非才無才の雄叫び

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読売新聞 「地球を読む」集団的自衛権の北岡論説に齟齬はないのか

2014-05-25 22:55:00 | 日記
東シナ海が風雲急を告げるなかで「集団的自衛権」に関する
国会の論議をはじめメディア特に読売新聞のキャンペーンは紙面を
飾らない日はない。中国は日本の領土である尖閣諸島を含んだ空域
に自国の「防空識別圏」を勝手に設定し、今月24日には中国の戦
闘機が公海上を飛行中の自衛隊機に異常接近したというニュースが
流れた。折しも今回5月25日(日曜日)の読売新聞のコラム「地球を読
む」は政府の安保法制懇の座長代理を務める北岡伸一氏の集団的自
衛権に関する論説だ。スペースの中央を縦に「国民の安全保障 最
優先」という見出しは、北岡氏の意図を端的に表現していて分かり
やすい。つまり「集団的自衛権」に関する憲法の解釈変更について
は国民の安全保障を最優先にしなければならない、いや最優先にす
るから安心して欲しいということであろう。
しかし周知のことではあるが集団的自衛権に関する安保法制懇の議
論の環境は必ずしも楽観的とはいえない。だから尚のこと北岡氏は
発言の場を広げたいのであろう。その一端が今回の論説だ。北岡氏
はこの論説で集団的自衛権に関する五つの批判に対して的確に反論
しているのだろうか。
まず、その第一点。「懇談会報告に対し、安全保障を憲法の上位に
おくものだという批判
」があるというが、当方のような非才無才の
輩には分かり辛いので「安全保障を憲法の上位におく」とはどうい
うことかということから、解き明かすしかない。つまり憲法第9条
の改憲論議を置き去りにして、憲法の解釈の変更によって集団的自
衛権をはじめとした安全保障を規定ないしは法制化しようとする法
制懇の安全保障に関する論議は、憲法の限度・限界を指摘し安全保
障の議論を優先させようとしているという批判であろう。ところが
北岡氏は、この批判は「ある意味では正しく、ある意味では誤解で
ある
」と意味慎重に断り、憲法の性質を示して「憲法は国内の最高
規範であるが、他国を律することはできない
」と、その限度に言及
しつつ「憲法を重視し、国際社会の規範である国際法を重視し、か
つ適切な防衛力を備えることで、安全は守られる
」と断言する。そ
して「憲法の中でも最も重要なものは、国民主権であり基本的人権
である。それらは日本の安全が守られていて、初めて可能になる

