非才無才の雄叫び

つぶやくこと、叫ぶこと、すべてボケ防止だ!

「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽25

2020-10-30 18:40:49 | 日記
藤井君
書くことに事欠いて、なにも日本の恥をさらすことはないだろう。
それとも意に反して、こういう表現をしてしまったということか?
だったら日本語の勉強をし直せっ!


「議会にアメリカの宣戦布告を求めたルーズベルトの欺瞞」

ルーズベルト大統領がアメリカ国民をだましたからって
それがどうしたんだよ。日本人に関係ないだろ。
そう言いたい。

ところが藤井氏は「反東京裁判史観」へ読者を誘導したいために、
論理的に無理があるのを承知で、アメリカの政治家たちを遮二無
二取り上げるので、自分に都合の良い部分だけをピックアップ
することになる。
それがフーヴァーであり、ハミルトン・フィッシュの記述。

フィッシュについては「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽!の
後半でも取り上げましたが、その「影の部分」を再度強調して
おきたい。

ウィキ「ハミルトン・フィッシュ」
1939年8月14日、フィッシュはノルウェーのオスロで開かれた
列国議会同盟の会議にアメリカ合衆国代表団の総裁として出席し、
ヨアヒム・フォン・リッベントロップと会見した。フィッシュは
リッベントロップの私用飛行機に同乗してオスロまで飛んだ。
ルーズベルトの前に立ちはだかる強敵であったフィッシュは、
ノルウェーでの会議の間に、ナチス・ドイツとより良好な関係を
もつことを推奨し
、ダンツィヒ問題を解決することを望んだ。


ヨアヒム・フォン・リッベントロップは、ドイツの実業家、
政治家。最終階級は(ナチ)親衛隊名誉大将


そして
フィッシュはドイツ国民により親しいアメリカ人の盟友として
持ち上げられた。雑誌『タイム』は、かつてフィッシュを
「米国一の孤立主義者」 と称した
」。

1941年、アメリカ合衆国におけるナチの諜報員の活動を調査し
ていた司法委員会は、連邦議会議員の孤立主義者による演説内容
が中に記された(議員特権として無料で送達される)議会郵便物
の入った8つのかばんを押収するために、ワシントンの反英国組織
の本部に職員を派遣した。フィッシュの首席補佐官であったジョ
ージ・ヒルは、職員が到着する直前に郵便物をフィッシュの
事務所の収納庫に持ち去った


大陪審が召集され、ヒルは次の2点について説明するために
出廷するよう命じられた。1つ目は、なぜそんなに反英国組織
の郵便物について心配していたのか。2つ目は、ナチのプロパ
ガンダ諜報員であったジョージ・シルヴェスター・ヴィエレ
ック(英語版)との密接な関連について(ヴィエレックは後に
外国エージェント登録法違反及び反英国組織に資金援助してい
たことにより有罪判決が下されることになる)。ヒルはそのよ
うな郵便物を取り寄せたことはなく、ヴィエレックについても
知らなかったと言った。
陪審は即座に偽証の罪でヒルを起訴した

つまりフィッシュに対するスパイ容疑だ。

1942年の議会中間選挙まで2週間も待たない頃、コラムニストの
ドリュー・ピアソンの全国に同時に配信されたコラムには、
1939年にフィッシュがどのようにしてドイツと関係のある筋
から3100ドルを現金で受け取ったのかについての詳細が
記述された


ところが藤井氏はフィッシュをアメリカ議会の傑出したリーダー
で高潔な人物であるかのような印象を与えて、持論を展開。

ルーズベルトとは若い頃からの知り合いです。ニューヨーク
州議会議員を一緒にやっていましたが、ある時から2人の道が
大きく分かれていくことになります。
ルーズベルトがヨーロッパの戦争に介入したがっているのを知り、
アメリカ中立運動の先頭に立っていたフィッシュは真正面から
対立するのです


藤井君、歴史書を書くには文章がお粗末すぎる。
先ず時間軸を間違っていないか?
「一緒にやっていましたが、ある時から・・・」つまりこれは
議員をやっている時代の、ある時という解釈になり、その原因は
「ルーズベルトがヨーロッパの戦争に介入したがっている」こと
だった、になる。

藤井君
読者は昔と違ってネットを参照しながら、読解できるということを
計算に入れてなかったのか?

以下のウィキの記事
フィッシュは1914年、1915年、1916年の3年にわたり、ニュー
ヨーク州下院(英語版)で進歩党所属の議員であった

ところがルーズベルトは
1913年、ウッドロウ・ウィルソン大統領によって海軍次官に任
命。ジョセファス・ダニエルズ海軍長官の下で同職を務め、海軍の
拡張に尽力し、海軍予備役部隊を設立した。中米およびカリブ海
諸国への干渉のために海軍と海兵隊を派遣した。1920年の大統領
選挙において、副大統領候補のルーズベルトは海軍次官として
1915年にハイチに課した憲法を起草したと主張した


1914年フィッシュがニューヨーク州の議員になった時は、
ルーズベルトは海軍次官になっていて、一緒にやっているように
なっていない。

ニューヨーク州議会議員を一緒にやっていました
創作だろう、これ

フィッシュは1917年から第一次世界大戦でフランスに
出兵している。

ウィルソン大統領がドイツに対して宣戦布告(1917年4月)した
後の夏に、フィッシュと約2000人の兵士はキャンプ・ホイットマン
(ニューヨーク州)で訓練を開始した。・・・連隊は無事にフラン
スに到着した(フィッシュは護衛が付かなかったことについて、
海軍次官補のフランクリン・D・ルーズベルトに不満を述べた)


したがって
ルーズベルトがヨーロッパの戦争に介入したがっているのを知
り、アメリカ中立運動の先頭に立っていたフィッシュは真正面から
対立するのです
」はルーズベルトがニューディール政策を掲げて
大統領になってからの話だろ?

「ハル・ノート」については、当ブログ「その11」触れている。
太平洋戦争に対しては、「油が欲しいからとて戦争を始め
る奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、ついに
受け入れられることはなかった。石原の事態打開の策は、
奇しくも最後通牒といわれるハル・ノートとほぼ同様の
内容であった
」で十分であるが、ハル・ノートは
政権中枢の一部の人間にしか知らされていないはずだ。
まして、野党・共和党でアメリカ中の嫌われ者・フィッシュに
日米交渉の情報が伝わるはずがない。

その記事がこれだ
「1944年ではあるが、フィッシュが選挙に落選した模様を
1944年に実施された議席数の再分配により、フィッシュの選
挙区であったニューヨーク26区の区割りは再編された。同年、
フィッシュはニューヨーク29区から立候補した。・・・
オーガスタス・W・ベネットがフィッシュを約5000票差で破った。
雑誌『タイム』の報道によれば、「ニューヨーク州では、
わが国にとってうれしいことには、狂信的な反ルーズベルトの
孤立主義者ハミルトン・フィッシュは24年間議員であった後
(選挙の結果)退いた


日米交渉は決裂してもなお、ルーズベルトは昭和天皇に親電を
発した。
12月6日、ルーズベルト大統領から昭和天皇に親電が発せら
れた。親電の趣旨は、もし日本軍が仏印から撤兵してもアメリ
カは同地に侵入する意図はない、周辺政府にも同様の保障を求
める用意がある、南太平洋地域における平和のため仏印から撤
兵してほしいというものであった

しかし、「親電は東京中央電信局で15時間留め置かれ、最終的に
昭和天皇のもとに届いたのは12月8日の午前3時(ハワイ時間で
は午前7時半で真珠湾攻撃予定時刻の約30分前)であった


なお、2013年3月に公開された外交文書によって、戦後、連合国
軍総司令部(GHQ)が外務省に対して、伝達が遅れずに「電報が
天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることができたに違いない」
との見解を示していたことが明らかになっている


続きは次回に割愛します。

「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽24

2020-10-29 06:27:57 | 日記
「日本はハワイではなく、極東ソ連を攻撃して挟み撃ちにする
べきだった」

藤井君
君の論旨から判断すると、こんなの蛇足だろ?
戦後、アメリカの将軍が回想したからと言って、戦後だから
言えることだ。
戦時中に日本軍の中で、対ソ連戦の構想もあったようだが、
日中戦争の泥沼化で戦費を費やした日本には、その余裕は
なかったはずだし、
松岡らはこの同盟政策を発展させ、日独伊、そしてソ連を
加えたユーラシアブロックによって米英を牽制しようとした

という構想で松岡外相らが、ドイツやソ連を説得しようと試みた
が、独ソ戦によって、その構想は頓挫した。
また「日本軍は対中国・対ソ連に兵力を集中させ身動きで
きない状況にあった
・・・・」

ところが藤井氏、曰く
もし、イギリスだけを選んでやるのであれば、これはどうにか
なったかもしれません

なんだ、これはー。
歴史書の著者が、個別の事柄に
自分の感想を述べるなんて
あるのか?
おまけにこの好戦的な記述はなんだ?
君自身の右翼的体質か
?

そして
「ついに一緒の船に乗ったー安堵して眠りについたチャーチル」

パールハーバー奇襲の報を受けて、チャーチルが言った有名な
言葉があります。「we are on the same boat(ついに一緒の船に
乗った
)」

藤井君
君は資料も確認しないで、自分の記憶を頼りに書いてるのか?
読者に失礼だろ

その言葉を言ったのは、ルーズベルトだよ。
国民をバカにしているのか
?

