シニア花井の韓国余話

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朝鮮王室も少子化に悩んだ!?

2011年10月12日 22時40分25秒 | Weblog
(韓国大手新聞、朝鮮日報 11.10.9記事抜粋)
ソウル大キム・ジヨン研究員の論文、仁祖以降出生率が半分に
後期になるにつれ儒教理念が強まり、側女差別が深刻化
両班の娘も後宮入りを忌避、祭祀が増え国王の禁欲期間も増加
 少子高齢化は現代韓国だけの悩みではなかった。朝鮮王室も少子化に気をもんでいた。王子・王女の出生を「螽斯の慶」(螽斯=しゅうしとはキリギリス、またはイナゴのことだが、ここではイナゴを指す。多産の慶事を、一度にたくさんの卵を産むイナゴになぞらえた)と称するほどに多産を願ったが、出生率は時代を経るごとに低下し、哲宗・高宗に至っては王室傍系の家から養子を入れなければならないほどだった。
 朝鮮王朝時代の王室の人口学的変化と社会文化的原因を、統計学的に細かく追跡した研究論文がこのほど発表された。ソウル大学比較文化研究所のキム・ジヨン研究員は、季刊『精神文化研究』秋号に発表した論文「朝鮮時代の王室の女性の出産力」で、王室の出産が後期になるほど減っていった現象は、儒教秩序の深化と軌を一にしていると分析した。
■王室の多産願望は強かったが…
 朝鮮王室は、王位継承者となる「元子(国王の長男)」の誕生が遅れるたびに、宗廟社稷の危機だと不安になった。多産願望はさまざまな形で表出した。王室嘉礼(国王の即位・成婚、王世子の冊封・成婚などの儀式)の執事官を選ぶときも「子宝に恵まれている人物」かどうかが重視された。粛宗と仁元王后金氏の嘉礼で副使を務めた、仁敬王后金氏の実兄・金鎮亀(キム・ジング)は、9男3女をもうけた。王室の嘉礼で用いられたびょうぶ「郭汾陽行楽図」は、8男7女をもうけた唐の将軍・郭子儀(697‐781)の生涯を描いたもの。朝鮮後期の王室は「八子七壻」(息子が8人、娘に迎える婿が7人)を目標に掲げていた。
 ところが仁祖代を境目に、子どもの数は、それ以前の計183人から計90人へと半減した。仁祖以前、太宗・世宗・成宗・中宗・宣祖はそれぞれ20‐29人の子どもをもうけたが、仁祖以降の国王は4‐14人に過ぎなかった。一方、王妃が子どもを産めないケースも続出した。
■王の女、出産の主軸は側女
 王室の出産力の主軸は側女だった。朝鮮王朝時代に国王がもうけた273人の子どものうち、王妃の子は93人、側女の子は180人(全体の3分の2)だった。
 側女(後宮)には、揀択後宮と承恩後宮がいた。揀択後宮とは、王妃のように、家門・人柄・容姿を兼ね備えた両班(ヤンパン=朝鮮王朝時代の貴族階級)の娘の中から公式の「揀択」手続きを経て側女となる女性のことだ。一方の承恩後宮とは、宮女の中でも国王の「承恩」を受けた女性を指した。宮人の任務は、主人の身の回りの世話、裁縫・刺しゅう、食事の準備、清掃、洗面、洗濯などだった。このうち、寝室の世話をする至密内人が承恩を受けるケースが多かった。至密内人が王宮入りする年齢は4‐10歳で、ほかの宮人(12歳内外)に比べ相対的に幼く、別に侍女としての教旨(国王が官員に下す文書)を受けた。
■後期には両班の娘が後宮入りを忌避
 太宗は後宮制度の基礎を固め、国王が3人の揀択後宮を置くようにした。また世宗は、息子の文宗のため、権氏・鄭氏・洪氏の3人を一度に側女にあてた。朝鮮時代初期には、国王1人当たり平均7‐8人の側女がいたが、後期には平均3人に減った。また前期には、揀択後宮(30人)が承恩後宮(28人)より多かったが、後期になると揀択後宮(5人)が減り、承恩後宮(29人)が増えた。その背景には、揀択後宮の社会的地位の低下があった。前期の時点では、側女が後に王妃になることも多かったが、後期にはそうしたケースがまれになった。宣祖代以降は、王妃が世を去った後、継妃を揀択し直すことが慣例となった。英祖は60歳のときに15歳の新婦(貞純王后金氏)を継妃としてめとった。朝鮮王朝時代後期に王位継承者を産んだ側女を王妃に冊封したケースは、禧嬪張氏(粛宗の後宮で景宗の母)しかいない。後期になるにつれ儒教的秩序が深まっていったからだ。17世紀以降、「礼学」の発展に伴い嫡長子(正妻が産んだ長男)による家の継承が重視され、その結果、正妻と側女の区分が厳しくなり、王妃と側女の格差も広がっていった。両班の家でも、娘を揀択後宮に入れることを拒むようになり、承恩後宮の出生率が低下し、憲宗以降は王室直系の血筋が断絶するに至った。
■弱り目に祟り目、国王の禁欲期間も増加
 こうした状況の一因として、国王の禁欲も作用していた。朝鮮中期以降、儒教儀礼が強化される中で、指導者層の葬礼・祭礼の実践が強調された。葬礼の中心となるのは「三年喪」だった。忌日から満24カ月間は、喪中であるとして禁欲が要求され、国王も例外ではなかった。顕宗妃の明聖王后は、前国王・孝宗の三年喪を終えて位牌を宗廟にまつる儀式が行われる前に妊娠し、儀式後すぐに出産したため、宋時烈(ソン・シヨル)の批判を浴びた。祭祀の対象となる人物の数もますます増えた上、他国の祭祀の忌日まで加わり、国王の「禁欲期間」は後期になるにつれ伸びていった。このため、王室が低出生の泥沼から抜け出す道はなかった。キム・ジヨン研究員は「朝鮮社会の儒教化の過程が、出産のような私的な日常生活の領域にまでも影響を及ぼしたことを、端的に示している」と説明した。




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