戸隠奥社参道にて
祈りが届いたか、雨降らず、今回の北国街道徒歩(かち)の旅は順調!!
だが連日蒸暑い日だったなー
【第一日目】10-6-27 下戸倉宿~矢代宿~松代宿へ
【松代城跡】
戦国時代、武田信玄が上杉謙信の攻撃に備え、山本勘助に命じて築城。千曲川のほとりという自然
の地形を生かした天然要塞。
江戸時代に真田信之が上田城から松代藩主として移った後は、真田氏10代が城主としてこの地を治め、
10万石の城下町を形成した。平成16年に大規模な修復・復元工事が完了。
【文武学校】
9代藩主真田幸教が1855(安政2)年に開校した学校。松代藩が藩士の子弟たちに文武両道を教育する
のに使われた。
【象山神社】
松代が生んだ幕末の思想家、佐久間象山を祭った神社。象山が生まれてから29年間を過ごした佐久間
象山宅跡、吉田松陰の密航事件に連座の後、蟄居[ちっきょ]の身となった象山が客間・書斎として使
用していた高義亭[こうぎてい]、9年の蟄居の後、京に上って構えた家の茶室を移築した煙雨[えんう]
亭が境内に立つ。
一日目の宿泊は、民宿六文銭。食事は昔のままという感じ。84歳のおばあさんが頑張っていた。
地下壕にまつわるいろんな話をしてくれた。
【二日目】10-6-28 松代宿~矢代宿に戻り、篠ノ井追分宿へ
【大英寺】
松代藩初代藩主・信之の妻・小松姫(本多忠勝の娘、徳川家康の養女)の菩提寺。上田の大英寺
(現芳泉寺)にまつられていたのを信之が上田から移封された際、ここに移したと伝えられ、現在の
本堂はもとは御霊屋。万年堂とも呼ばれている。
長国寺入口
【長国寺】
松代藩主真田家の菩提寺で、屋根に真田氏の家紋のひとつである六文銭が見える。歴代藩主の墓の
ほか、信之、信弘の御霊屋がある。信之の御霊屋は重要文化財で、破風の鶴は左甚五郎の彫刻と伝
えられ、夜な夜な破風を抜け出し稲を食い荒らしたという伝説が残っている。
また格天井の絵は狩野幽筆の作といわれている。
長国寺
住職の奥さんか?毎朝九つ鐘をつくという。丁度4つ残っているので、ということでご指導のもと、
ひとり一回つかせて貰ったのだ。
早朝7時頃、散歩時のちょっといい話。ついた数を忘れないように一回ついたら石をずらすのだ。
【象山地下壕】
第2次世界大戦の末期、本土決戦最後の拠点として大本営、政府各省等を松代に移すという軍部の極秘計画
のもとに構築した地下壕。着工は昭和19年11月から翌年8月15日の終戦まで約9ヶ月の間に当時のお金で
約2億円の巨費と延べ300万人の住民および朝鮮の人々が労働者として強制的に動員され、過酷な条件下で
多くの犠牲者を出したと言われる。西条口(恵明寺口)から500mの区間を見学できるようになっている。
象山地下壕
強制労働下の犠牲者について、今なおベールに包まれていることが多いという。
詳しいことは。
http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/08/post_9ff3.html
山寺常山邸
【山寺常山邸】
山寺家は石高160石の中級武士の家柄で代々松代藩に仕え、幕末には鎌原桐山と佐久間象山とと
もに松代の三山と称される山寺常山を輩出しています。常山は8代藩主真田幸貫からの信任を得、
寺社奉行、郡奉行などの要職を歴任し明治維新後は人材育成に力を入れ大きな影響を与えた。
真田宝物館
【真田宝物館】
旧松代藩主真田家から寄贈された家宝の武具、調度品、文書、美術品などを所蔵。重要文化財の
「青江の大太刀」、豊臣秀吉・石田三成・徳川家康・武田信玄らの書状など、大名家ならではの興味
深い史料が多数展示されている。
真田邸表門
松代名所案内
松代駅ホームにて
【三日目】丹波島宿~善光寺宿、寄り道で「戸隠神社・奥社」へお参り
篠ノ井橋 下を流れるは千曲川だ。梅雨雲の合間に少し青空が。
丹波島橋より犀川を見る。
川中島古戦場は犀川と千曲川の扇状地にあるが、北国街道から結構外れているので、寄らなかった。
善光寺常夜燈
予定を変更、バスで約1時間、戸隠神社へ、
【戸隠神社】
戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建
以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社。
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発
達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしている。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、
当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えた。
