をまとめ上げていくか、制御してゆくかは大きな問題である。で、そういうことに「批判的」に目を向けて取材することの重要性に一体どれぐらいの人が目覚めているのか?疑問である。テレビや新聞人でこういった「批判」精神を持って仕事をしている者が少ないのが今の日本であろう。
ボスが「裸の王様」になってしまうような集団はすぐに崩壊してしまう。
人を導くリーダーが現れることを願ってやまない。メシア復活の日に!
