「イギリスは、伝統的な外交政策バランス・オブ・パワーに徹す
べきだった」
イギリスのかっての外交政策「バランス・オブ・パワー」をなぜ
この終盤に持ち出してきたのか、藤井氏の意図を図りかねる。
第一次世界大戦の経緯を踏まえて、世界平和維持のために国際
連盟が設立されたので、イギリスのそれまでの外交基本政策「バ
ランス・オブ・パワー」は役目を終えたはずだ。集団で世界平和
を目指す時代になった。
web記事
「第一次世界大戦中の1918年1月8日、アメリカ合衆国大統領ウッ
ドロウ・ウィルソンは「十四か条の平和原則」を発表し、その第
14条「国際平和機構の設立」において、国際的平和維持機構の設
立を呼びかけた。・・・・これらの条約批准によって連盟は成立し
た。原加盟国は42カ国で、イギリス・フランス・大日本帝国・イ
タリアといった列強が、常設理事会の常任理事国となり、1926年
にはドイツ国(当時ヴァイマル共和政)、1934年にはソビエト社
会主義共和国連邦も加盟と同時に常任理事国となり、加盟国数が
60カ国に達したが、以降は脱退・除名等で加盟国が減少に転じて
いる。
・・・国際連盟規約第10条及び16条で規定された『戦争を行った
国家は、ほかの連盟国全てに戦争行為をしたとみなし、当該国と
の通商、金融、交通を禁じ、連盟理事会の決定に従わなかった場
合、連盟国に制裁として軍事行動を義務付ける』という条文・・」
こういうことを藤井氏は知らないはずはないのに、敢えて嘘を書
くのは、どういう意図があってのことか。
この後の論理の展開のために「必要」と感じてのことだろうが、
読者を、どこまで愚弄する気だ?
そして次の「日本は大局観に基づく知恵をもっていたか」
「シナ大陸まで出かけて行ってシナ大陸を全部制覇しようなんて
いうことは、日本の国力を考えてみたらとても無理な話なのです。
…・それをそのまま、放っておけばよかったのです」
そして後半にも「・・・日本が介入したものだから・・・」
つまり「放っておかなくて、シナ大陸を全部制覇しようとしてい
た」「・・・日本が介入したものだから・・・」ということで、
図らずも第2章「日米戦争を起こしたのは誰か」で、フーヴァーの
主張を紹介し藤井氏自らも支持した「(日本の)自衛のための戦争
だった」ことを否定している。
「日本人は親切だから、朝鮮を立派な国にしようとかチャイナも
ちゃんとした国にしてやろうなんて思うから、かえってとんでも
ない結果になってしまいます」
こういう幼稚なレトリックを使って、大東亜共栄圏構想を正当化
しようと目論んでいるのだろうが笑止千万。
ところがwebの大東亜共栄圏構想は、戦争遂行のための大義名分で
しかなかったとしている。
「日本政府の意図としては、大東亜共栄圏はあくまで日本が戦争を
遂行するためのものであった。また、当時の日本の知識人も「大東
亜の民族解放は民族皇化運動である」、「大東亜共栄圏の構想に於
いては、個別国家の観念は許されるべきではない」などと明言して
おり、大日本帝国を頂点としたヒエラルキー構造にアジア各国を組
み込んでいく構想だったことが伺える」
次の「第二次世界大戦は、世界の構図をどう変えたか」
「あまりに大きかったイギリスの勝利の代償」
本旨「太平洋戦争の大嘘」
そして第3章「原爆を落とす必要があったのか」のテーマとは、随分
とかけ離れた記述で蛇足そのものだ。
曰く
「大英帝国の崩壊に最も影響を持ったのは、大日本帝国です。第二
次世界大戦中の日本の軍事行動は、アジア諸国に独立の機運と機会
を与えるものとなりました。戦後、イギリスは植民地を維持するこ
とができなくなり、植民地の大半を失うのです」
ネットを調べてみると、大英帝国のアジアの植民地は、インド(歴史
的にはイギリス領・インド帝国)、ビルマ(現ミャンマー)、現在の
マレーシア・シンガポール、そして香港。
まずビルマ
「1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に
戦いイギリス軍を駆逐し、1943年に日本の後押しでバー・モウを
元首とするビルマ国が建国された。
しかし1944年の独立一周年記念の席上でアウンサンは「ビルマの
独立はまやかしだ」と発言。 1944年のインパール作戦の失敗など
日本の敗色が濃厚と見るや、1944年8月に秘密会議で反ファシスト
人民自由連盟(AFPFL、1945年-1962年)が結成され、Thakin S