1941年12月7日(日本時間で12月8日)の日本軍の真珠湾攻撃に
より太平洋戦争(開戦直後の閣議決定における日本側の呼称:
大東亜戦争)が勃発し、翌日(12月8日)には、
「Pearl Harbor Address to the Nation」(=真珠湾攻撃を国民に
告げる)として、日本への宣戦布告を議会に求めた(演説の
冒頭で「a date which will live in infamy="屈辱の日"」の表現を
用いた。このため、この演説は「屈辱演説」と呼ばれる)。
アメリカ議会の上院は全会一致、下院は1人が反対したのみで、
宣戦布告を承認した。その後、ルーズベルトがイギリス首相
ウィンストン・チャーチルに「我々は同じ船に乗りました、
日本は攻撃してきました」と報告した
際、チャーチルは手を
叩いて喜んだ


そして、相変わらずの論調
日本軍が真珠湾を攻撃した直接の意味は・・・・アメリカに
参戦の絶好の口実を与えたのです。・・・日本の首脳陣は誰も
この謀略の深さを理解していなかった
・・・」
藤井君
何を言っているのか、自分で分かっていないのだろ?
それくらい日本はバカだったと

ルーズベルトの日本人に対する発言や政策を間接的に
認めていることにもなるのだ。

ルーズベルトは、スミソニアン博物館の研究者であるアレス・
ハードリチカによる、日本人の頭蓋骨は「われわれのより
約2000年、発達が遅れている」という見解を紹介した上で、
・・・この様な自らの人種差別的感情と、第二次世界大戦以前
からのアメリカにおける日本人に対する人種差別的感情を背景
に、1941年12月の対日開戦後には妻・エレノアからの反対を
も押しのけて、大戦中にアメリカ国内とアメリカの影響下に
あったブラジルやメキシコ、ペルーなどの中南米諸国におい
て、ヒトラーのユダヤ人強制収容と同様の日系人の強制収容
政策を推し進め、自由を束縛するとともに財産を放棄せざる
を得ない状況に追い込んだ


さらに1944年6月13日には、アメリカの新聞が「ルーズベル
ト大統領が、フランシス・E・ウォルター連邦議会下院議員か
らレターオープナーを贈呈されたが、それが日本兵の腕の骨
から作られたものである」と報じた。なおルーズベルトは、
このような猟奇的な行為を隠しも恥じてもいなかった


このくだりを読んで小生はルーズベルトが嫌いになった。
しかし人の好悪と歴史的事実に対する対応は峻別すべきだ。

おのれっ
ルーズベルトめっ


返す刀で
おのれっ
藤井厳喜めっ

「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽23

2020-10-22 20:43:48 | 日記
続きです。

クレーギー駐日イギリス大使
「もし、暫定協定案について何らかの妥協が成立し、三ヵ月間の
猶予期間が得られたとするならば、季節風の条件で日本軍のマレ
ー上陸作戦は困難になっただろう。また独ソ戦の様相も変化する。
対独潜水艦戦の成功といった新しい要素も加わり、日本政府が
対米戦の決断に達することは極めて困難になるだろう」
(1942年2月4日付チャーチル英首相宛の報告書において)。

ハル・ノートの一節だ。

藤井君
先のブログで触れた「天皇陛下のアメリカへの提案」
上記のイギリス大使のチャーチルへの報告書にヒントを得て
君が創作したのではないか?
「天皇陛下のアメリカへの提案」は、どこを探しても出てこないし
第一、天皇陛下がアメリカの駐日大使に「提案」などするはずが
ない。なぜか。戦前、天皇は「現人神」で声を掛けるのは、せいぜ
い側近の木戸孝一や御前会議に出るわずかな閣僚と統帥部の参謀
総長や軍令部総長、その次官に限られていたはずだ。
とにかくフーヴァーの書籍以外に、その記録があるのなら、別注や
脚注で出典元を明らかにするのがジャーナリストの「義務」だ。
天皇陛下の和平のための提案をも拒否した「悪玉・ルーズベルト」
として印象づけたいのだろうが、小生は一日本人として、天皇陛下
が他国の駐日大使に「提案する」ということは史実であっても書く
にも忍びないものがある。ましてや、これが創作だったら、
どうなるか
根拠のないことで、昭和天皇を、自らの論理の「道具」にしたら、
戦前だったら「不敬罪」で3年以上5年以下の懲役だ。
それと、このやり方は、韓国の「反日」の連中の世論操作をまね
して
、もっともらしい「嘘」を織り交ぜながら、国民を反東京裁
判史観へ誘導しているのではないかという疑いを消せない。
どうするのかね、藤井君


さて、本題に戻ります。
ウィキ「ハル・ノート」
ともかく、ルーズベルトとハルは、両師(神父ら)が私的に日本側
と接触することを容認しつつ、政府としての行動は新任の野村吉三
郎大使着任まで待つこととした(野村の着任は2月11日)。
その背景には、アメリカのアドルフ・ヒトラーの脅威に対する
世界戦略、すなわち大西洋第一主義(ドイツ打倒を優先)・対日
戦回避があり、ルーズベルトもハルも日米会談の門戸を開けて
おくことに異存はなかった。

11月18日夜、野村と来栖はウォーカー郵政長官を訪問。ウォー
カーは大統領及び大多数の閣僚は日米諒解に賛成であること、
本が仏印撤兵など現実の行動で平和的意図を示せば、アメリカの
石油供給もあることを述べたという
。19日には某閣僚の旨を受け
たウォルシュ司教が大使館を訪れ、日本が今日にも仏印撤兵の意
図を表明すれば、ハルは即座に石油輸出を約束し、これをきっか
けに急速に問題を解決したい意向との情報が伝えられた。
またこの日、野村・来栖と会談したハルの対応も好意的だった
という


ところが松岡外相の反対と、日本軍の南部仏印への進駐で状況は
一変する。のちの首相・吉田茂は、やはり正常な人だった。
吉田茂
ハル・ノートについて、「すなわちこれは『試案』であり、『日米
交渉の基礎案』であるといっている。実際の肚の中はともかく外
交文書の上では決して『最後通牒』ではなかった筈だ。私はあら
ためて東郷外務大臣を訪ね、・・・執拗にハル・ノートの右の趣旨
をいって、注意を喚起した」「私は少々乱暴だと思ったが、東郷
君に向かって『君はこのことが聞き入れられなかったら、外務大
臣を辞めるべきだ。君が辞職すれば閣議が停頓するばかりか、
分別な軍部も多少反省するだろう
。それで死んだって男子の本懐
ではないか』とまでいったものだ」と回想している


ところが、この「無分別な軍部」を擁護しているのが、ほかならぬ
藤井氏その人だ。

さて、次の3項目も相変わらずの論調で目新しいものがないので、
少しウィキの抜粋した記事を転記してみます。

「日本の知らない裏側で世界はつながっていた」
「三国同盟締結は、日本を滅ぼす道だった」
「なぜ海軍は三国同盟を防げなかったか」

同盟締結の奏上を受けた昭和天皇は「今しばらく独ソの関係を
見極めた上で締結しても遅くないのではないか」と危惧を表明し
たが、近衛首相は「(ドイツを)信頼致してしかるべし」と奉答
した。天皇は続いて「アメリカと事を構える場合に海軍はどうだ
ろうか。海軍大学の図上演習ではいつも対米戦争は負けると聞い
た」と、戦争による敗北の懸念を伝えたが、近衛は日露戦争の際
に伊藤博文首相が「万一敗北に至れば単身戦場に赴いて討ち死に
する」と語ったことを引き合いに出し、及ばずながら誠心奉公す
ると回答した。・・・昭和天皇は調印三日前に木戸幸一内大臣に、
三国同盟は「日英同盟の時のようにただ慶ぶというのでなく、
万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、
親しく賢所に参拝して報告するとともに、神様のご加護を祈り
たい」と話したという


近衛は、どうして「(ドイツを)信頼致してしかるべし」と奉答
したのだろうか。天皇陛下よりも10歳年上で東大・京大を出た
自負からだろうか、天皇陛下の心中を察することができなかった。
それだけではない。

近衛内閣は
7月7日に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が勃発
した。7月9日に不拡大方針を閣議で確認した。・・・7月11日に
現地の松井太久郎大佐と秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で
停戦協定が締結された。
しかし近衞は蔣介石が4個師団を新たに派遣しているとの報を受
け、同11日午後に・・・内地三個師団を派兵する「北支派兵声明」
を発表する。派兵決定とその公表は進行中の現地における停戦
努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものと
した
。秦郁彦は、「近衛内閣が自発的に展開したパフォーマン
スは、国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られても
しかたのないものであった」としている


また「その後の特別議会で近衞は「事件不拡大」を唱え続けた。
しかし7月17日には1,000万円余の予備費支出を閣議決定。7月
26日には、陸軍が要求していないにもかかわらず、9,700万円
余の第一次北支事変費予算案を閣議決定
し、7月31日には4億
円超の第二次北支事変費予算を追加するなど、不拡大とは反対
の方向に指導した
。陸軍参謀本部作戦部長の石原莞爾は風見章
を通じて、日中首脳会談を近衞に提案したが、広田弘毅が熱意
を示さず、最後のところで決断できなかった。この状況を憂慮
した石原は7月18日に杉山元に意見具申し、「このまま日中戦
争に突入すれば、その結果はあたかもスペイン戦争でのナポレ
オン同様、底無し沼にはまることになる。この際、思いきって
北支にある日本軍全体を一挙に山海関の満支国境まで引き下げる。
近衛首相が自ら南京に飛び蔣介石と膝詰めで談判する」という
提案をした。同席した陸軍次官・梅津美治郎は、「そうしたいが、
近衛首相の自信は確かめてあるのか」と聞き、杉山も「近衛首相
にはその気迫はあるまい」と述べた。実際、風見によれば、近衞
は陸軍が和平で一本化するかどうか自信がなく、せっかくの首脳
会談構想を断念したと言われている。当初、近衞は首脳会談に
大変乗り気になり、南京行きを決意して飛行機まで手配したが、
直前になり心変わりし蔣介石との首脳会談を取り消した。石原は
激怒し「二千年にも及ぶ皇恩を辱うして、この危機に優柔不断
では、日本を滅ぼす者は近衛である」と叫んだ


近衛という人は、現在の旧民主党の鳩山元首相のような人だった
のかもしれない。言うこととやることがチグハグで、おまけに
近衛は統帥部の軍の英傑・石原莞爾の意見を生かすことができず、
日中の戦局は石原莞爾の指摘のとおり泥沼化していった。

