非才無才の雄叫び

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「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽23

2020-10-22 20:43:48 | 日記
続きです。

クレーギー駐日イギリス大使
「もし、暫定協定案について何らかの妥協が成立し、三ヵ月間の
猶予期間が得られたとするならば、季節風の条件で日本軍のマレ
ー上陸作戦は困難になっただろう。また独ソ戦の様相も変化する。
対独潜水艦戦の成功といった新しい要素も加わり、日本政府が
対米戦の決断に達することは極めて困難になるだろう」
(1942年2月4日付チャーチル英首相宛の報告書において)。

ハル・ノートの一節だ。

藤井君
先のブログで触れた「天皇陛下のアメリカへの提案」
上記のイギリス大使のチャーチルへの報告書にヒントを得て
君が創作したのではないか?
「天皇陛下のアメリカへの提案」は、どこを探しても出てこないし
第一、天皇陛下がアメリカの駐日大使に「提案」などするはずが
ない。なぜか。戦前、天皇は「現人神」で声を掛けるのは、せいぜ
い側近の木戸孝一や御前会議に出るわずかな閣僚と統帥部の参謀
総長や軍令部総長、その次官に限られていたはずだ。
とにかくフーヴァーの書籍以外に、その記録があるのなら、別注や
脚注で出典元を明らかにするのがジャーナリストの「義務」だ。
天皇陛下の和平のための提案をも拒否した「悪玉・ルーズベルト」
として印象づけたいのだろうが、小生は一日本人として、天皇陛下
が他国の駐日大使に「提案する」ということは史実であっても書く
にも忍びないものがある。ましてや、これが創作だったら、
どうなるか
根拠のないことで、昭和天皇を、自らの論理の「道具」にしたら、
戦前だったら「不敬罪」で3年以上5年以下の懲役だ。
それと、このやり方は、韓国の「反日」の連中の世論操作をまね
して
、もっともらしい「嘘」を織り交ぜながら、国民を反東京裁
判史観へ誘導しているのではないかという疑いを消せない。
どうするのかね、藤井君


さて、本題に戻ります。
ウィキ「ハル・ノート」
ともかく、ルーズベルトとハルは、両師(神父ら)が私的に日本側
と接触することを容認しつつ、政府としての行動は新任の野村吉三
郎大使着任まで待つこととした(野村の着任は2月11日)。
その背景には、アメリカのアドルフ・ヒトラーの脅威に対する
世界戦略、すなわち大西洋第一主義(ドイツ打倒を優先)・対日
戦回避があり、ルーズベルトもハルも日米会談の門戸を開けて
おくことに異存はなかった。

11月18日夜、野村と来栖はウォーカー郵政長官を訪問。ウォー
カーは大統領及び大多数の閣僚は日米諒解に賛成であること、
本が仏印撤兵など現実の行動で平和的意図を示せば、アメリカの
石油供給もあることを述べたという
。19日には某閣僚の旨を受け
たウォルシュ司教が大使館を訪れ、日本が今日にも仏印撤兵の意
図を表明すれば、ハルは即座に石油輸出を約束し、これをきっか
けに急速に問題を解決したい意向との情報が伝えられた。
またこの日、野村・来栖と会談したハルの対応も好意的だった
という


ところが松岡外相の反対と、日本軍の南部仏印への進駐で状況は
一変する。のちの首相・吉田茂は、やはり正常な人だった。
吉田茂
ハル・ノートについて、「すなわちこれは『試案』であり、『日米
交渉の基礎案』であるといっている。実際の肚の中はともかく外
交文書の上では決して『最後通牒』ではなかった筈だ。私はあら
ためて東郷外務大臣を訪ね、・・・執拗にハル・ノートの右の趣旨
をいって、注意を喚起した」「私は少々乱暴だと思ったが、東郷
君に向かって『君はこのことが聞き入れられなかったら、外務大
臣を辞めるべきだ。君が辞職すれば閣議が停頓するばかりか、
分別な軍部も多少反省するだろう
。それで死んだって男子の本懐
ではないか』とまでいったものだ」と回想している


