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威風堂々

晴れ晴れと、伸びやかに日々を過ごすために。
「心」と向き合うことで、日々の健康を大切にしましょう!

性格を変えたいんですが、、、

2015年01月17日 | 文学(古典)
2015/01/17



震災の日だ。今日も目覚められた自分に感謝している。


人もをし 人も恨めし あぢきなく、世を思ふゆゑに物思ふ身は


これは、後鳥羽上皇の和歌と言われている。

「人を愛し、 人を恨めしくも思い、 どうしようもない、不満な、 世の中に思いを致す故に、 自分は思い悩んでしまうのだ」

 拠ん所ない事情は誰にだってある。しかし抗いたいわけだ。私は、将来の見込みに対して自分の力量不足を認識しているから、「上手くこなせるか」に対してすぐに不安感をもってしまう。また、現在わがまま勝手な事を言ったりやったりする人に対しては怒りしか出てこない。最も心身の理由により上手くこなせない人は別だ。自分の経験からそのことをよく分かっている。周囲に対して「流す」ことが出来ない。すぐに感情が不安定になってしまう。今でも時より「抗不安薬」を使う羽目になる。こつこつ黙って粛々と仕事をこなす。これが理想ではあるが、実に苦しいわけだ。

「私たちが敵に憎しみを感じると、むしろ自分自身が敵に支配される事になる。
私達の憎悪は少しも敵を傷つけないばかりか、かえって私達が日夜、苦しむことになる。」ということは十分分かっているのだが、なぜかだめ。太極拳も散歩も気が進まない。

 こんな性向を変えたくてしようがないのだが、出来ない。後鳥羽上皇の短歌が私なりの解釈で本当によく得心できるのだ。古典的な和歌には、現代人の心の悩みに対して答えてくれるものが多い。

 やはり、後鳥羽上皇のように「戦う」しかないのだろうか? 若いときにはどんどん戦っていたのだが、、、。





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漢文を読もう

2014年11月04日 | 文学(古典)

 文章経国思想について述べてみたい。

 

 なぜに学問が武力より重要視されるのか。漢文を学習すると考えさせられる。

 力で治めることの重要性は誰にでも分かることだ。
わけもなくいたずらに攻め寄せる野蛮人はどこにでも存在する。こっちが殺されては終わりだから最後は武力、ということになるだろう。しかし、それでは何時までたっても戦乱の世は終わらない。人類は平和を築くことに心血を注いでは殺戮を繰り返している。まさに矛盾で有り、どんな勢力も政治思想も宗教も五十歩百歩だし、塞翁が馬と逃避するしかないのかもしれない。

  腕力は野蛮なのだ。「話せば分かる」も通用しないときが多い。マインドコントロールにかかった人々は手強い。

 およそ日本における武士階級は古代より職業的殺人集団に過ぎなかった。そんなことを職能として行う先人達はやはり内省するものも多かっただろう。「これで良いのか」と。
 武士道や戦国武将達の茶の湯を思う。武士階級が己の所業と向き合う倫理道徳としての茶道。最近、秀吉がなぜ利休を殺さねばならなかったが、ちょっと分かってきた気がする。
 東洋では文字が重要視される。アイヌ文化にちょっと触れると分かるが、神との対話は言葉で行われる。記録として残さず、口伝で伝えられる方が真の意味が残るようだ。

 では、文字の存在意味はどこにあるのか。浅い知見で言えば、記録に残す。そして、祟り神 怨霊を鎮めるために。また、五芒星のように悪霊達からの邪視をそらす印のように、記号としての意義もあるかと。勿論コミュニケーションツールではある。しかし、精神力動上、言葉では誤った現実世界での所業は止められないのかもしれない。

 しかし、現実世界の腕力だけで、異界の怨霊を鎮められるわけがない。そこに呪文も生まれよう。

 文章経国思想の背景は、過去・現在・未来という時間軸でとらえるとよい。腕力が通用するのは現在だけであろう。しかし、文章の力は、時空を自在に移動できるようだ。意外に量子物理学や医学なんかより使い道、適用範囲は無限の広がりを持つようだ。魯迅が医学の道を取りやめて文学者を志した真相がちょっと分かりだした。

何故、学問が大切なのか、多少おわかりいただけだろうか?