また三国同盟も
9月26日の枢密院では深井英五顧問官は「条約の前文には、
万邦をしてその所を得しむとあるが、ヒットラーは嘗て『他の
民族に対し弱肉強食は天地の公道なり』と揚言しており、思想
観念が相反するではないか」と述べ、石塚英蔵顧問官は「ドイ
ツ国との条約は過去の経験上、十全を期し難し、政府は如何に
して彼の誠意を期待し得るか」と警告し、石井菊次郎は「由来、
ドイツと結んで利益を受けた国はない。…ヒットラーも危険少
なからぬ人物である。わが国と防共協定を結んでおきながら、
それと明らかに矛盾する独ソ不可侵条約を結んだ…」と述べた。
しかし結果的には承認された


このような意見があったにも関わらず、三国同盟が十分な議論
も経ずして締結された。





「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽22

2020-10-20 19:46:21 | 日記
さて、藤井氏は、いよいよ昭和天皇を担ぎ出します。

開戦を回避する可能性がもうひとつあったのは、41年11月、
天皇陛下が日米交渉を3ヵ月凍結しようと提案したときだった
でしょう。
天皇陛下のお考えとしては、いくら日米交渉をやっても、現状
では行き詰まっていて、どうしょうもない。来年の春まで3ヵ月
間、日米交渉を凍結して、また3か月後の来年2月からもう一度
交渉を始めようじゃないか、という提案です。そうしたら、
国際状況がいろいろ変わってきているから、お互いの考え方も
変わるんじゃないか、ということだったろうと思います。
『日本の天皇陛下は、1941年11月に駐日米国大使を通じて、行き
詰まった日米交渉において3か月間の冷却期間をおいてはどうか
との提案をされたが、ルーズベルトはこの提案をも拒否した』
実際それをやっていたら、おそらく日本はアメリカと戦争を
しなかったと考えられます。というのも、12月ぐらいからナチス
・ドイツが対ソビエト戦線で負け戦に突入するからです。
日本の頼みの綱はドイツだったわけですから、ドイツが劣勢に
なったと知ったら、どんなに反米の人たちだって、ドイツと
一緒にやろうという話にはならなかったでしょう。つまり、
対米強硬論者は後ろ盾を失って、真珠湾攻撃をやることも、
対米戦争をやることもなかったのではないでしょうか。
しかし、残念ながらこの提案もまた、ルーズベルトによって
拒否されるのです


大胆にも天皇陛下を持ち出してきたということは、
日本人の琴線に触れることだけに、
記述には注意を要するが
藤井氏は、こともなげに書いている。

ところが昭和天皇は、1941年11月の御前会議では言葉はなかった
とある。御前会議で言葉がなかったものを、他に話されるわけ
がない。
念のためにwebの11月5日の御前会議。
なお、昭和天皇は、9月6日の御前会議では「帝国国策遂行要領」
に不満を示し影響力を行使したが、今回は慣例通りに発言はな
かった
。この心境の変化について、天皇が東條へ絶大な信頼を
寄せていたことが指摘されている。また、対英米作戦への
成算を資料で示した統帥部の説得工作が功を奏し、天皇の戦争
への不安を取り除いた、との指摘もある(近衛は首相時代に、
天皇が「少しづつ戦争の方へ寄っておられる」と感じていたという


1941年11月に駐日米国大使」とはジョセフ・グルーだが
ウィキには、昭和天皇から日米交渉について提案があったという
記載は一切ない。
もっとも天皇が外国の大使に、直接、提案するはずがないので
側近の内務大臣・木戸孝一に仰せられた可能性はあるかもしれない
と思い、キーワード「木戸孝一」で検索したが、天皇が米国に対し
て提案したなどという記事は見当たらなかった。

藤井君
なんだこれは
早稲田を出て、ハーバート大学院まで出た
「国際政治ジャーナリスト」が、
こんなことも分からないのか
アメリカの大使と言えども
天皇に謁見するには
内務大臣・木戸孝一の
許可を受けなければならないはずだ
天皇の方からアメリカ大使に
直接会いたいという意向は
木戸孝一を通して伝えられるはずで
そうであれば、木戸孝一の記録に
そのことが残っていなければならない。

フーヴァーが、天皇のことを
伝聞を基に書いたとすれば
検証作業があってしかるべきで、
しかし、この文章にはその形跡もない。
だったらでっち上げということになるぞ。

藤井君
愛国心がある日本人だったら
フーヴァーのこの記述を目にした途端
激怒する
フーヴァー 
無礼者めっ

藤井君
君は、本当の愛国者ではない
この本のでたらめな記述から判断すると
君は韓国の「反日」の連中の手法を
そっくり真似ているように
見えるが
どうだ


「御前会議」のキーワードでネットを検索していたら
NHKのスペシャル「御前会議」を見つけたので、転記します。
近衛の「和平提案」は「アメリカの外交目的のほとんど全部
を達するような
」ものではなく、また「日本がほとんど
ベタ降り
」したものでもなかったことが、ここでも分かります。
以下をご参照ください。

NHKスペシャル「御前会議」より
 藤井茂がつづっていた日誌。
 この日誌には当時彼が書いた国策の原案が残されている。

 この原案は独ソ戦争勃発の翌日に早くも書かれている。
ここでは資源が豊富な南方へ進出することが明記されていた。
 従来からの海軍の主張を、独ソ戦争を契機に実行しようと
いうもくろみであった。

 原案には、「歴史に残る大文章なり」と記され、藤井の
興奮を伝えている。

 当時海軍が進出をもくろんだ南方とは、今の南部ベトナム、
当時のフランス領インドシナであった。
 そこはイギリス、アメリカにとっても戦略上の拠点で、
アメリカは日本の動向に神経をとがらせていた。 アメリカは
南部仏印からの撤退が盛り込まれた乙案に初めて前向きの検討
を始めた。
 アメリカ側の案をルーズベルト大統領に提出したのはモーゲ
ンソー財務長官であった。
 国務省はモーゲンソー案をもとに従来の原則主義にこだわら
ない交渉継続を目指した暫定協定案を作成した。

 暫定協定案では日本が南部仏印から撤退し、北部仏印の兵力
を2万5,000人にとどめれば資産凍結を緩和し、民間用の
石油の輸出を認めるという内容が盛り込まれた。


※追伸:「昭和天皇の日米交渉に関する提案」は
「昭和天皇」のキーワードで検索しても、その
項目には見当たりませんでした。

「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽21

2020-10-15 06:29:19 | 日記
「最大限譲歩した和平交渉は、拒絶された」

またぞろハル・ノートに関連した日米交渉の問題か?
第一章の末尾の
「アメリカは、日本がチャイナの利権を独占するのが
許せなかった」で反論しているのに、本の構成を度外視して波状
攻撃のように同じテーマを品を変えて繰り出すので、こちらも
波状攻撃に応じるしかあるまい。

まず小生の過去ログとwebのURLをリンクしていますので
ご参照ください。

「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽6
「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽7
日米交渉

ウィキは「日米交渉」について
日本陸軍の中国大陸撤退条件に、満州国の国家承認、日米通商
関係の正常化などの交渉が、野村吉三郎駐アメリカ大使とコーデル
・ハル国務長官との間で始められていた。
しかし、・・・松岡洋右外務大臣が「日本の対中政策の全面承認」
を主張した
ために交渉は難航した。さらに、1941年(昭和16年)
7月28日に日本軍はフランスのヴィシー政権の承諾を得た上で南
部仏印進駐を行ったが、8月1日にはアメリカ政府は石油禁輸措置
等の日本に対する経済制裁を発動した。・・・


石原莞爾が主張したように「石油が欲しいからとて戦争する奴が
あるか
」を受け入れて、満州国だけにしておけばよかったものを
譲歩するどころか、「日本の対中政策の全面承認」を要求してなお
かつ仏印に進駐した。石原莞爾の政府への進言とハルノートが一致
していたのであればハルノートは無理難題を要求していないことに
なる。

しかし藤井氏曰く「同年7月から第三次近衛内閣を組織していた
近衛文麿首相は、駐日アメリカ大使と9月に会談します。そこで
ルーズベルトと直接会って、日米首脳会談でなんとか日米戦争を回
避したいと強く訴えました。しかし、アメリカは妥協ではなく、
力によって日本を封じこめるべきだとして
、アメリカ国務省は日米
首脳会談を事実上拒否する
回答を日本側に示しました


妥協ではなく、力によって日本を封じこめるべきだ」という
主張がルーズベルト政権内部にあったという記事は、どこを
探しても出てこない。

藤井君
この部分は創作だろ
検証され立証されているweb記事と内容があべこべで
これじゃ君の本は「小説まがい」じゃないか


中国北部を占領して、満州国として傀儡政権を樹立した日本に
アメリカは「満州国」を承認する代わりに、中国から撤退するよ
うに要求していたが、これを拒否して仏印に進駐して「」を行
使したのは日本だ。

1931年(昭和6年)9月18日の満洲事変の発生で、国際連盟は
中華民国の提訴と日本の提案により、日中間の紛争に対し介入を
開始し、リットン調査団を派遣した。リットン調査団の報告を受
けて、1933年(昭和8年)2月24日の国際連盟総会では「中日紛
争に関する国際連盟特別総会報告書」が、賛成42票、反対1票(
日本)、棄権1票(シャム=現タイ王国)、投票不参加1国(チリ)
で採択された。この結果を受けて、中華民国は規約16条の経済制
裁適用を要求したが、対日経済制裁には必要不可欠なアメリカ合衆
国は、国際連盟に対し制裁に反対であることを、リットン調査団が
派遣される以前の1931年(昭和6年)11月11日の段階で、駐米英
国大使が確認
しており、中華民国の要求は、他の代表の沈黙および
討議打ち切り宣言により黙殺された。


満州事変の当初、アメリカは日本に対する国際連盟の制裁決議に
反対しているのだ。藤井君、知っているだろ?