oe率いるビルマ共産党、アウンサン率いるビルマ国民軍、ウー・
ヌ率いるが三派合同した。1945年3月27日、アウンサンが指揮す
るビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対し
てクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。連合国軍がビル
マを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本軍に勝利
したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。
1948年にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立。ミャン
マー国軍については、1945年3月27日のビルマ国および日本への
蜂起をもって建軍とし、この日をミャンマー国軍記念日としてい
る」
そして海峡植民地(現マレーシア・シンガポール)
「海峡植民地は、1870年代より英領マラヤの中核としての役割を
果たし続けたが、第二次世界大戦中に日本軍による占領をうけた
後、戦後の英領マラヤ再編に伴って1946年に解体した。マラヤ連
邦の成立とともに、ペナンとマラッカは同連邦に吸収され、シン
ガポールは独立のクラウン・コロニー(英国王直轄地)となった」
そしてインド
「第二次世界大戦初期、イギリスはインドを懐柔することにより
戦争の協力を、インドはイギリスからできるだけ有利な条件を引
き出すことを念頭においていた。しかし、ドイツ軍によるイギリ
ス本土上陸が危惧されるなど、緊迫する戦争情勢がイギリスの大
幅な妥協を用意せざるをえないようになった。1942年4月にロン
ドンから空路でデリーにスタッフォード・クリップスが派遣され
た。しかし、首相ウィンストン・チャーチルがイギリス帝国の解
体を望まないこともあり、成果を上げなかった」
「さらに1941年12月にマレー半島に進軍した日本軍が、早くも
1942年2月にイギリスの極東における植民地の要のシンガポール
を陥落し、さらにインド洋からイギリス海軍を放逐しインドに迫
ったことで、アジアにおけるイギリスの軍事的威信は完全に失墜
し、インドでも反英運動の機運が高まった。国民会議は1942年夏
から反英闘争「インドから去れ運動」を展開することで、インド
独立を目指した」
「なお、アジア太平洋戦線においてイギリスと対峙していた日本
と、元インド国民会議の急進派の活動家で、日本に亡命していた
ラース・ビハーリー・ボースが、同じく日本に亡命していたA.M.
ナイルや、日本軍らの協力を受けて東南アジア各地で日本軍の捕
虜となったイギリス軍のインド人兵士を集めて、1942年にインド
国民軍を設立した」
このように日本軍の影響は大きなものがあったが、イギリス帝国
の衰退は、1926年、アイルランドと南アフリカ連邦の独立が端緒
となり、新しい帝国の在り方を模索することになったようだ。
「第一次世界大戦後、イギリスの国力退潮が鮮明となると帝国の
支配体制は揺らぎはじめ、それにともない各ドミニオンはさらに
独立傾向を強めていき、1926年の帝国会議では特に反英感情に強
かったアイルランド自由国とアフリカーナー主体の南アフリカ連
邦がついに帝国離脱を要求。これをうけて、イギリス本国と各ド
ミニオンとが対等であるとするバルフォア報告書が作成され、こ
れを土台とした新しい帝国の在り方を規定する憲章が制定される
こととなった。こうして制定されたのがウェストミンスター憲章
である」
ところが藤井氏は尚も
「チャーチルはドイツと戦うために、アメリカを参戦させ、日本
を巻き込んだ形になりました。結局、日本がアジアの植民地解放
をやらざるを得ない立場になって、実際にやってしまったわけで
す。いわば大日本帝国が崩壊する時、大英帝国をも抱き合い心中
で滅ぼしてしまったようなものです。それもこれも、チャーチル
とルーズベルトが日本を経済封鎖で追い込み、開戦させたことが
始まりでした」と、すべてチャーチルとルーズベルトの責任にし
ていて、日本に非がないかのごとき記述。そして書くことに事欠
いて「チャーチルというのは、バカな奴だと私は思います。これ
は日本をいじめた報いではないでしょうか」
「バカな奴」とまでチャーチルを侮辱して何の意味があるか?