江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、
農業、水の神としての性格が強まってた。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳
を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めた。
明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と
名前を変えて現在に至る。
戸隠奥社参道口
参道中頃の隋神門
【奥社】
祭神 天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
由緒・ご神徳
日本神話にある、天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、無双の神力をもって、天の岩戸をお開きに
なった天手力雄命を戸隠山の麓に奉斎した事に始まります。
戸隠神社の御本社として全国に開運、心願成就、五穀豊熟などの御神徳が広宣され多くの崇敬者が登
拝されます。
参道は約半里(2キロ)、中程には萱葺きの赤い随神門があり、その先は天然記念物にも指定されている
樹齢約400年を超える杉並木が続いています。
「中山道15(加納宿)参照」
【手力雄(たぢからお)神社】貞観2年(860)創建
祭神は、日本神話で天照大神が隠れた天の岩屋の岩戸を開けた怪力無双の手力雄。その岩戸を取っ
て遠くへ投げた時、一方の戸は九州宮崎県の高千穂町(天岩戸神社)へ、もう一方の戸が信濃国の戸隠へ。
ちなみにその岩戸が山となり、戸隠山と呼ばれるようになったとさ。
【九頭龍社】
【戸隠山(1904m)】小雨が降りだして、もやが立ち上り何か幻想的な風景になってきた。
第3回目の旅を終えて。
・歩いた距離
27日(日) 10,619歩 7,43Km
28日(月) 28,522歩 19,97Km
29日(火) 18,289歩 12,80Km
・良かったところ
松代宿(象山地下壕、長国寺)
戸隠神社奥社
・食べもの
昼は全てそばでみなよかった。
矢代宿でのくじらの料理
ルートインの朝飯
・思い出
長国寺での早朝の鐘つき(音色はどうだったか?)
次回第4回目は9月、初秋の北国街道、野尻湖を目指す!!
祈りが届いたか、雨降らず、今回の北国街道徒歩(かち)の旅は順調!!
だが連日蒸暑い日だったなー
【第一日目】10-6-27 下戸倉宿~矢代宿~松代宿へ
【松代城跡】
戦国時代、武田信玄が上杉謙信の攻撃に備え、山本勘助に命じて築城。千曲川のほとりという自然
の地形を生かした天然要塞。
江戸時代に真田信之が上田城から松代藩主として移った後は、真田氏10代が城主としてこの地を治め、
10万石の城下町を形成した。平成16年に大規模な修復・復元工事が完了。
【文武学校】
9代藩主真田幸教が1855(安政2)年に開校した学校。松代藩が藩士の子弟たちに文武両道を教育する
のに使われた。
【象山神社】
松代が生んだ幕末の思想家、佐久間象山を祭った神社。象山が生まれてから29年間を過ごした佐久間
象山宅跡、吉田松陰の密航事件に連座の後、蟄居[ちっきょ]の身となった象山が客間・書斎として使
用していた高義亭[こうぎてい]、9年の蟄居の後、京に上って構えた家の茶室を移築した煙雨[えんう]
亭が境内に立つ。
一日目の宿泊は、民宿六文銭。食事は昔のままという感じ。84歳のおばあさんが頑張っていた。
地下壕にまつわるいろんな話をしてくれた。
【二日目】10-6-28 松代宿~矢代宿に戻り、篠ノ井追分宿へ
【大英寺】
松代藩初代藩主・信之の妻・小松姫(本多忠勝の娘、徳川家康の養女)の菩提寺。上田の大英寺
(現芳泉寺)にまつられていたのを信之が上田から移封された際、ここに移したと伝えられ、現在の
本堂はもとは御霊屋。万年堂とも呼ばれている。
長国寺入口
【長国寺】
松代藩主真田家の菩提寺で、屋根に真田氏の家紋のひとつである六文銭が見える。歴代藩主の墓の
ほか、信之、信弘の御霊屋がある。信之の御霊屋は重要文化財で、破風の鶴は左甚五郎の彫刻と伝
えられ、夜な夜な破風を抜け出し稲を食い荒らしたという伝説が残っている。
また格天井の絵は狩野幽筆の作といわれている。
長国寺
住職の奥さんか?毎朝九つ鐘をつくという。丁度4つ残っているので、ということでご指導のもと、
ひとり一回つかせて貰ったのだ。
早朝7時頃、散歩時のちょっといい話。ついた数を忘れないように一回ついたら石をずらすのだ。
【象山地下壕】
第2次世界大戦の末期、本土決戦最後の拠点として大本営、政府各省等を松代に移すという軍部の極秘計画
のもとに構築した地下壕。着工は昭和19年11月から翌年8月15日の終戦まで約9ヶ月の間に当時のお金で