8月6日、仏印中立化の提案に対する日本の回答が野村大使から
ハル国務長官に提示された。8月7日、近衛は昭和天皇から首脳会談
を速やかに取り運ぶようとの督促を受け、野村大使に宛て「(日米
国交の)危険なる状態を打破する唯一の途は此の際日米責任者直接
会見し互いに真意を披露し以て時局救済の可能性を検討するにあり
と信ず」として、ルーズベルト大統領との首脳会談を提案するよう
訓電した。首脳会談の申し入れは野村からハル国務長官に行われた
が(ルーズベルト大統領はウィンストン・チャーチル英首相との大
西洋会談に出かけていたため不在)、ハルの返事は曖昧であった。
8月17日、大西洋会談から戻ったルーズベルトは野村に対日警告を
読み上げた。
もし日本政府が武力ないし武力の威嚇によって隣接諸国を軍事的に
支配しようとする政策または計画にしたがい、今後なんらかの手段
をとるならば、米政府は、アメリカおよび米国民の正当なる権利と
利益を保護し、アメリカの安全を保障するために必要と思われる一
切の手段を、直ちにとらざるをえないであろう

その一方で、ルーズベルトは首脳会談の提案には好意的で、
ホノルルに行くのは無理だが、ジュノーではどうかと返事をした。
8月26日、大本営政府連絡会議の可決を経て、近衛は「先ず両首脳
直接会見して必ずしも従来の事務的商議に拘泥するこなく大所高
所より日米両国間に存在する太平洋全般に亙る重要問題を討議し、
時局救済の可能性ありや否やを検討することが喫緊の必要事にし
て細目の如きは首脳会談後必要に応じ主務当局に交渉せしめて可
なり」との「近衛メッセージ」を発出した。28日に野村から
「近衛メッセージ」を手交されたルーズベルトはこれを大いに賞賛
し、3日ほど会談しようと述べた。
しかし、同夜に行われた野村と
ハルの会談において、ハルは首脳会談で話がまとまらなければ真
に憂慮する結果を来すとして、あらかじめ大体の話をまとめてか
ら首脳会談で最終的に決定する形式にしたいとの意向を示した


ウィキ「ハルノート」
(日本政府の確約事項)日本は仏印以上に進駐しない、日中戦
争解決後仏印から撤兵、フィリピンの中立を保障、東亜における
米国の必要資源獲得に協力(米国政府の確約事項)米国は南西太
平洋の軍備拡大中止、日本の蘭印資源獲得に協力、日米通商関係
の復活、日中交渉の橋渡しと撤兵後の日本の仏印における特殊地
位の承認仏印以上に進駐しないというのは日本としては譲歩では
あるが、南部仏印に駐留したままでは説得力にかけるうえ、仏印中
立化どころか日本に特権的な地位を求めるなどあまりに虫のいい
提案であった。
この提案にハルは悲観的な見通しを示し、日本の
行動に深く失望したことを表明したうえで、日本が征服の政策を
捨てない限り、話し合いの余地はないと取り合わなかった

米国の回答は8日にハルから示されたが、これは日本の提案は大統
領提案への回答としては不充分であると厳しく指摘するもので
あった。


日本のアメリカに対する提案は「仏印中立化どころか日本に特権
的な地位を求めるなどあまりに虫のいい提案であった


ところが藤井氏は
この(近衛首相の)和平提案は、アメリカの外交目的のほと
んど全部を達するようなものでした。日本はもちろん満州を
放棄するとは言っておりませんが、満州のことについても
フーヴァーは書いています。ですから、今で言えば日本がほとんど
アメリカの権益に便宜を図ってもいいという打診があったと
ベタ降りしているようなものだったのです。
そしてフーヴァーは、戦争は日本が始めたんじゃない、日本は
戦争を避けたかったんだとも言っています。何でこれ(近衛和平案)
を受け入れられないんだという話です。これは全く常軌を逸して
いると、批判しているわけです


このように藤井氏のこの書籍の文章を併記すると、ウィキの
記事とは歴然とした違いが明らかになる。

この書籍の記述から藤井氏の人間像が明らかになってきただけ
ではなく、フーヴァーの人間像も見えてきた。

つまりフーヴァーはマッカーサーを大統領候補として担ぎあげ
たもののマッカーサーの嘘の議会証言によって、共和党内から
も信頼を失っていったはずで、ついに国民からもそっぽを向か
れてしまい、失意のうちに政界を引退したものと思われる。
それがルーズベルトへの恨み辛みとなって、ルーズベルト政権
やトルーマン政権の中枢にいなかったのに、伝聞を以て勝手に
想像して、一方的な記述で手記を書き上げたのではないか。

それが藤井氏が転記したフーヴァーの記述に表れている。政治
の権謀術数などおよそ想像もできない謹厳実直・真面目一方の
フーヴァーの、政敵ルーズベルトに対する嫉妬心にも似た敵愾
心が偏狭な見方になっていたことを表している。

藤井氏の転記『近衛首相が(F・ルーズベルト大統領)提案した条件
は、満州の返還を除く、すべてのアメリカの目的を達成するも
のであった。しかも、満州の返還ですら、交渉して議論する余
地を残していた。皮肉なものの見方をする人ならば、ルーズベ
ルトは満州というこの重要でない問題をキッカケにして、もっ
と大きな戦争を引き起こしたいと思い、しかも満州を共産ロシ
アに与えようとしていたのでは、と考えるであろう


ところがウィキ「ハーバート・フーヴァー」では
1940年にフーヴァーはフィラデルフィアで行われた共和党大会
で講演を行った。・・・フーヴァーは、ヒトラーのヨーロッパにお
ける勝利は確実で、アメリカが必要とする大統領はヒトラーと
取引ができ、彼を疎外しない大統領であると語った。・・・


この時、フーヴァーのもとにはヒトラーのユダヤ人大虐殺の
情報が全く入っていなかったはずで、しかし、フーヴァーは
「フリーダム・ビトレイド」では自らのこの時の演説には全く
触れていないはずで、独善的で無責任な記述と言うしかない。

長々とweb記事を転記して申し訳ありません。藤井氏の記述
には「事実」を突き付けるしかありません。

続きは次回に割愛します。



「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽20

2020-10-12 22:54:45 | 日記
つづきです。

太平洋において米国が過去100年間に犯した最大の政治的
過ちは、共産主義者をチャイナにおいて強大にさせたことだと
私は考えます
」アメリカ議会合同委員会でのマッカーサーの発言。
反共主義者のフーヴァーの意見そのままであろう。

しかし、そうであるならば、フーヴァーの商務長官時代のロシアへ
の「人道支援」も裏を返せばロシアへの「経済援助」となる。その
「経済援助」で共産主義国家は革命後の疲弊した状態から、復興を
早めることができたのだ。
ただ第二次大戦後のソ連と現在の中国を考える時、マッカーサー
の、いやフーヴァーの意見も当を得ていないわけではないが、
それはルーズベルトだけが責任を負うようなものではないだろう。
枢軸国・日本、ドイツ、イタリアに対する包囲網を形成するために
アメリカが供与した武器で周辺国を制覇し、毛沢東軍を支援した
ソ連により中国の軍事バランスは変わりつつあったが、
そもそも蒋介石政権は汚職が蔓延していて、アメリカの援助を
食い物にして、軍の規律も目に余るものがあったようだ。
たとえば「南京大虐殺」では、蒋介石軍の規律もない兵士たちが
南京市内に出没して、婦女暴行、略奪、殺戮の蛮行を平然と行い
蒋介石政府に批判がいかないように、日本兵を名乗ていたという
説もある。だから毛沢東率いる中共軍に勝てるわけがない。
それを鋭く見抜いたトルーマンが蒋介石への支援を打ち切った為
結局、中共軍との内戦に敗れて台湾に逃げ込んだと言われている。

藤井君
君は知っているだろう。これくらいのことは。
知っていて、敢えて以下のように書く。

アメリカが日本を占領してみて初めて、過去半世紀にこの地域で
日本が直面し、対処してきた問題と責任をアメリカが代わって引き
受けなくてはならなくなりました。共産主義の脅威と最前線で相対
峙しなければならない、それまでの日本の立場に立ってみると
チャイナに対しても、日本がやったようにやらなければならない
結論に達したとされています。しかし、フーヴァーによれば、それ
は間違いだったのです。
実際のところ私は、マッカーサーは初めからそんなことはわかっ
ていたと思います。だけど軍人ですから、上からの命令があった
ら、どこの国とでも戦わなければいけなかったということです


何を言いたいのか?
「過去半世紀」というと
明治維新、間もない頃じゃないか。
その頃の「チャイナ」は清国だろう。ロシアはニコライ2世の帝政
ロシアで、どちらも共産主義とは関係ない。
その頃の日本は地政学的な問題は抱えていないはずで、列強に伍し
て朝鮮半島に権益を求めて進出して清国と対立し、日清戦争で勝利
した。また、ロシアの南下を嫌うイギリスと組んで、イギリスの代
わりにロシアと戦って勝利した。
日本が直面し、対処してきた問題と責任
藤井君
混乱していないか?
マッカーサーの話ではなく、吉田内閣の時の「日米安保条約」
締結のいきさつと・・・。

しかし、フーヴァーによれば、それは間違いだったのです

本当に分かりづらい文章を書くよね。
どのように間違っていたか書くべきだろう。

それと、なんだ?「実際のところ」この文言はっ
君は56年前の1964年に没したマッカーサーに生前、取材でもして
来たと言いたいのか?
この文言は発言した人物と接触したか、国際的な検証がなされて
確定した歴史的事実を語る場合にしか用いないはずだ。

