漱石先生 3
漱石先生がやり残してしまったこと、とは何であろう。
私は大学生の時から、柄谷行人氏、桶谷秀昭氏らの評論を読み、漱石先生の足跡を訪ねて東京を歩き、ロンドンを歩き、スコットランドへも行った。
最近では石原千明氏や内田樹氏の論評を読んでは刺激を受けている。
若い頃は、倫理観や近代日本の啓蒙という観点に惹かれていたが、今では、「近代日本人の精神性を確立」することを「文学」で目指していたのではないかと思っている。
大袈裟な話しで恐縮だが、『こころ』を読み返す度に、「先生」と「明治天皇」の死、そして乃木将軍の死に象徴されている事が何なのかを繰り返して考えてしまうのだ。
『 山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。』 「草枕」より

よろしくお願いします
漱石先生がやり残してしまったこと、とは何であろう。
私は大学生の時から、柄谷行人氏、桶谷秀昭氏らの評論を読み、漱石先生の足跡を訪ねて東京を歩き、ロンドンを歩き、スコットランドへも行った。
最近では石原千明氏や内田樹氏の論評を読んでは刺激を受けている。
若い頃は、倫理観や近代日本の啓蒙という観点に惹かれていたが、今では、「近代日本人の精神性を確立」することを「文学」で目指していたのではないかと思っている。
大袈裟な話しで恐縮だが、『こころ』を読み返す度に、「先生」と「明治天皇」の死、そして乃木将軍の死に象徴されている事が何なのかを繰り返して考えてしまうのだ。
『 山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。』 「草枕」より

よろしくお願いします
「無意識こそが、現生人類の大脳に実現された新しいタイプのニューロンの接合様式によって、はじめて可能になった心的現象」『対称性人類学』:中沢新一
「心」の現象を物質的な過程に置き換えようとしても無理なのだ。無意識を持つことにより我々の心は現実現象から自由になっている、とも中沢先生は書いている。
漱石先生が、フロイトを読んでいたか、僕には分からない。しかし、漱石先生は「こころ」において、この「無意識」の作用に迫っているのではないだろうか。
K、先生はお嬢さんを巡って、三角関係の様相を呈するのであるが、先生がとった行動、また、Kの生き方は全て「不安感」が本になっていると思われる。作品では「人間不信」「裏切られた」という事象で描かれる。お嬢さんとの関係で、「信頼」という感覚を取り戻すのだが、
人が好きになるのに、意識して好きになるのだろうか。
私には、いつまでも謎なのだが、人を愛する感覚を理屈で説明することが可能なのか。
好きになる人、別に何とも感じない人の別はどこで決めているんだろうか。それは脳で決めているのだが、一体何を基準に、どうやって?

よろしくお願いします
夏目漱石
大正5年12月9日が漱石先生の亡くなった日である。
私は夏目漱石先生の著作が堪らなく好きである。小学生の頃、父から『坊っちゃん』『わが輩は猫である』を読め読めと五月蠅く言われたことを覚えている。
中学生になって、『わが輩は猫である』を読んだのが最初。水島寒月が椎茸を囓って歯を折った、と言うシーンで私は何故か笑いが止まらなかった。
漱石は寄席通いをし、落語や講談が好きだったらしいので、そういう「落語的」エッセンスと、英国風ユーモア小説の雰囲気が詰まっていた作品だったということに、この時は気づいていない。
その後、高校生の時に、夏休みの宿題で、漱石の作品を読んでおくというのがあって、『道草』『こころ』を読んだ。
漱石の長編は全て恋愛小説だと思っている。直接的な性描写は当然無く、普通に読んでいると「恋愛?」と思われるだろうが、『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』と、彼の描く女性は艶っぽくて僕は好きだ。
つまり、漱石先生の長編のテーマは『愛』だと言うことを僕は言いたい。しかし、それは単なる、男女の三角関係とか、夫婦愛といった次元に留まらず、より普遍的な「愛」を求めていはしないかと思うのである。
少なくとも「こころ」は人間の「不安感」から出発する普遍的愛を扱いながら、明治期の日本人的「精神」を描いている。

よろしくお願いします