非才無才の雄叫び

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「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽19

2020-10-09 21:07:53 | 日記
マッカーサーの人間像が次第に明らかになっていきますが
どう感じられるでしょうか。

ウィキ
かつて参謀総長として仕えた元大統領のハーバート・フーヴァー
から国際電話があり、既に共和党の実力者とも連絡を取り合って
いたフーヴァーは「トルーマンやマーシャルや、やつらの宣伝屋が
君の名声を汚さないうちに、一日も早く帰国したまえ」と忠告し
ている。共和党は、マッカーサーが帰国後に両院合同会議で演説す
ることを民主党支配であった上下両院で了承させ、さらにマッカー
サーの解任問題を通じてトルーマン政権を弾劾する
ことも考え
ていた


マッカーサーを大統領にするため本国で画策していたのがフー
ヴァーであり、共和党陣営であろう。
以前にフーヴァーが日本に来てマッカーサーと3日間話し合った内
容をマッカーサーが覚えていたか、その後、フーヴァーからレクチ
ャーを受けていた可能性がある。それがマッカーサーの合同委員会
での演説や発言になったものと考えるのが自然だ。

5月3日から、上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会に出席
した。議題は「マッカーサーの解任」と「極東の軍事情勢」につい
てであるが、マッカーサー解任が正当であるとするトルーマンら民
主党に対し、その決定を非とし政権への攻撃に繋げたい共和党の政
治ショーとの意味合いも強かった


マッカーサー将軍:はい。太平洋において、我々は、彼らを
回避して、これを包囲しました。(中略)・・・日本は産品がほと
んど何もありません、蚕(絹産業)を除いて。日本には綿がない、
羊毛がない、石油製品がない、スズがない、ゴムがない、その他
多くの物がない、が、その全てがアジア地域にはあった。日本は恐
れていました。もし、それらの供給が断ち切られたら、日本では
1000万人から1200万人の失業者が生じる。それゆえ、日本が戦争
に突入した目的は、主として安全保障(security)の必要に迫られ
てのことでした。原材料、すなわち、日本の製造業に必要な原材
料、これを提供する国々である、
マレー、インドネシア、フィリピンなどは、事前準備と奇襲の優
位により日本が占領していました。日本の一般的な戦略方針は、
太平洋上の島々を外郭陣地として確保し、我々がその全てを奪い
返すには多大の損失が生じると思わせることによって、日本が占
領地から原材料を確保することを我々に黙認させる、というもの
でした。これに対して、我々は全く新規の戦略を編み出しました。
日本軍がある陣地を保持していても、我々はこれを飛び越してい
きました。我々は日本軍の背後へと忍び寄り、忍び寄り、忍び
寄り、常に日本とそれらの国々、占領地を結ぶ補給線に接近し
ました


現代文明を基準とするならば、我ら(アングロサクソン)が
45歳の年齢に達しているのと比較して日本人は12歳の少年のよう
なものです。他のどのような教えを受けている間と同様に、彼等は
新しいモデルに影響されやすく、基本的な概念を植え付ける事が
できます。日本人は新しい概念を受け入れる事ができるほど白紙
に近く、柔軟性もありました。「交戦終了後は、懲罰的意味合い
や、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」
と答えている。また、別の上院議員から広島・長崎の原爆被害を
問われると、「熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺は
どちらの地域でも残酷極まるものだった」と答えて、原爆投下の
指示を出したトルーマンを暗に批判している


交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対
する恨みを持ち込むべきではない
」と言いながら、降伏した
日本の二人の将軍に対する扱いはどうだったか?

マッカーサー軍をルソン山中に終戦まで足止めし「軍事史上
最大の引き伸ばし作戦」を指揮した山下奉文大将と、太平洋戦
争序盤にマッカーサーに屈辱を与えた本間雅晴中将の2人の将軍
については、戦争終結前から訴追のための準備を行っていた。
山下は1945年9月3日にフィリピンのバギオにて降伏調印式が終
わるや否や、そのまま逮捕され投獄された。・・・、逮捕の罪
状であるマニラ大虐殺などの日本軍の残虐行為については把
握していなかった。しかしマッカーサーが命じ、西太平洋合衆
国陸軍司令官ウィリアム・D・ステイヤー中将が開廷したマニラ
軍事法廷は、それまでに判例もなかった、部下がおこなった行為
はすべて指揮官の責任に帰するという「指揮官責任論」で死刑
判決を下した。死刑判決を下した5人の軍事法廷の裁判官は、マ
ッカーサーやステイヤーの息のかかった法曹経験が全くない職業
軍人であり、典型的なカンガルー法廷(似非裁判:法律を無視し
て行われる私的裁判)であった
。・・・