約2億円の巨費と延べ300万人の住民および朝鮮の人々が労働者として強制的に動員され、過酷な条件下で
多くの犠牲者を出したと言われる。西条口(恵明寺口)から500mの区間を見学できるようになっている。
象山地下壕
強制労働下の犠牲者について、今なおベールに包まれていることが多いという。
詳しいことは。
http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/08/post_9ff3.html
山寺常山邸
【山寺常山邸】
山寺家は石高160石の中級武士の家柄で代々松代藩に仕え、幕末には鎌原桐山と佐久間象山とと
もに松代の三山と称される山寺常山を輩出しています。常山は8代藩主真田幸貫からの信任を得、
寺社奉行、郡奉行などの要職を歴任し明治維新後は人材育成に力を入れ大きな影響を与えた。
真田宝物館
【真田宝物館】
旧松代藩主真田家から寄贈された家宝の武具、調度品、文書、美術品などを所蔵。重要文化財の
「青江の大太刀」、豊臣秀吉・石田三成・徳川家康・武田信玄らの書状など、大名家ならではの興味
深い史料が多数展示されている。
真田邸表門
松代名所案内
松代駅ホームにて
【三日目】丹波島宿~善光寺宿、寄り道で「戸隠神社・奥社」へお参り
篠ノ井橋 下を流れるは千曲川だ。梅雨雲の合間に少し青空が。
丹波島橋より犀川を見る。
川中島古戦場は犀川と千曲川の扇状地にあるが、北国街道から結構外れているので、寄らなかった。
善光寺常夜燈
予定を変更、バスで約1時間、戸隠神社へ、
【戸隠神社】
戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建
以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社。
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発
達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしている。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、
当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えた。
江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、
農業、水の神としての性格が強まってた。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳
を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めた。
明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と
名前を変えて現在に至る。
戸隠奥社参道口
参道中頃の隋神門
【奥社】
祭神 天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
由緒・ご神徳
日本神話にある、天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、無双の神力をもって、天の岩戸をお開きに
なった天手力雄命を戸隠山の麓に奉斎した事に始まります。
戸隠神社の御本社として全国に開運、心願成就、五穀豊熟などの御神徳が広宣され多くの崇敬者が登
拝されます。
参道は約半里(2キロ)、中程には萱葺きの赤い随神門があり、その先は天然記念物にも指定されている
樹齢約400年を超える杉並木が続いています。
「中山道15(加納宿)参照」
【手力雄(たぢからお)神社】貞観2年(860)創建
祭神は、日本神話で天照大神が隠れた天の岩屋の岩戸を開けた怪力無双の手力雄。その岩戸を取っ
て遠くへ投げた時、一方の戸は九州宮崎県の高千穂町(天岩戸神社)へ、もう一方の戸が信濃国の戸隠へ。
ちなみにその岩戸が山となり、戸隠山と呼ばれるようになったとさ。
【九頭龍社】
【戸隠山(1904m)】小雨が降りだして、もやが立ち上り何か幻想的な風景になってきた。
第3回目の旅を終えて。
・歩いた距離
27日(日) 10,619歩 7,43Km
28日(月) 28,522歩 19,97Km
29日(火) 18,289歩 12,80Km
・良かったところ
松代宿(象山地下壕、長国寺)
戸隠神社奥社
・食べもの
昼は全てそばでみなよかった。
矢代宿でのくじらの料理
ルートインの朝飯
・思い出
長国寺での早朝の鐘つき(音色はどうだったか?)
次回第4回目は9月、初秋の北国街道、野尻湖を目指す!!
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