別注や脚注もつけずに
「実際のところ」などと
記述すべきではない


マッカーサーは初めからそんなことはわかっていたと思います。
だけど軍人ですから、上からの命令があったら、どこの国とでも
戦わなければいけなかったということです


藤井君、何を言っているんだ。
マッカーサーは分かっちゃいないよ


朝鮮戦争で仁川港上陸作戦でソウルを奪還して、気をよくして、
「38度線を越えるな」というトルーマン大統領の命令を無視して
北上し、中朝国境の最深部まで深追いして、前線が伸びたところ
を中共軍に突かれ、敗退して、再びソウルを中共軍に奪還された。
そこで派遣されたリッジウェイが反撃に出て38度線まで敵を
押し戻した。
その後のマッカーサーの発言がこうだ。
リッジウェイの成功が明らかになると、自分の存在感をアピール
するためか「中国を1年間で屈服させる新しい構想」を策定したと
シーボルドに話している。のちにこれは「最長でも10日で戦勝で
きる」に短縮された。その構想とは、戦後マッカーサーが語った
ところによれば、満州に50個もの原爆を投下し中ソの空軍力を
壊滅させた後、海兵隊と中国国民党軍合計50万名で中国軍の背後
に上陸して補給路を断ち、38度線から進撃してきた第八軍と中朝
軍を包囲殲滅、その後に日本海から黄海まで朝鮮半島を横断して
放射性コバルトを散布し、中ソ軍の侵入を防ぐというもので、
この戦略により60年間は朝鮮半島は安定が保てるとしていた


マッカーサーは好戦的で、自分の名誉だけを気にする人間だった。








「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽19

2020-10-09 21:07:53 | 日記
マッカーサーの人間像が次第に明らかになっていきますが
どう感じられるでしょうか。

ウィキ
かつて参謀総長として仕えた元大統領のハーバート・フーヴァー
から国際電話があり、既に共和党の実力者とも連絡を取り合って
いたフーヴァーは「トルーマンやマーシャルや、やつらの宣伝屋が
君の名声を汚さないうちに、一日も早く帰国したまえ」と忠告し
ている。共和党は、マッカーサーが帰国後に両院合同会議で演説す
ることを民主党支配であった上下両院で了承させ、さらにマッカー
サーの解任問題を通じてトルーマン政権を弾劾する
ことも考え
ていた


マッカーサーを大統領にするため本国で画策していたのがフー
ヴァーであり、共和党陣営であろう。
以前にフーヴァーが日本に来てマッカーサーと3日間話し合った内
容をマッカーサーが覚えていたか、その後、フーヴァーからレクチ
ャーを受けていた可能性がある。それがマッカーサーの合同委員会
での演説や発言になったものと考えるのが自然だ。

5月3日から、上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会に出席
した。議題は「マッカーサーの解任」と「極東の軍事情勢」につい
てであるが、マッカーサー解任が正当であるとするトルーマンら民
主党に対し、その決定を非とし政権への攻撃に繋げたい共和党の政
治ショーとの意味合いも強かった


マッカーサー将軍:はい。太平洋において、我々は、彼らを
回避して、これを包囲しました。(中略)・・・日本は産品がほと
んど何もありません、蚕(絹産業)を除いて。日本には綿がない、
羊毛がない、石油製品がない、スズがない、ゴムがない、その他
多くの物がない、が、その全てがアジア地域にはあった。日本は恐
れていました。もし、それらの供給が断ち切られたら、日本では
1000万人から1200万人の失業者が生じる。それゆえ、日本が戦争
に突入した目的は、主として安全保障(security)の必要に迫られ
てのことでした。原材料、すなわち、日本の製造業に必要な原材
料、これを提供する国々である、
マレー、インドネシア、フィリピンなどは、事前準備と奇襲の優
位により日本が占領していました。日本の一般的な戦略方針は、
太平洋上の島々を外郭陣地として確保し、我々がその全てを奪い
返すには多大の損失が生じると思わせることによって、日本が占
領地から原材料を確保することを我々に黙認させる、というもの
でした。これに対して、我々は全く新規の戦略を編み出しました。
日本軍がある陣地を保持していても、我々はこれを飛び越してい
きました。我々は日本軍の背後へと忍び寄り、忍び寄り、忍び
寄り、常に日本とそれらの国々、占領地を結ぶ補給線に接近し
ました


現代文明を基準とするならば、我ら(アングロサクソン)が
45歳の年齢に達しているのと比較して日本人は12歳の少年のよう
なものです。他のどのような教えを受けている間と同様に、彼等は
新しいモデルに影響されやすく、基本的な概念を植え付ける事が
できます。日本人は新しい概念を受け入れる事ができるほど白紙
に近く、柔軟性もありました。「交戦終了後は、懲罰的意味合い
や、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」
と答えている。また、別の上院議員から広島・長崎の原爆被害を
問われると、「熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺は
どちらの地域でも残酷極まるものだった」と答えて、原爆投下の
指示を出したトルーマンを暗に批判している


交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対
する恨みを持ち込むべきではない
」と言いながら、降伏した
日本の二人の将軍に対する扱いはどうだったか?

マッカーサー軍をルソン山中に終戦まで足止めし「軍事史上
最大の引き伸ばし作戦」を指揮した山下奉文大将と、太平洋戦
争序盤にマッカーサーに屈辱を与えた本間雅晴中将の2人の将軍
については、戦争終結前から訴追のための準備を行っていた。
山下は1945年9月3日にフィリピンのバギオにて降伏調印式が終
わるや否や、そのまま逮捕され投獄された。・・・、逮捕の罪
状であるマニラ大虐殺などの日本軍の残虐行為については把
握していなかった。しかしマッカーサーが命じ、西太平洋合衆
国陸軍司令官ウィリアム・D・ステイヤー中将が開廷したマニラ
軍事法廷は、それまでに判例もなかった、部下がおこなった行為
はすべて指揮官の責任に帰するという「指揮官責任論」で死刑
判決を下した。死刑判決を下した5人の軍事法廷の裁判官は、マ
ッカーサーやステイヤーの息のかかった法曹経験が全くない職業
軍人であり、典型的なカンガルー法廷(似非裁判:法律を無視し
て行われる私的裁判)であった
。・・・


また、マニラについてはその犠牲者の多くが、日本軍の残虐
行為ではなくアメリカ軍の砲爆撃の犠牲者であったという指摘
もあり、山下に全責任を負わせ、アメリカ軍のおこなったマニ
ラ破壊を日本軍に転嫁するためとの見方もある。・・・マッカー
サーは山下の絞首刑に際して、より屈辱を味わわせるように
「軍服、勲章など軍務に関するものを全て剥ぎ取れ」と命令し、
山下は囚人服のままマンゴーの木で絞首刑を執行された


本間についても同様で、本人が十分に把握していなかった、
いわゆるバターン死の行進の責任者とされた。マッカーサーが
死の行進の責任者を罰することを「聖なる義務」と意気込んで
いたことと、マッカーサーを唯一破った軍人であり、なにより
その首を欲していたため、マッカーサーにとっては一石二鳥の
裁判となった。・・・結局は山下裁判と同様にカンガルー法廷
により、判決は死刑であった。・・・死刑執行後に富士子(本間
中将の妻)は「裁判は正に復讐的なものでした。名目は捕虜虐殺
というものでしたが、マッカーサー元帥の輝かしい戦績に負け
戦というたった一つの汚点を付けた本間に対する復讐裁判だっ
たのです」と感想を述べている

後にこの裁判は、アメリカ国内でも異論が出され「法と憲法の
伝統に照らして、裁判と言えるものではない」「法的手続きを
とったリンチ」などとも言われた


藤井氏が転記していた「日本の戦争は自衛戦争であった」という
下りなどは、どうせ本心ではないので気にもしなかったが、
日本の司令官に対する「復習劇」、特に山下司令官にに対する
屈辱的な処刑は、憤りを感じる。
藤井氏は、自分に都合のよい「日本の戦争は自衛戦争」という
ところだけを引用しているが、藤井氏に日本人としての良心や
誇り
があれば、二人の日本の将軍に対する処刑とマッカーサー
の議会での発言の矛盾に憤りを感じて「日本の戦争は自衛戦争
であった
」という論点など採用できるはずがない。
さらにマッカーサーは朝鮮戦争の最中、戦況が不利になった中で、
本国の参謀本部に「原爆使用も含めた中国東北部
空爆を主張したが・・・
」しかし、議会証言では「また、別の上院
議員から広島・長崎の原爆被害を問われると、「熟知している。
数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるもの
だった」と答えて、原爆投下の指示を出したトルーマンを暗に
批判している

このようなマッカーサーの合同委員会での矛盾した発言は、
自分が大統領になるための方便でしかなく、その信憑性を疑う
に十分なものである。

しかし、この公聴会に先立つ4月21日に、トルーマン政権側の
リークによりニューヨーク・タイムズ紙に、トルーマンとマッカ
ーサーによる前年10月15日に行われたウェーク島会談の速記録が
記事として掲載された。これまでマッカーサーは「中国の参戦は
ないと自分は言っていない」と嘘の主張を行っており、この速記
録によりこれまでの主張を覆されたマッカーサーは「中傷だ」と
激怒し必死に否定したが、この記事は事実であり、この記事を
書いたニューヨーク・タイムズの記者トニー・リヴィエロは
1952年にピューリッツァー賞を受賞している[323]。この記事
により、マッカーサーの国民的人気を背景にした勢いは
削がれていた


マッカーサーはその後、全国遊説の旅に出発した。テキ
サス州を皮切りに11州を廻ったが、行く先々で熱狂的な歓
迎を受けた。マッカーサーは各地の演説で1952年の大統領
選を見据えて、上院聴聞会では抑えていたトルーマンへの
個人攻撃や高い連邦税の批判など、舌鋒鋭い政治的発言を
繰り返した。しかし、・・・軍事外交共同委員会において
第二次世界大戦での日本の行動を"自衛"と解釈できるような
証言をしたこともあり、時が経つにつれ次第に聴衆や共和
党からの支持を失っていった


そしてこの選挙の結果、大統領になったのは元部下だった
アイゼンハワーだった。

藤井君
マッカーサーは「日本の戦争は自衛戦争であった
の発言で、国民からも共和党からも支持を失ったという
記事を眼にしながらも、
これを敢えて論点にして
「反東京裁判史観」へ
国民を誘導しようと試みるのは
愛国者のやることではない。

