非才無才の雄叫び

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「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽17

2020-10-06 20:04:16 | 日記
次にアメリカ議会上院の軍事外交合同委員会へ招聘されたマッカ
ーサーの「証言」が出てくるので、ウィキペディアを見てみた。

マッカーサーについての記事は長大で、読むうちに目が疲れ
てきて何度か中断しながら読了した。

マッカーサーはエピソードが多く実に面白い人物であった
ことが分かる。

部下の手柄を自分の手柄にしてワシントンに報告したり、戦況を
誇大に報告するだけではなく、うその報告をしたり、本国のマスコ
ミにリークして、自分の人気を上げるなど、自己宣伝がうまかっ
た人物だったようだ。

このような人物の言うことを、そのまま信じて、1951年の「証言」
の「日本の戦争は自衛のための戦争だった」を「反東京裁判」の
論点にした日本の右派論客(二名の名前があったが、ここでは伏せ
ます)がいると「マッカーサー」の項の脚注の末尾に記載が
あったので、なおのこと、ウィキの記事を紹介するしかない。
以下,ウイキの抜粋。
「(陸軍士官学校で)1903年に在学期間中の2,470点満点のうち
2,424.2点の得点率98.14%という成績を収め、94名の生徒の
首席で卒業した。
このマッカーサー以上の成績で卒業した者はこれまで2名しか
いない。卒業後は陸軍少尉で任官した


当時のアメリカ陸軍では工兵隊がエリート・グループと
みなされていたので、マッカーサーは工兵隊を志願し、・・・
植民地であったフィリピンに配属された。1905年に父が
日露戦争の観戦任務のための駐日アメリカ合衆国大使館
付き武官となった。マッカーサーも副官として日本の東京で
勤務した。この旅行の際に日本で東郷平八郎、大山巌、
乃木希典、黒木為楨ら日露戦争で活躍した司令官たちと面談し、
永久に消えることがない感銘を受けたとしている


マッカーサーはベラクルスに到着した第5旅団が輸送力不足
により動きが取れないことを知り、メキシコ軍の蒸気機関車を
奪取することを思い立った。マッカーサーはメキシコ人の鉄
道労働者数人を買収すると、単身でベラクルスより65km離れ
たアルバラードまで潜入、内通者の支援により3両の蒸気機関
車の奪取に成功した。その後、マッカーサー自身の証言では
追撃してきた騎馬隊と激しい銃撃戦の上、マッカーサーは3発も
銃弾が軍服を貫通するも無傷で騎馬隊を撃退し、見事にベラクルス
まで機関車を持ち帰ってきた。マッカーサーはこの活躍により当然
名誉勲章がもらえるものと期待していたが、第5旅団の旅団長が
そのような命令を下していないと証言したこと、また銃撃戦の件も
内通者のメキシコ人以外に証人はおらず信頼性に乏しいことより、
名誉勲章の授与は見送られ、マッカーサーは失望することと
なった


マッカーサーはニュートン・ディール・ベイカー陸軍長官と共に
ホワイトハウスへ行って、ウィルソンに「全米26州の州兵を強化し
市民軍としてヨーロッパに派遣すべき」と提案した。ウィル
ソンはベイカーとマッカーサーの提案を採用しその実行を指示し
たが、・・・・マッカーサーは単独の州ではなくいくつかの州の
部隊で師団を編成することを提案し、その提案に賛成したマンが
「全26州の部隊で編成してはどうか」と補足すると、マッカーサー
は「それはいいですね、そうすれば師団は全国に虹のようにかかる
ことになります」と言った。ベイカーはその案を採用し第42師団
を編成した。師団長にはマン、そして少佐だったマッカーサーを
二階級特進させ大佐とし参謀長に任命した


陸軍長官と一緒にホワイトハウスに行って大統領に面談したという
マッカーサーは陸軍内部でも注目されるほどの卓越した才能の持ち
主で、州兵強化市民軍の提唱者だったのではないかと思われる。

第42師団は1918年2月に西部戦線に参戦した。マッカーサーが
手塩にかけて育成した兵士は勇猛に戦い、多くの死傷者を出し
ながらも活躍した。アメリカが第一次世界大戦でフランスに派遣
した部隊の中では、正規軍と海兵隊で編成された精鋭部隊歩兵
第2師団に次ぐ貢献度とされた[26]。マッカーサーも参謀長である
にもかかわらず、前線に出たがった。正規の軍装は身に着けず、
ヘルメットを被らず常に軍帽を着用し、分厚いタートルネックの
セーターに母メアリーが編んだ2mもある長いマフラーを首に巻き、
光沢のあるカーフブーツを履いて、武器の代わりに乗馬鞭か
杖を握りしめているという目立つ格好であった


39歳の若さで士官学校の校長時代「マッカーサーは、その指導方針
で士官候補生の間では不人気であり、ある日、士官候補生数人が
マッカーサーに抗議にきたことがあったが、マッカーサーは候補
生らの言い分を聞いた後に「日本との戦争は不可避である。その
時になればアメリカは専門的な訓練を積んだ士官が必要となる。
ウェストポイントが有能な士官の輩出という使命をどれだけ果た
したかが戦争の帰趨を決することになる」と言って聞かせると、
候補生らは納得して、それ以降は不満を言わずに指導に従った


1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントン
D.C.に居座る事件(ボーナスアーミー)が発生した。全国から
集まった退役軍人とその家族は一時、22,000名にも上った。
特に思想性もない草の根運動であったが、マッカーサーは、
ボーナスアーミーは共産主義者に扇動され、連邦政府に対する
革命行動を煽っている、と根拠のない非難をおこなった。退役軍
人らはテント村を作ってワシントンD.Cに居座ったが、帰りの
交通費の支給などの懐柔策で、少しずつであるが解散して行った。
しかし、フーヴァーやマッカーサーが我慢強く待ったのにもか
かわらず10,000名が残ったため、業を煮やしたフーヴァー大統領が
警察と軍に、デモ隊の排除を命令した。マッカーサーはジョージ・
パットン少佐が指揮する歩兵、騎兵、機械化部隊合計1,000名の
部隊を投入し、非武装で無抵抗の退役軍人らを追い散らしたが、
副官のアイゼンハワーらの忠告も聞かず、フーヴァーからの命令
に反し、アナコスティア川を渡河して退役軍人らのテント村を
焼き払い、退役軍人らに数名の死者と多数の負傷者を生じさせた


この「ボーナスアーミー事件」が大統領フーヴァー再選の足かせ
となってしまった。

ウィキペディアでこれほど面白い記事を読んだのは、初めてで
まるで小説を読んでいる感覚になった。

「マッカーサー」については割愛しますので、ご了承ください。

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