また、マニラについてはその犠牲者の多くが、日本軍の残虐
行為ではなくアメリカ軍の砲爆撃の犠牲者であったという指摘
もあり、山下に全責任を負わせ、アメリカ軍のおこなったマニ
ラ破壊を日本軍に転嫁するためとの見方もある。・・・マッカー
サーは山下の絞首刑に際して、より屈辱を味わわせるように
「軍服、勲章など軍務に関するものを全て剥ぎ取れ」と命令し、
山下は囚人服のままマンゴーの木で絞首刑を執行された


本間についても同様で、本人が十分に把握していなかった、
いわゆるバターン死の行進の責任者とされた。マッカーサーが
死の行進の責任者を罰することを「聖なる義務」と意気込んで
いたことと、マッカーサーを唯一破った軍人であり、なにより
その首を欲していたため、マッカーサーにとっては一石二鳥の
裁判となった。・・・結局は山下裁判と同様にカンガルー法廷
により、判決は死刑であった。・・・死刑執行後に富士子(本間
中将の妻)は「裁判は正に復讐的なものでした。名目は捕虜虐殺
というものでしたが、マッカーサー元帥の輝かしい戦績に負け
戦というたった一つの汚点を付けた本間に対する復讐裁判だっ
たのです」と感想を述べている

後にこの裁判は、アメリカ国内でも異論が出され「法と憲法の
伝統に照らして、裁判と言えるものではない」「法的手続きを
とったリンチ」などとも言われた


藤井氏が転記していた「日本の戦争は自衛戦争であった」という
下りなどは、どうせ本心ではないので気にもしなかったが、
日本の司令官に対する「復習劇」、特に山下司令官にに対する
屈辱的な処刑は、憤りを感じる。
藤井氏は、自分に都合のよい「日本の戦争は自衛戦争」という
ところだけを引用しているが、藤井氏に日本人としての良心や
誇り
があれば、二人の日本の将軍に対する処刑とマッカーサー
の議会での発言の矛盾に憤りを感じて「日本の戦争は自衛戦争
であった
」という論点など採用できるはずがない。
さらにマッカーサーは朝鮮戦争の最中、戦況が不利になった中で、
本国の参謀本部に「原爆使用も含めた中国東北部
空爆を主張したが・・・
」しかし、議会証言では「また、別の上院
議員から広島・長崎の原爆被害を問われると、「熟知している。
数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるもの
だった」と答えて、原爆投下の指示を出したトルーマンを暗に
批判している

このようなマッカーサーの合同委員会での矛盾した発言は、
自分が大統領になるための方便でしかなく、その信憑性を疑う
に十分なものである。

しかし、この公聴会に先立つ4月21日に、トルーマン政権側の
リークによりニューヨーク・タイムズ紙に、トルーマンとマッカ
ーサーによる前年10月15日に行われたウェーク島会談の速記録が
記事として掲載された。これまでマッカーサーは「中国の参戦は
ないと自分は言っていない」と嘘の主張を行っており、この速記
録によりこれまでの主張を覆されたマッカーサーは「中傷だ」と
激怒し必死に否定したが、この記事は事実であり、この記事を
書いたニューヨーク・タイムズの記者トニー・リヴィエロは
1952年にピューリッツァー賞を受賞している[323]。この記事
により、マッカーサーの国民的人気を背景にした勢いは
削がれていた


マッカーサーはその後、全国遊説の旅に出発した。テキ
サス州を皮切りに11州を廻ったが、行く先々で熱狂的な歓
迎を受けた。マッカーサーは各地の演説で1952年の大統領
選を見据えて、上院聴聞会では抑えていたトルーマンへの
個人攻撃や高い連邦税の批判など、舌鋒鋭い政治的発言を
繰り返した。しかし、・・・軍事外交共同委員会において
第二次世界大戦での日本の行動を"自衛"と解釈できるような
証言をしたこともあり、時が経つにつれ次第に聴衆や共和
党からの支持を失っていった


そしてこの選挙の結果、大統領になったのは元部下だった
アイゼンハワーだった。

藤井君
マッカーサーは「日本の戦争は自衛戦争であった
の発言で、国民からも共和党からも支持を失ったという
記事を眼にしながらも、
これを敢えて論点にして
「反東京裁判史観」へ
国民を誘導しようと試みるのは
愛国者のやることではない。

小生だったら
マッカーサーめっ
スコットランドの貴族の血筋が
敵将を辱めて
騎士道にもとる行為をするとは
何事かっ
許さん


そして藤井君
大東亜共栄圏信奉者なら
「日本が自衛戦争だとっ
貴様らが侵略して植民地にした
アジアの同胞を解放するために戦った」と
なぜ言わないか


だからマッカーサーか゛
日本人は12歳の少年のようなものです」
と、日本人が「自由・民権」に対して成熟していない様子を
語ったということだ。