シニア花井の韓国余話

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【萬物相】開城の韓屋

2012年01月25日 22時52分24秒 | Weblog
(韓国大手新聞、朝鮮日報 12.1.23記事抜粋)
 北朝鮮郷土史学者のソン・ギョンロクは、2000年にソウルで出版した『開城の話』で「開城(北朝鮮南部の都市、高麗時代の都/ケソン)は今も、ほかの地方に行くときには『下る』という表現を使う」と記している。自分たちが世の中の中心、一番上だというプライドを持っていたからだ。朝鮮王朝時代の首都・漢陽は19世紀、人口が最も多いときで20万人に達した。それより数百年も前の高麗時代の開城は、人口が70万人に達する国際都市だった。クジラの背のような瓦屋根が軒を連ね、遠く東南アジア、アラビアからやって来た商人たちが道端で商売をしていた。
 李成桂(イ・ソンゲ)が朝鮮を建国し、開城を冷遇すると、開城の人たちは官職よりも商業に活路を見いだした。開城の男たちは商品を背負って全国を歩き回り、1年に1、2回家に帰った。彼らは失った栄華に対する未練を紛らせるかのように、金を稼いでは家を購入し、家中を飾るのに使った。
 開城の韓屋(伝統的な韓国家屋)は、門の鍵が2重3重と厳重なことでも知られている。いつも地方に出ていた男たちに代わって、女たちが家を守らなければならなかったためだ。そのため裏門もなく、家の庭に入るためには正門を通らなければならなかった。ほかの地方の家に比べ塀も高かった。開城の韓屋は、庭で草花を育てやすい構造になっている。久しぶりに家に帰った家長は、きれいに手入れされた草花を見て旅の疲れを癒したことだろう。
 開城の韓屋は、6・25戦争(朝鮮戦争)のときにも、その多くが残った。特に子男山のふもとにある300メートル以上続く韓屋通りは、ソウルや平壌と肩を並べた古都開城の古い風情が今も色濃く残っている。この地を訪れたドイツの建築家レセルは「権勢と名誉を追い求めなかった徐敬徳(ソ・ギョンドク)先生(朝鮮王朝時代中期の学者)の咳払いが、今にも門の外に響き渡りそうだ」と語った。
 京畿道はこのほど、開城に残る約300軒の韓屋を保存し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録する事業を推進すると発表した。多く見積もって、1坪(約3.3平方メートル)に1000万ウォン(約67万円)を要する事業だ。韓屋はよく「先祖の人生の知恵が含まれた生活文化財」と言われるが、韓屋の集落は急速な近代化を経て、われわれの周りからその多くが消え去ってしまった。開城の韓屋が残っているというのは、逆説的に言うと、北朝鮮の開発がそれだけ進んでいないからとも言える。南北が、こうした貴重な文化遺産を保存しようという意向だけでも共有すれば、われわれも中国の雲南省麗江のように古風な香り漂う村を永久に保存できるかもしれない。
金泰翼(キム・テイク)論説委員
(投稿者注)
漢陽(ハニャン)=現在のソウル
開城(ケソン)=板門店から近い北朝鮮の都市。現在は韓国投資の開城工業団地がある。





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