小生だったら
マッカーサーめっ
スコットランドの貴族の血筋が
敵将を辱めて
騎士道にもとる行為をするとは
何事かっ
許さん


そして藤井君
大東亜共栄圏信奉者なら
「日本が自衛戦争だとっ
貴様らが侵略して植民地にした
アジアの同胞を解放するために戦った」と
なぜ言わないか


だからマッカーサーか゛
日本人は12歳の少年のようなものです」
と、日本人が「自由・民権」に対して成熟していない様子を
語ったということだ。


「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽18

2020-10-08 11:23:59 | 日記
長々と転記して申し訳ありませんが、ウィキ「マッカーサー」
の続きです。今回も長々と転記しますが、最後まで目を通して
いただければ幸いです。

しかし、これからがマッカーサーの嘘も方便の「真骨頂」です。
日独伊三国同盟が締結され、日本軍による仏印進駐が行われる
と、ルーズベルトは強硬な手段を取り、石油の禁輸と日本の在米
資産を凍結し、日米通商航海条約の失効もあって極東情勢は一気
に緊張した・・・マッカーサーも1941年7月にルーズベルトの要
請を受け、中将として現役に復帰した。アメリカ軍とフィリピン
軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官となった


日本軍がアメリカの植民地・フィリピンに近い仏印(:現在のベト
ナムカンボジア等)に進駐したので、直ちにルーズベルトは臨戦
態勢を敷いたということだ。

1941年12月8日、日本軍がイギリス領マラヤで開戦、次いでハワ
イ州の真珠湾などに対して攻撃をおこない太平洋戦争が始まった。
12月8日フィリピン時間で3時30分に副官のサザーランドはラジオで
真珠湾の攻撃を知りマッカーサーに報告、ワシントンからも3時
40分にマッカーサー宛て電話があったが、マッカーサーは真珠湾
で日本軍が撃退されると考え、その報告を待ち時間を無駄に浪費
した。その間、アメリカ極東空軍の司令に就任していたブレアト
ン少将が、B-17をすぐに発進させ、台湾にある日本軍基地に先制
攻撃をかけるべきと2回も提案したがマッカーサーはそのたびに
却下した


夜が明けた8時から、ブレアトンの命令によりB-17は日本軍の
攻撃を避ける為に空中待機していたが、ブレアトンの3回目の提
案でようやくマッカーサーが台湾攻撃を許可したため、B-17は
11時からクラークフィールドに着陸し爆弾を搭載しはじめた。
B-17全機となる35機と大半の戦闘機が飛行場に並んだ12時30分
に日本軍の海軍航空隊の零戦84機と一式陸上攻撃機・九六式陸
上攻撃機合計106機がクラークフィールドとイバフィールドを
襲撃した。・・・・12月13日には残存機は20機以下となり、
アメリカ極東空軍は何ら成果を上げる事なく壊滅した


ブレアトン少将の提案を直ちに受け入れていれば、日本軍の爆撃を
交わして日本軍を迎え撃つことができたかも知れない。

続いて「人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサー
は、「戦闘機を操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」
と信じ、その旨を報告した。また、「日本軍の陸軍、海軍機あわせ
て751機が飛来し、彼我の差は7対3という圧倒的不利な状況下
にあった
」と実際とは異なる報告をしている。・・・・
マッカーサーらは「2ヶ月にわたって日本陸軍を相手に『善戦』し
ている
」と、・・・ワシントンではフィリピンの対応に苦慮
しており、洪水のように戦況報告や援軍要請の電文を打電
してくるマッカーサーを冷ややかに見ていた。特にマッカーサ
ーをよく知るアイゼンハワーは「色々な意味でマッカーサーは
かつてないほど大きなベイビーになっている
。しかし我々は彼
をして戦わせるように仕向けている」と当時の日記に書き記
している


マッカーサーの司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに
流し続けた。12月10日のビガン上陸作戦時にアメリカ軍のB-17が
軽巡洋艦名取を爆撃し至近弾を得たが、B-17が撃墜されたため
その戦果が戦艦榛名撃沈、さらに架空の戦艦ヒラヌマを撃沈したと
誤認して報告されると、マッカーサー司令部はこの情報に飛び付き
大々的に宣伝した。・・・マッカーサー司令部は継続して
「ジャップに大損害を与えた」と公表してきたが、3月8日には
全世界に向けたラジオ放送で「ルソン島攻略の日本軍司令官本間
雅晴は敗北のために面目を失い、ハラキリナイフでハラキリして死
にかけている」と声明を出し、さらにその後「マッカーサー大将は
フィリピンにおける日本軍司令官本間雅晴中将はハラキリした
との報告を繰り返し受け取った。同報告によると同中将の葬儀は
2月26日にマニラで執行された」と公式声明を発表した。
さらに翌日には「フィリピンにおける日本軍の新しい司令官は
山下奉文である」と嘘の後任まで発表する念の入れようであった

上記の太字の部分がプロパガンダだ。
実際は本間雅晴中将は自決等していなくて
戦後はバターン死の行進における部下の行為の責任を問われ
て銃殺刑に処された


そして日本でのGHQ統治中の朝鮮戦争勃発後の対応。
中ソの全面介入を恐れるトルーマンは、「陸海軍はいずれの
場合も国境を越えてはならない」「国境付近では韓国軍以外の
部隊は使用しない」「中国東北部およびソ連領域への空海から
の攻撃を禁止する」という制限を設けた。中ソの全面介入の防
止の他にも、ホイト・ヴァンデンバーグアメリカ空軍参謀総長は、
空軍の作戦域を拡大することで自然・戦闘損失で空軍力を消耗し、
その補充のために2年間はヨーロッパ方面の防空力が裸になると
考え、国防総省もその考えを支持し、マッカーサーにも伝えら
れた。しかしこの作戦制限は、全面戦争で勝利することが信条
のマッカーサーには、束縛以外の何物にも感じられなかった


「10月15日にウェーク島で、トルーマンとマッカーサーは朝鮮
戦争について協議を行った。・・・その後の会談ではマッカーサ
ーが、「どんな事態になっても中共軍は介入しない」・・・・
10月17日にはトルーマンの指示を破り、その最深到達点を中間
点に変え、さらに国境深く前進するように各部隊司令官に命令
した。中朝国境に近づけば近づくほど地形は急峻となり、補給
が困難となっていったが、マッカーサーはその事実を軽視した。
マッカーサーのこの作戦指揮は、毛沢東の思うつぼであった


中国の義勇軍の人海戦術に押され、マッカーサーとワシントン
はパニック状態に陥っていた。マッカーサーは大規模な増援と、
原爆使用も含めた中国東北部空爆を主張したが、・・・中国東北
部への爆撃は戦争の拡大をまねき、また原爆については、朝鮮の地
勢と集約目標がないため現実的ではないと否決された。マッカー
サーは雑誌のインタビューに答える形で「中国東北部に対する空襲
の禁止は、史上かつてないハンディキャップである」と作戦に制限
を設けているトルーマンをこき下ろし、また中国軍に追われ敗走
しているのにもかかわらず「戦術的な撤退であり、敗走などと広く
宣伝されているのは全くのナンセンスだ」と嘯いた。トルーマンは
激怒し、ワシントン中枢のマッカーサーへの幻滅感は増していっ
た。マッカーサーからの批判に激怒したトルーマンは、統合参謀
本部に命じてマッカーサーに対し、公式的な意見表明をする場合
は上級機関の了承を得るようにと指示させたが、マッカーサーは
この指示を無視し、その後も政治的な発言を繰り返した


しかし、リッジウェイは現有通常戦力でも韓国を確保することは
十分可能であると判断しており、中国軍の第3期攻勢を撃破する
と2か月で失地を取り戻し、1951年3月には中国軍を38度線まで
押し返した。戦況の回復はリッジウエイの作戦指揮によるもの
で、マッカーサーの出番はなかったため、それを不服と思った
マッカーサーは脚光を浴びるためか、東京から幕僚と報道陣を
連れて前線を訪れた
。しかしある時、リッジウェイが計画した
作戦開始前にマッカーサーが前線に訪れて報道陣に作戦の開始
時期を漏らしてしまい、リッジウェイから自重してほしいとた
しなめられている。・・・リッジウェイは自伝でマッカーサーを
自分でやったのではない行為に対しても、名誉を主張してそ
れを受けたがる
」と評している


トルーマンとの対決姿勢を鮮明にしていたマッカーサーは、この
停戦工作を妨害してトルーマンを足元からひっくり返そうと画策、
1951年3月24日に一軍司令官としては異例の「国連軍は制限下に
おいても中国軍を圧倒し、中国は朝鮮制圧は不可能なことが明
らかになった」「中共が軍事的崩壊の瀬戸際に追い込まれている
ことを痛感できているはず」「私は敵の司令官といつでも会談す
る用意がある」などの「軍事的情勢判断」を発表したが、これは
中国への実質的な「最後通牒」に等しく、中国を強く刺激した。
また、野党共和党の保守派の重鎮ジョーゼフ・ウィリアム・マー
ティン・ジュニア前下院議長からマッカーサーに宛てた、台湾
の国民党兵力を利用する提案とトルーマン政権のヨーロッパ
重視政策への批判の手紙に対し、マッカーサーがマーティンの
意見への賛同とトルーマン政権批判の返事を出していたことが
明らかになり、一軍司令官が国の政策に口を出した明白なシビ
リアン・コントロール違反が相次いで行われた。

これは、1950年12月にトルーマンが統合参謀本部を通じて
指示した「公式的な意見表明は上級機関の了承を得てから」にも
反し、トルーマンは「私はもはや彼の不服従に我慢できなくな
った」と激怒した・・・もはやマッカーサーを全く信頼してい
なかったトルーマンは、マッカーサーの解任を決意した


マッカーサーのこれほどの自信過剰は、どこから出てきたのか。
自らを軍事の天才と自負していたのと、本国からフーヴァーら
共和党からの声援・支援があったものと思われる。

申し訳ありませんが、マッカーサーについては再度、割愛して
お知らせしますので、悪しからず。

「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽17

2020-10-06 20:04:16 | 日記
次にアメリカ議会上院の軍事外交合同委員会へ招聘されたマッカ
ーサーの「証言」が出てくるので、ウィキペディアを見てみた。