ただ藤井氏自身の品性のなさをさらけ出したようなものだ。
今次の上皇の耳に入ったら、さぞかし心を痛められるだろう。
明仁上皇の皇太子時代のweb記事
「1953年にエリザベス2世女王の戴冠式に出席するため、イギリ
ス同様の君主国である日本から皇室の代表として皇太子明仁親王
(後の明仁上皇)が昭和天皇の名代として訪英した。だが当時イ
ギリスでは反日感情が強く、アジア・太平洋戦線において日本軍
に虐待されたイギリス軍捕虜の体験を描いた出版物はベストセラ
ーとなったほか、反日映画は高い興行収入を挙げ、メディアでは
反日姿勢の報道が連発し、在留邦人はイギリス人から嫌がらせを
受けるという有り様だった。チャーチルは日英関係改善のため、
明仁親王の身の安全などに関して非常に気を遣った。明仁親王の
ための午餐会には、当時日本批判の先頭に立っていた新聞業界人
を招待し、首相自らが日本の皇太子を大切な賓客として鄭重にも
てなすことを眼前に披露し理解を深めてもらうことで、これらの
新聞による反日論調を押さえようとした。席上チャーチルは日英
両国は立憲君主制という共通の紐帯を持っているとして立憲君主
制の重要性を論じた」
そして、大日本帝国は敗戦で消滅したが、大英帝国は消滅しても、
イギリス連邦として形を変えて存在している。
「コモンウェルス・オブ・ネイションズは、一般的にコモンウェ
ルスと呼ばれ、大英帝国のほぼすべての旧領土である54の加盟国
からなる政治連合である。この組織の主な機関は、政府間の関係
に焦点を当てたコモンウェルス事務局と、加盟国間の非政府関係
に焦点を当てたコモンウェルス基金である」
「コモンウェルスの歴史は20世紀前半にさかのぼり、大英帝国の
脱植民地化に伴い、領土の自治が強化されたことで始まった。も
ともとは、1926年の帝国会議でのバルフォア宣言によってイギリ
ス連邦として設立され、1931年にはウェストミンスター憲章によ
ってイギリスによって正式に制定された。現在のコモンウェルス
は、1949年のロンドン宣言によって正式に構成され、共同体を近
代化し、加盟国を「自由で平等」なものとして確立した」
藤井君
「反東京裁判史観」のためには
なりふり構わぬ姿勢だな
捏造あり
歪曲あり
創作ありか
恥を知れっ
べきだった」
イギリスのかっての外交政策「バランス・オブ・パワー」をなぜ
この終盤に持ち出してきたのか、藤井氏の意図を図りかねる。
第一次世界大戦の経緯を踏まえて、世界平和維持のために国際
連盟が設立されたので、イギリスのそれまでの外交基本政策「バ
ランス・オブ・パワー」は役目を終えたはずだ。集団で世界平和
を目指す時代になった。
web記事
「第一次世界大戦中の1918年1月8日、アメリカ合衆国大統領ウッ
ドロウ・ウィルソンは「十四か条の平和原則」を発表し、その第
14条「国際平和機構の設立」において、国際的平和維持機構の設
立を呼びかけた。・・・・これらの条約批准によって連盟は成立し
た。原加盟国は42カ国で、イギリス・フランス・大日本帝国・イ
タリアといった列強が、常設理事会の常任理事国となり、1926年
にはドイツ国(当時ヴァイマル共和政)、1934年にはソビエト社
会主義共和国連邦も加盟と同時に常任理事国となり、加盟国数が
60カ国に達したが、以降は脱退・除名等で加盟国が減少に転じて
いる。
・・・国際連盟規約第10条及び16条で規定された『戦争を行った
国家は、ほかの連盟国全てに戦争行為をしたとみなし、当該国と
の通商、金融、交通を禁じ、連盟理事会の決定に従わなかった場
合、連盟国に制裁として軍事行動を義務付ける』という条文・・」
こういうことを藤井氏は知らないはずはないのに、敢えて嘘を書
くのは、どういう意図があってのことか。
この後の論理の展開のために「必要」と感じてのことだろうが、
読者を、どこまで愚弄する気だ?