と述べ、「憲法を考える際、安全保障を最優先に考えるのは当然で
ある
」と締めくくる。北岡氏の、この主張に異論はないが、中国が
軍拡路線を辿る中で「適切な防衛力」とは、どの程度の防衛力を指
すのか非常に気がかりだ。
 第二は「こういう変更は、憲法改正で行なうべきだという批判」。
「こういう変更」とは集団的自衛権を含む安全保障は現行憲法の解
釈の変更で可能であるとする安保法制懇の主張を指している。と
ころが北岡氏は現行憲法の解釈変更は過去にもあったとしながら、
私学助成に89条違反の疑義がある」としているが、これは一体
どういうことか?文言の解釈からいっても「解釈変更があった」と
いう言葉と「憲法違反の疑義がある」という言葉は全く意味が違う。
例えば「憲法違反の疑義がある」として国を相手取って裁判が起こ
され「憲法解釈の変更としての私学助成の制度は合憲である」とい
う判決が下されたのならまだしも、そういう司法の手も経ずに「
法違反の疑義がある
」という一部の論調に依拠する北岡氏の主張
は著しい歪曲であり欺瞞だ。北岡氏は現在、国際大学の学長で以
前は東大の教授として度々マスコミにも出て耳目を集めた人物だ。
政府の仕事に携わるエリートが、どうしてこのようなことをする
のか理解に苦しむ。
解釈変更があった」とする憲法89条をウィキペディアで見ると
第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは
団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない
慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその
利用に供してはならない
」とあるが、一方では「日本では1975公布、
翌年施行の私立学校振興助成法を根拠とする。・・・・・・「学校教
育法および私立学校法」に定める教育施設に対しては、これが公の
支配下に属するという解釈によって助成が行われている
」とある。
つまり私学助成は教育基本法に則って定められている学校教育法
や私立学校法を基準に行なわれているもので、そして教育基本法
は憲法第14条平等権「1.すべて国民は、法の下に平等であって、
人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的
又は社会的関係において、差別されない
」と、憲法第26条
教育を受ける権利、義務教育]① すべて国民は、法律の定める
ところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有
する。 ② すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護
する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを
無償(むしょう)とする
。」によって存立している。それを「疑
義がある」という論議があるにせよ「解釈変更」と結論付けられ
たわけではないものを「解釈変更」の事例として挙げるやり方は
拙速に過ぎる。如何か。
 次の「66条の『文民』の意味は修正されている」も同様だ。これも
66条第2項には「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなけれ
ばならない。
」と規定されているのに、特に国務大臣の中にそう
でない者がいたということなのであろう。元自衛官の森本氏の防
衛大臣就任は憲法違反ではないかという論争があったようだが、
この問題は裁判になったわけでもなく結論も出ず立ち消えになって
いる。
「文民」でなければならないとしたのは、戦前、軍人が国務大臣に
なり総理大臣になって戦争を遂行した反省から規定されたもので、
現役の軍人でなければ問題はないはずだ。自民党の中谷元防衛庁
長官も退役して10年以上経って「文民」として国会議員になった
後、防衛庁長官に就任したので、なんら問題はない。森本氏も自
衛隊を退役して「文民」として経歴を積み大学教授の時に防衛大臣
に任命されたので、なんの問題もないし、従って「文民」の意味
は修正されてはいない。それを前項と同じく「文民」の意味が修
正されていると主張するところに、北岡氏に別の意図があるのでは
ないかと疑わざるをえない。例えば自民党の憲法改正案は現役軍人
が退役した後、間もなく防衛大臣になることも可能だとする内容
だと危ぶむ世論もあるが、北岡氏の意図は自民党の憲法改正案を
意識したものではないのか。もっとも米国のアイゼンハワーは連
合国最高司令官を退任し軍を退役したその年、大統領選挙に立候
補し第34代大統領になっている。大統領とはまた違うのかもしれ
ないが、米国の上院、下院議員は、現在は軍隊を退役した後、10
年以上経過しないと立候補できないようだが・・・・。
次に「9条2項は制定当時、一切の軍備を禁じているという解釈だ
ったが、54年になって、主権国家である以上、必要最小限の自衛
力を持つのは当然という解釈に変わった
」。念のために条文を見
てみると「9条2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力
は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない
」となって
いる。北岡氏の主張は、ある面では正しいが、朝鮮戦争勃発でGHQ
の命令によって1950年に警察予備隊をつくり、後に保安隊へと改
組し、1954年、自衛隊法が成立する時の憲法解釈の変更は軍備と
いう既成事実に基づいたものだ。
 さらに憲法解釈の変更によらざるをえない理由を、そのハードル
の高さにあるとし、日本の政治は時間が掛かり過ぎだと嘆かんばか
りだが、その例の一つに消費税5%が8%になるまで17年もかかったと
するのは少々無謀だと言わざるをえない。97年に消費税を5%にした
後、今回のような有効な経済対策が講じられなかったためにデフレ
スパイラルに陥り経済の低迷が続いた。第一次湾岸戦争時からの集
団的自衛権の議論が延々と24年も続いているというのとはわけが違
う。同列に扱う北岡氏の「手法」にはいささか辟易する。
 次の第三「必要最小限度の自衛力の保持と行使」。安保法制懇の
主張は「54年の必要最小限の自衛力の保持と行使は合憲という解釈」
を支持するが「72年解釈で必要最小限度とは個別的自衛権のみを
指し集団的自衛権は含まれないとしたことを問題としている
」らし
い。「必要最小限度は集団的自衛権を排除しないという解釈への
変更は、54年の変更に比べればまことにささやかなものである