マッカーサーについての記事は長大で、読むうちに目が疲れ
てきて何度か中断しながら読了した。

マッカーサーはエピソードが多く実に面白い人物であった
ことが分かる。

部下の手柄を自分の手柄にしてワシントンに報告したり、戦況を
誇大に報告するだけではなく、うその報告をしたり、本国のマスコ
ミにリークして、自分の人気を上げるなど、自己宣伝がうまかっ
た人物だったようだ。

このような人物の言うことを、そのまま信じて、1951年の「証言」
の「日本の戦争は自衛のための戦争だった」を「反東京裁判」の
論点にした日本の右派論客(二名の名前があったが、ここでは伏せ
ます)がいると「マッカーサー」の項の脚注の末尾に記載が
あったので、なおのこと、ウィキの記事を紹介するしかない。
以下,ウイキの抜粋。
「(陸軍士官学校で)1903年に在学期間中の2,470点満点のうち
2,424.2点の得点率98.14%という成績を収め、94名の生徒の
首席で卒業した。
このマッカーサー以上の成績で卒業した者はこれまで2名しか
いない。卒業後は陸軍少尉で任官した


当時のアメリカ陸軍では工兵隊がエリート・グループと
みなされていたので、マッカーサーは工兵隊を志願し、・・・
植民地であったフィリピンに配属された。1905年に父が
日露戦争の観戦任務のための駐日アメリカ合衆国大使館
付き武官となった。マッカーサーも副官として日本の東京で
勤務した。この旅行の際に日本で東郷平八郎、大山巌、
乃木希典、黒木為楨ら日露戦争で活躍した司令官たちと面談し、
永久に消えることがない感銘を受けたとしている


マッカーサーはベラクルスに到着した第5旅団が輸送力不足
により動きが取れないことを知り、メキシコ軍の蒸気機関車を
奪取することを思い立った。マッカーサーはメキシコ人の鉄
道労働者数人を買収すると、単身でベラクルスより65km離れ
たアルバラードまで潜入、内通者の支援により3両の蒸気機関
車の奪取に成功した。その後、マッカーサー自身の証言では
追撃してきた騎馬隊と激しい銃撃戦の上、マッカーサーは3発も
銃弾が軍服を貫通するも無傷で騎馬隊を撃退し、見事にベラクルス
まで機関車を持ち帰ってきた。マッカーサーはこの活躍により当然
名誉勲章がもらえるものと期待していたが、第5旅団の旅団長が
そのような命令を下していないと証言したこと、また銃撃戦の件も
内通者のメキシコ人以外に証人はおらず信頼性に乏しいことより、
名誉勲章の授与は見送られ、マッカーサーは失望することと
なった


マッカーサーはニュートン・ディール・ベイカー陸軍長官と共に
ホワイトハウスへ行って、ウィルソンに「全米26州の州兵を強化し
市民軍としてヨーロッパに派遣すべき」と提案した。ウィル
ソンはベイカーとマッカーサーの提案を採用しその実行を指示し
たが、・・・・マッカーサーは単独の州ではなくいくつかの州の
部隊で師団を編成することを提案し、その提案に賛成したマンが
「全26州の部隊で編成してはどうか」と補足すると、マッカーサー
は「それはいいですね、そうすれば師団は全国に虹のようにかかる
ことになります」と言った。ベイカーはその案を採用し第42師団
を編成した。師団長にはマン、そして少佐だったマッカーサーを
二階級特進させ大佐とし参謀長に任命した


陸軍長官と一緒にホワイトハウスに行って大統領に面談したという
マッカーサーは陸軍内部でも注目されるほどの卓越した才能の持ち
主で、州兵強化市民軍の提唱者だったのではないかと思われる。

第42師団は1918年2月に西部戦線に参戦した。マッカーサーが
手塩にかけて育成した兵士は勇猛に戦い、多くの死傷者を出し
ながらも活躍した。アメリカが第一次世界大戦でフランスに派遣
した部隊の中では、正規軍と海兵隊で編成された精鋭部隊歩兵
第2師団に次ぐ貢献度とされた[26]。マッカーサーも参謀長である
にもかかわらず、前線に出たがった。正規の軍装は身に着けず、
ヘルメットを被らず常に軍帽を着用し、分厚いタートルネックの
セーターに母メアリーが編んだ2mもある長いマフラーを首に巻き、
光沢のあるカーフブーツを履いて、武器の代わりに乗馬鞭か
杖を握りしめているという目立つ格好であった


39歳の若さで士官学校の校長時代「マッカーサーは、その指導方針
で士官候補生の間では不人気であり、ある日、士官候補生数人が
マッカーサーに抗議にきたことがあったが、マッカーサーは候補
生らの言い分を聞いた後に「日本との戦争は不可避である。その
時になればアメリカは専門的な訓練を積んだ士官が必要となる。
ウェストポイントが有能な士官の輩出という使命をどれだけ果た
したかが戦争の帰趨を決することになる」と言って聞かせると、
候補生らは納得して、それ以降は不満を言わずに指導に従った


1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントン
D.C.に居座る事件(ボーナスアーミー)が発生した。全国から
集まった退役軍人とその家族は一時、22,000名にも上った。
特に思想性もない草の根運動であったが、マッカーサーは、
ボーナスアーミーは共産主義者に扇動され、連邦政府に対する
革命行動を煽っている、と根拠のない非難をおこなった。退役軍
人らはテント村を作ってワシントンD.Cに居座ったが、帰りの
交通費の支給などの懐柔策で、少しずつであるが解散して行った。
しかし、フーヴァーやマッカーサーが我慢強く待ったのにもか
かわらず10,000名が残ったため、業を煮やしたフーヴァー大統領が
警察と軍に、デモ隊の排除を命令した。マッカーサーはジョージ・
パットン少佐が指揮する歩兵、騎兵、機械化部隊合計1,000名の
部隊を投入し、非武装で無抵抗の退役軍人らを追い散らしたが、
副官のアイゼンハワーらの忠告も聞かず、フーヴァーからの命令
に反し、アナコスティア川を渡河して退役軍人らのテント村を
焼き払い、退役軍人らに数名の死者と多数の負傷者を生じさせた


この「ボーナスアーミー事件」が大統領フーヴァー再選の足かせ
となってしまった。

ウィキペディアでこれほど面白い記事を読んだのは、初めてで
まるで小説を読んでいる感覚になった。

「マッカーサー」については割愛しますので、ご了承ください。

「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽16

2020-10-05 12:00:00 | 日記
さて、次の
「フーヴァーとマッカーサーの会談で何が話されたか」
「『戦争を始めたいという狂人の欲望』が日米戦争を引き
起こした」を続けて批判します。
まずフーヴァーについては下記のプログで触れていますので、
ご参照ください。
「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽4

フーヴァーのような有名な人物の「回顧録」が出た場合、
その内容は政治学者や歴史学者、思想家等さまざまな
角度から検証される。
フーヴァーの出自から来歴はいうに及ばす、家庭生活はどう
だったか、社会生活から官僚時の仕事ぶり、大統領時代の政策、
引退後の態度から没するまでの世間の評価等々、仔細に調べた
上で、回顧録に記述された内容をさらに検証する。

ところが藤井氏は、小生も指摘しているように、自己の
記述に客観性を持たせるための脚注等の作業を省いてきた。
そして「ルーズベルトのことをはっきりマッドマンと書い
ているんです。『狂人の欲望、つまりあいつは気が狂っていて
・・・・ほんとうに戦争をやりたくてしょうがない・・・・
その欲望の結果が、今度の日米戦争になったんだと、私が
言うと、マッカーサーは同意した』とはっはり書いてあります。
ということは、日本が始めた戦争ではない、日本は悪くなかった
ということです

・・・日本が始めた戦争ではない、ルーズベルトが始めた
戦争であり、ルーズベルトが日本を追い詰めてやった戦争
であるということです
」と、そのままの受け売り。

この「・・・日本が始めた戦争ではない、ルーズベルトが始めた
戦争であり、ルーズベルトが日本を追い詰めてやった戦争
であるということです
」が、反東京裁判史観の、いわば骨子では
ないかと思われる。

そのために延々と、論証を省いて、創作を折りませながら一方的な
記述に終始している。

例えば、マッカーサーについても同様で
マッカーサーにとって、フーヴァーは恩人であった関係を藤井氏は
隠している。
webでは
マッカーサーは「1930年、大統領ハーバート・フーヴァーにより、
アメリカ陸軍最年少の50歳で参謀総長に任命された
。このポスト
は大将職であるため、一時的に大将に昇進した。1933年から副官
には、後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが付き、マッカー
サーとアイゼンハワーの今後長く続いていく関係が始まった
」とあり、

web「フーヴァーは後に、GHQ司令官を解任されたダグラス・
マッカーサーが、解任指令の後もアメリカへの帰国を渋った際、
「アメリカで支持の声が冷めぬうちに帰国するように」とアド
バイスしている。
この時、結局マッカーサーは解任指令から5日後に日本を離れ
ているが、マッカーサーはこのとき合衆国大統領になることを
目指しており、それでフーヴァーのアドバイスに従った

思われる

大統領候補になる為の後ろ盾を前大統領フーヴァーになって貰う
必要があったということだ。

これでは「マッカーサー大将が同意した」といっても
その客観性を証明できないことが分かる。

さらに「1941年7月の日本に対する金融制裁は、挑発的であった
ばかりではなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為になる
とわかっていても日本が戦争をせざるを得ない状況に追い込ん
だのだ・・・・
」とフ―ヴァーの記述をそのまま転記。

webは
しかし、1941年7月2日に策定された情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策
要綱によるフランス領インドシナやオランダ領東インドへの進駐
計画はアメリカとの衝突をも予期したものであった
。7月18日に
第3次近衛内閣発足後、日本が平和目的であるとしながらも南部
フランス領インドシナ進駐をほのめかすようになると、7月25日に
在アメリカの日本資産凍結を行った
。しかし7月28日に進駐が実
行され、8月1日にアメリカは「日本を含む全侵略国」への石油
禁輸を行った
」とある。