ところが、この「無分別な軍部」を擁護しているのが、ほかならぬ
藤井氏その人だ。

さて、次の3項目も相変わらずの論調で目新しいものがないので、
少しウィキの抜粋した記事を転記してみます。

「日本の知らない裏側で世界はつながっていた」
「三国同盟締結は、日本を滅ぼす道だった」
「なぜ海軍は三国同盟を防げなかったか」

同盟締結の奏上を受けた昭和天皇は「今しばらく独ソの関係を
見極めた上で締結しても遅くないのではないか」と危惧を表明し
たが、近衛首相は「(ドイツを)信頼致してしかるべし」と奉答
した。天皇は続いて「アメリカと事を構える場合に海軍はどうだ
ろうか。海軍大学の図上演習ではいつも対米戦争は負けると聞い
た」と、戦争による敗北の懸念を伝えたが、近衛は日露戦争の際
に伊藤博文首相が「万一敗北に至れば単身戦場に赴いて討ち死に
する」と語ったことを引き合いに出し、及ばずながら誠心奉公す
ると回答した。・・・昭和天皇は調印三日前に木戸幸一内大臣に、
三国同盟は「日英同盟の時のようにただ慶ぶというのでなく、
万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、
親しく賢所に参拝して報告するとともに、神様のご加護を祈り
たい」と話したという


近衛は、どうして「(ドイツを)信頼致してしかるべし」と奉答
したのだろうか。天皇陛下よりも10歳年上で東大・京大を出た
自負からだろうか、天皇陛下の心中を察することができなかった。
それだけではない。

近衛内閣は
7月7日に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が勃発
した。7月9日に不拡大方針を閣議で確認した。・・・7月11日に
現地の松井太久郎大佐と秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で
停戦協定が締結された。
しかし近衞は蔣介石が4個師団を新たに派遣しているとの報を受
け、同11日午後に・・・内地三個師団を派兵する「北支派兵声明」
を発表する。派兵決定とその公表は進行中の現地における停戦
努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものと
した
。秦郁彦は、「近衛内閣が自発的に展開したパフォーマン
スは、国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られても
しかたのないものであった」としている


また「その後の特別議会で近衞は「事件不拡大」を唱え続けた。
しかし7月17日には1,000万円余の予備費支出を閣議決定。7月
26日には、陸軍が要求していないにもかかわらず、9,700万円
余の第一次北支事変費予算案を閣議決定
し、7月31日には4億
円超の第二次北支事変費予算を追加するなど、不拡大とは反対
の方向に指導した
。陸軍参謀本部作戦部長の石原莞爾は風見章
を通じて、日中首脳会談を近衞に提案したが、広田弘毅が熱意
を示さず、最後のところで決断できなかった。この状況を憂慮
した石原は7月18日に杉山元に意見具申し、「このまま日中戦
争に突入すれば、その結果はあたかもスペイン戦争でのナポレ
オン同様、底無し沼にはまることになる。この際、思いきって
北支にある日本軍全体を一挙に山海関の満支国境まで引き下げる。
近衛首相が自ら南京に飛び蔣介石と膝詰めで談判する」という
提案をした。同席した陸軍次官・梅津美治郎は、「そうしたいが、
近衛首相の自信は確かめてあるのか」と聞き、杉山も「近衛首相
にはその気迫はあるまい」と述べた。実際、風見によれば、近衞
は陸軍が和平で一本化するかどうか自信がなく、せっかくの首脳
会談構想を断念したと言われている。当初、近衞は首脳会談に
大変乗り気になり、南京行きを決意して飛行機まで手配したが、
直前になり心変わりし蔣介石との首脳会談を取り消した。石原は
激怒し「二千年にも及ぶ皇恩を辱うして、この危機に優柔不断
では、日本を滅ぼす者は近衛である」と叫んだ


近衛という人は、現在の旧民主党の鳩山元首相のような人だった
のかもしれない。言うこととやることがチグハグで、おまけに
近衛は統帥部の軍の英傑・石原莞爾の意見を生かすことができず、
日中の戦局は石原莞爾の指摘のとおり泥沼化していった。

また三国同盟も
9月26日の枢密院では深井英五顧問官は「条約の前文には、
万邦をしてその所を得しむとあるが、ヒットラーは嘗て『他の
民族に対し弱肉強食は天地の公道なり』と揚言しており、思想
観念が相反するではないか」と述べ、石塚英蔵顧問官は「ドイ
ツ国との条約は過去の経験上、十全を期し難し、政府は如何に
して彼の誠意を期待し得るか」と警告し、石井菊次郎は「由来、
ドイツと結んで利益を受けた国はない。…ヒットラーも危険少
なからぬ人物である。わが国と防共協定を結んでおきながら、
それと明らかに矛盾する独ソ不可侵条約を結んだ…」と述べた。
しかし結果的には承認された


このような意見があったにも関わらず、三国同盟が十分な議論
も経ずして締結された。




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