そして次の「日本は大局観に基づく知恵をもっていたか」
「シナ大陸まで出かけて行ってシナ大陸を全部制覇しようなんて
いうことは、日本の国力を考えてみたらとても無理な話なのです。
…・それをそのまま、放っておけばよかったのです」
そして後半にも「・・・日本が介入したものだから・・・」
つまり「放っておかなくて、シナ大陸を全部制覇しようとしてい
た」「・・・日本が介入したものだから・・・」ということで、
図らずも第2章「日米戦争を起こしたのは誰か」で、フーヴァーの
主張を紹介し藤井氏自らも支持した「(日本の)自衛のための戦争
だった」ことを否定している。
「日本人は親切だから、朝鮮を立派な国にしようとかチャイナも
ちゃんとした国にしてやろうなんて思うから、かえってとんでも
ない結果になってしまいます」
こういう幼稚なレトリックを使って、大東亜共栄圏構想を正当化
しようと目論んでいるのだろうが笑止千万。
ところがwebの大東亜共栄圏構想は、戦争遂行のための大義名分で
しかなかったとしている。
「日本政府の意図としては、大東亜共栄圏はあくまで日本が戦争を
遂行するためのものであった。また、当時の日本の知識人も「大東
亜の民族解放は民族皇化運動である」、「大東亜共栄圏の構想に於
いては、個別国家の観念は許されるべきではない」などと明言して
おり、大日本帝国を頂点としたヒエラルキー構造にアジア各国を組
み込んでいく構想だったことが伺える」
次の「第二次世界大戦は、世界の構図をどう変えたか」
「あまりに大きかったイギリスの勝利の代償」
本旨「太平洋戦争の大嘘」
そして第3章「原爆を落とす必要があったのか」のテーマとは、随分
とかけ離れた記述で蛇足そのものだ。
曰く
「大英帝国の崩壊に最も影響を持ったのは、大日本帝国です。第二
次世界大戦中の日本の軍事行動は、アジア諸国に独立の機運と機会
を与えるものとなりました。戦後、イギリスは植民地を維持するこ
とができなくなり、植民地の大半を失うのです」
ネットを調べてみると、大英帝国のアジアの植民地は、インド(歴史
的にはイギリス領・インド帝国)、ビルマ(現ミャンマー)、現在の
マレーシア・シンガポール、そして香港。
まずビルマ
「1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に
戦いイギリス軍を駆逐し、1943年に日本の後押しでバー・モウを
元首とするビルマ国が建国された。
しかし1944年の独立一周年記念の席上でアウンサンは「ビルマの
独立はまやかしだ」と発言。 1944年のインパール作戦の失敗など
日本の敗色が濃厚と見るや、1944年8月に秘密会議で反ファシスト
人民自由連盟(AFPFL、1945年-1962年)が結成され、Thakin S
oe率いるビルマ共産党、アウンサン率いるビルマ国民軍、ウー・
ヌ率いるが三派合同した。1945年3月27日、アウンサンが指揮す
るビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対し
てクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。連合国軍がビル
マを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本軍に勝利
したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。