フランス領インドシナやオランダ領東インドへの進駐
計画はアメリカとの衝突をも予期し
」ていたのに、進駐すると
発表した途端、「7月25日に在アメリカの日本資産凍結を行った
懲りずに、その措置を無視して、「進駐」して一線を越えたら
8月1日にアメリカは「日本を含む全侵略国」への石油
禁輸を行った

日本はアメリカを挑発して石原莞爾の制止を振り切り、
仏印、蘭印に進駐して、経済制裁を受けてしまった。

回顧録の抜粋「・・・その経済制裁は弾こそ打っていなかったが
本質的には戦争であった。ルーズベルトは、自分の腹心の
部下からも、再三にわたってそんな挑発をすれば、遅かれ
早かれ、日本が報復のための戦争を引き起こすことになる、
と警告を受けていた

しかし、ルーズベルトの腹心であったヘンリー・モーゲンソウ、
ハル国務長官が、そのような発言をルーズベルトに行ったという
記録は見当たらない。フーヴァーらの言う「スパイが山のように
いた」中で、彼ら腹心は口は堅かったと思われる。
これはフーヴァーの聞き間違いか、勘違いにによるものか、
あるいは藤井氏の創作と思われる。

こういう「回顧録」の記述については、精査した上で、別注や脚注
で解説するのが、ジャーナリストの仕事だ。

ただweb上、記録があるのは、ルーズベルトの隔離演説に対する
ものくらいで、
web「またハル国務長官もこの「隔離」や「伝染病」という
レトリックは無用の反対をもたらしたとして批判した

しかない。

この後、「経済制裁がすでに戦争の開始であるというのは、当時の
国際法上からも認められていた原則だったのです


何を言うのか?
経済制裁がすでに戦争の開始」そしてこれが
国際法上認められた原則」?

バカなことを言うなっ!
藤井君!どういう国際法だ?
別注や脚注もない、論拠も示さないで、
これをまともに信じろと?


法学者でなくても常識で分かる
経済制裁が戦争の開始」などいう
バカげた定義や原則があるわけないだろっ!

念のために調べてみた。
webで国際連盟の憲章や規約を見つけた。
国際連盟憲章(抜粋)
第22条 制裁は、非難決議、経済制裁、加盟国の持つ権利
の停止、加盟国の持つ権利の喪失及び国際連盟からの強制脱会の
5種類とする。
第24条 経済制裁は、当該国家の工場、商業ビル、鉱山など
経済的価値を有する施設を閉鎖させることによって行われる。
第33条 外交上の文書を隠匿した国家は、非難決議または
経済制裁とする。
第34条 外交において、不適当な発言をした国家は、非難決議、
経済制裁または加盟国の持つ権利を14日以内の日数で停止
とする


国連の違約国に対する制裁の一つに「経済制裁」がある。
藤井氏の言説だと「経済制裁」は「戦争開始」となるので
国連が違約国に対して、「戦争を開始した」ということに
なるのか?

web1919年4月に採択された国際連盟規約(抜粋)
第16条 ・・・戦争に訴えた連盟加盟国は、当然他のすべての
連盟加盟国に対して戦争行為を行ったものとみなされる。
他のすべての連盟加盟国は、その国とのいっさいの通商上または
金融上の関係の断絶
、自国民とその違約国国民との間のいっさいの
交通の禁止、・・・をただちに行う。

(説明)第11条は新しい国際平和実現のための集団安全保障の
規定であり、国際連盟規約の最も重要な部分であった。第16条
は戦争を起こした国、つまり違約国に対する経済制裁の規定であ
る。軍事的制裁は規定されていなかった


上記の「通商上または金融上の関係の断絶、自国民とその違約国
国民との間のいっさいの交通の禁止
」こそがすなわち「経済制裁
なのだ。

国連憲章や規約に「経済制裁は戦闘行為」という
バカげた記載はない!

藤井君
国民をバカにするのも
ほどほどにしろっ




「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽15

2020-10-01 06:39:02 | 日記
さて次の
「ルーズベルト家は、チャイナ貿易で財をなした家系だった」

ルーズベルトの母親サラ・デラノ一族は、サラの父親で
ルーズベルトの祖父が「チャイナからクーリーと呼ばれる
労働者をいっぱい連れてきて、アメリカで大陸横断鉄道建設の
労働者として酷使しました。奴隷同然の過酷な労働を行わせる
ために、阿片が売られていたといわれています。・・・・・
彼の家には、チャイナの古い美術品がいっぱいあったそうです
から、チャイナびいきになるのは、ある意味、当然だったと
言えるでしょう
」が、藤井氏の記述。

ウィキの「フランクリン・ルーズベルト」も
フランクリンの母親サラ・デラノ(Sara Delano, 1854年 -
1941年)は、フランス系プロテスタント教徒(ユグノー)であり、
デラノ一族は阿片戦争の頃から中国(清)とアヘンを含む貿易を
手広く行って財を為していた。フランクリンはサラが生
んだ唯一の子供
(大変な難産)であり、ジェームズは
再婚で、フランクリンが誕生したとき54歳と高齢(すでに長男
ジェームズに息子、つまり孫がいた)であった。サラはフラン
クリンの幼少時のみならず、生涯、支配的な影響を与えた[9]


脚注の[9]を見ると
^ フランクリンは後に友人に「生涯、母親を恐れていた」と
語っている
」とある。

なぜ同種の記述・記事を並べたか。
一人息子のフランクリンと家族は、当然、母親サラと同居していて
脚注の[9]から推測すると、中国の古美術品は彼の趣味ではなく
祖父の代からの遺品である骨とう品の可能性が高い。
よしんば、フランクリンが中国の古美術品を収集する骨董の趣味が
あったとしても、一国の命運を左右する動機にはなりえないし
ハーバート大学を出た俊秀は、そこまでバカではないだろう。

更に、「奴隷同然の過酷な労働を行わせるために、阿片が
売られていたといわれています
」という父親の家庭環境で
育ったサラは、ことによると、父親と同様に中国人を蔑視
していた可能性があり、そのサラに育てられたフランクリンは
長じて、優秀な人種である白人が、黄色人種や黒人を支配すべき
という人種主義・レイシズムの考え方の持ち主になっていたようで
チャイナびいき」ではなかった可能性が高いと判断すべきだ。
したがって、
チャイナびいきになるのは、ある意味、当然だった」は、
藤井氏の創作ではないかと思われる。

藤井君。ジャーナリストといえども想像力は逞しくすべきで
この程度の記述で、読者を結論へ導こうとするのは短絡的だ。

さて次の
「ヨーロッパの戦争でアメリカン・ボーイズを死なせるな」
のっけから
こうして、ルーズベルトのところには、三方からアメリカに
早く参戦してほしいと矢の催促が来ていました


なにこの「こうして」は?
前項の「ルーズベルト家云々」と、どう繋がるんだ?

自分だけの思い込みで、こんな接続詞を急に持ってきたりすると
小生みたいなぼんくらは、ハタと戸惑ってしまう。
全くの悪文だよ。

ただ、これ以下の記述は、比較的、順当な書き方になっているが
歴史的経過を書き留めていくと、ルーズベルトの信念が
見えてくる。

1937年7月 盧溝橋事件勃発、日中戦争へ突入。
web「1937年8月30日、中華民国は国際連盟に対して、日本の
行動は不戦条約および九ヶ国条約に違反すると主張し、措置を
取るよう提訴した。9月6日にはルーズベルトは「世界の政府間の
平和のためにアメリカが先頭に立って 大掃除をする準備ができ
ていることを公にする」とヘンリー・モーゲンソー財務長官と
ハル国務長官に語り、1937年(昭和12年)10月5日、世界で行わ
れつつあるとする侵略行為を非難するために「病人」になぞら
えて隔離演説(隔離声明、防疫演説)(en:Quarantine Speech)を
シカゴで行った


web「翌1938年10月6日には国務省声明を発表し、中華民国に
おける日本の行為を、アメリカは九カ国条約とケロッグ-ブリ
アン条約(パリ不戦条約)違反だとみなし、声明は国際連盟の
決議に沿うものとして、日本を明確に名指した


にも拘らず1938年12月、日本軍は中国の重慶を無差別爆撃。
アメリカ政府は「1939年7月には日本政府(平沼騏一郎首相、
平沼内閣)に対し日本の中国侵略に抗議するとして日米通商
航海条約の廃棄を通告した
」。
1939年9月、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。アメリカ
政府は、イギリス寄りだが武器援助以外には基本的に介入し
ない政策を取っていた

このように歴史的事象を時系列で追っていくと、権謀術数も
いとわないルーズベルトの覚悟が見えてくる。


そして「かくして、アメリカは開戦に踏み切った」

当初はドイツを挑発しようと手を尽くすのですが、ヒトラーも
頭がいいので
、なかなかそれに乗ろうとはしません。
それなら日独伊三国同盟を悪用しよう、まあ、逆用すれば
いいということですね。何とか日本から一発目を打たせる
ように仕向けて、それでアメリカが第二次世界大戦になだれ
込めばいいという計画を立てるわけです。結果からいうと
これがものの見事に成功してしまうのです


藤井氏は上記の文章を何気なく書いているのだろうが、自らの
意図にこだわるあまり、思慮に欠けた文書になっている。
ヒトラーも頭がいいので」挑発しても乗ってこなかったが、
三国同盟を利用したら、日本は、すぐに乗ってきて
これがものの見事に成功してしまうのです

藤井君。先のブログでも指摘したように、書き方によっては
別の意味にも受け取ることになるのだよ。

ヒトラーは頭がいい」から、乗ってこなかったが
日本はバカだから」「見事に成功してしまう」となって
受け取られ、日本人の怒りを買うぞ。
この書籍の冒頭に
反日プロパガンダは、日本の国そのものに対する攻撃である
と、君は気色ばんだばかりだが、
自らが「反日プロパガンダ」の片棒を担ぐことになっていないか。

藤井君
君は自らのジャーナリスト生命を
危うくしていることに
気づいていないのか

恥を知れっ