安全保障の専門家が言うのだから、その通りであろう。個別的自衛
権、集団的自衛権を問わず安全保障に関しては「必要最小限度」と
いう規制は必要であろうが、以前ニュースで知らされた自民党や
防衛省で研究しているという「敵基地攻撃能力」は「必要最小限度
」の個別的自衛権、集団的自衛権の範疇に入るのか気になる。第
二項での無謀とも言える強引な事例の出し方に疑問を感じているた
め、いろいろと力説されても釈然としない。従って北岡氏らの「
全保障の専門家の徹底した分析によって判断すべきものである
」と
の自負には、むしろ言い知れぬ不安を感じる。
 次は第四の「歯止め」の議論。「行過ぎないような歯止めは必要
」としながらも「日本の安全を守る方法の検討が最初であって、
歯止め議論はその次である
」と北岡氏は主張するが、この議論は
正に今国会で激しく交わされている。国会の質疑の中には「歯止め」
論を軸に政府に質問をしている政党もあるので、ここは国会の論戦
の行く末を見守るしかないが、北岡氏の主張には、いささか抵抗を
感じる。「日本の安全を守る方法の検討が最初」という言辞は大儀
を得ているように見えるが、この議論は同時並行して進めるべきも
ので、どちらが先だとかいうものではないように思うが如何か。
例えば集団的自衛権の国会での論議は「地球の裏側まで自衛隊を派
遣するわけではない」「周辺有事に限る」「邦人輸送中の米艦防護」
「シーレーンの機雷掃海」「日本上空を通過する米国攻撃のミサイ
ルの撃墜」等々明らかに「歯止め」論が政府の主戦をなしてはいな
いか。
さらに北岡氏は「歯止めの第一は、法律にどういう状況で何ができ
るかを書き込むことで、集団的自衛権の行使は限定される
」と記述
した後、「最も重要な歯止めは、政治家の判断」としているが、こ
れは「憲法の解釈変更」を閣議決定で行なうのは危険であるという
論調と真っ向から対立する。つまり「憲法の解釈変更」については
連立与党の公明党はじめ野党の抵抗は大きく、その時々の政権によ
って「憲法の解釈」が変更されるのは好ましくないという論調だ。
ところが北岡氏は「平和で豊かな日本を戦争に巻き込むことなど、
誰も望んでいない。本当に日本の安全が脅かされるとき以外は、個
別的自衛権も集団的自衛権も行使しないだろう。不用意に自衛権を
行使し、予想外に困難な事態になったとき、当然、政権は批判され
内閣は倒れるだろう。政治家は、それが最も怖い。それが民主的統
制である。私は日本国民が平和愛好的であり、日本の民主主義が健
全だと考えているから、このメカニズムが作動すると信じている

と述べているが、果たしてそのとおりであろうか。昨年末の安倍
首相の靖国参拝は国内世論や国際世論を気にすることなく強行さ
れ、韓国、中国だけでなく同盟国の米国政府をも「失望」させ、
さらにロシアも遺憾の声明を出し、EUも声明を発表した。
この行動が地域における緊張を和らげたり、隣国なかでも中国、
韓国との関係を改善するものではない
」「EUは関係国に対して、
信頼関係を支え、緊張を和らげ、地域の長期的な安定を担保する、
肯定的で建設的な結びつきのために協力することを求める
」と異
例の声明が続いた。これが「民主的統制」の結果なのだろうか。
また戦前はともかく戦後、「日本国民が平和愛好的であり、日本
の民主主義が健全
」だというが、最近、産経新聞が扇動する「河
野談話見直し」の世論を見る限り、ナショナリズムの色彩を濃く
し、一部ではただならぬ状況を呈しているようにしか見えない。
日本の民主主義は新興国に比べると「健全」であるかもしれない
が、欧米先進国に比肩できるほど日本の民主主義が発達している
とは、とても思えない。「政治家の判断」は安倍首相を見る限り、
「侵略の定義は国によって違う」「アーリントン墓地と靖国神社
参拝」「河野談話見直し」に関す発言は定見がなく、非常に危う
く世論に良い影響を与えているとは思えない。「民主的統制がと
れていて、そのメカニズムが作動」しているのか疑問だ。
 では最後の第五「周辺国、とくに中国との関係改善にまず取り
組むべきだという批判
」。力による現状変更を行なっている中国
に対しては「関与と対抗の両方が必要である。対話の窓は開けて
おき、交流を密にすると同時に、相手の理不尽な行動に対抗する
準備を怠らないということである
」とし、さらに氏の締めくくり
の言葉「日中関係の改善が先だという人は、その方法と、それを
先行させるべき理由を示してほしいものだ
」という氏の主張に全
く異論はない。しかし、北岡氏が、これだけ力説してもなお不安
が残るのは前述した通りであるが、北岡氏が力説すればするほど
なにか隠された意図があるように思えてならない。例えば、第三
の「最小限度」という項の最後の「それ以外の中小の国々は他の
国々と協力しあって安全を守るのである。それが集団的自衛権の
根本的な考え方である
」との北岡氏の言葉から連想してしまうの
だが、中国と領土問題で紛糾しているフィリピンやベトナムある
いはASEANと日米豪でNATO軍に匹敵する軍事同盟を結び中国
に対抗しようという議論が水面下で密かに行なわれているの
ではないのか。「国民の安全保障 最優先」と謳う北岡氏の論説
の影に、何かきな臭いものを感じるのは当方だけなのだろうか。

北岡先生
日本の安全保障に関する
先生の危機感は
我々庶民の
想像を遥かに
超えるのでしょう
しかし
先生の
この論説からは
先生の
焦燥感しか
伝わってきません
それがかえって
疑念を生みます
焦らずに
じっくりと
取り組んで
ください