そうそう。
『漢文力』:加藤徹著 をオススメいたします。



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雲居雁ですかぁ

2014年01月19日 | 文学(古典)

でました。源氏物語。センター入試。しかも、雲居雁ではないですか。楽しいですなぁ。

日本の古典教育は本当に貧困ですから、古典を楽しむ授業が出来ない。また、若者も受験ばかり、受験に参考になることばかりを要求している。残念です。まl、読みとる力を試す訳ですから、作品を味わうことは二の次になっている。実はこれは大きな損失です。

大学入学資格試験としてのセンター試験でやっと源氏が出題された。これは、ヨーロッパの大学入学資格試験でギリシャ神話がギリシャ語かなんかで出題されたのに匹敵するわけです。

夕霧と雲居雁はあの時代では珍しく一夫一婦制で押し通す貴族の夫婦関係です。作者も本当はこういう夫婦間関係を理想としていたと思いますね。夕霧が友だちの未亡人に思いを寄せているのに絶えきれず、別居する場面。現代と共通する所が出題されましたね。




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漢詩はいいです

2013年06月27日 | 文学(古典)




白頭掻けば更に短く

渾べて簪に勝へざらんと欲す


ご存知 杜甫 詩聖 の漢詩の一部。この気持ちが痛いほどよく分かる年になってしまった。全く何が良くて教科書に載っているのか理解不能だった中高生の頃。

白髪と禿げ。特にかんざしが通せないっていう気持ち。痛いほど分かる。
なぜ、髷を立ててて冠をかぶせる正装があるのか、諸説あるが、私は、成人の通過儀礼として「男根」シンボル説をとっている。男の証である。もしそうだとすると、加齢による抜け毛は非常に痛い。いっそ、出家して頭を丸める方が良い。ま、坊主頭になってからますます意気盛んな御仁も歴史にはごまんと登場する。外見で「青春」ははかれない。

最近、夜のトイレが頻繁に。

ある人曰く「それはね、しまりがなくなるっちゅうやつですわ」「誰でも年取ったらしまりが悪くなるんですわ。財布のしまりもね、 はっはっはっ!」と。

弱気では無いのです。こういう加齢を楽しもうとは思っています。しかし、気候のせいか暑くなってから、仕事を終える、帰宅する、すると、手のひら足の裏がしびれ、肩がこわばり、それはもう大変。2月に膝を痛めて、漸く直ってきましたが、その間全く走っていないし、仕事以外で歩くことさえ無きに等しく、そのつけがきているのでしょうか。ま、そう思うことにしていますが、、、

まぁ、杜甫の「春望」が体感できる年齢と相成りました。

烽火三月に連なり

家書万金に抵る     というのもよく分かるぅ 

silence is golden

2013年06月17日 | 文学(古典)


物言えば唇寒し秋の空

まだ梅雨だと言うのにこんな句、というか警句、僕にとって、を思い出した。
芭蕉さんにとっても座右の句だったようで、人の短所は言わず、自分の長所も自慢するなよって事らしい。

鑑真和上のお墓を訪ねて、イメージとして芭蕉さんを思い浮かべたのである。特に『奥の細道』の芭蕉さんのimageだ。芭蕉さんは、西行さんを意識して陸奥の旅に出たハズである。そこにはかなり高度な自己の成長を目指す意識があったと思われる。たんに感情の赴くままと言うのではあるが…

依然として私は達観が出来ず、もどかしく、不平不満ばかり言って生きている。

会議に出ては、ついつい喋ってしまう。正論を吐いているつもりなのだが、そんなのが通る筈は昔からないのは経験済み、なのに腹を立ててしまう。(笑)

喋ると、災いばかりが降りかかるぅ。

物言えば唇寒し秋の空 である。