1948年にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立。ミャン
マー国軍については、1945年3月27日のビルマ国および日本への
蜂起をもって建軍とし、この日をミャンマー国軍記念日としてい
る」
そして海峡植民地(現マレーシア・シンガポール)
「海峡植民地は、1870年代より英領マラヤの中核としての役割を
果たし続けたが、第二次世界大戦中に日本軍による占領をうけた
後、戦後の英領マラヤ再編に伴って1946年に解体した。マラヤ連
邦の成立とともに、ペナンとマラッカは同連邦に吸収され、シン
ガポールは独立のクラウン・コロニー(英国王直轄地)となった」
そしてインド
「第二次世界大戦初期、イギリスはインドを懐柔することにより
戦争の協力を、インドはイギリスからできるだけ有利な条件を引
き出すことを念頭においていた。しかし、ドイツ軍によるイギリ
ス本土上陸が危惧されるなど、緊迫する戦争情勢がイギリスの大
幅な妥協を用意せざるをえないようになった。1942年4月にロン
ドンから空路でデリーにスタッフォード・クリップスが派遣され
た。しかし、首相ウィンストン・チャーチルがイギリス帝国の解
体を望まないこともあり、成果を上げなかった」
「さらに1941年12月にマレー半島に進軍した日本軍が、早くも
1942年2月にイギリスの極東における植民地の要のシンガポール
を陥落し、さらにインド洋からイギリス海軍を放逐しインドに迫
ったことで、アジアにおけるイギリスの軍事的威信は完全に失墜
し、インドでも反英運動の機運が高まった。国民会議は1942年夏
から反英闘争「インドから去れ運動」を展開することで、インド
独立を目指した」
「なお、アジア太平洋戦線においてイギリスと対峙していた日本
と、元インド国民会議の急進派の活動家で、日本に亡命していた
ラース・ビハーリー・ボースが、同じく日本に亡命していたA.M.
ナイルや、日本軍らの協力を受けて東南アジア各地で日本軍の捕
虜となったイギリス軍のインド人兵士を集めて、1942年にインド
国民軍を設立した」
このように日本軍の影響は大きなものがあったが、イギリス帝国
の衰退は、1926年、アイルランドと南アフリカ連邦の独立が端緒
となり、新しい帝国の在り方を模索することになったようだ。
「第一次世界大戦後、イギリスの国力退潮が鮮明となると帝国の
支配体制は揺らぎはじめ、それにともない各ドミニオンはさらに
独立傾向を強めていき、1926年の帝国会議では特に反英感情に強
かったアイルランド自由国とアフリカーナー主体の南アフリカ連
邦がついに帝国離脱を要求。これをうけて、イギリス本国と各ド
ミニオンとが対等であるとするバルフォア報告書が作成され、こ
れを土台とした新しい帝国の在り方を規定する憲章が制定される
こととなった。こうして制定されたのがウェストミンスター憲章
である」
ところが藤井氏は尚も
「チャーチルはドイツと戦うために、アメリカを参戦させ、日本
を巻き込んだ形になりました。結局、日本がアジアの植民地解放
をやらざるを得ない立場になって、実際にやってしまったわけで
す。いわば大日本帝国が崩壊する時、大英帝国をも抱き合い心中
で滅ぼしてしまったようなものです。それもこれも、チャーチル
とルーズベルトが日本を経済封鎖で追い込み、開戦させたことが
始まりでした」と、すべてチャーチルとルーズベルトの責任にし
ていて、日本に非がないかのごとき記述。そして書くことに事欠
いて「チャーチルというのは、バカな奴だと私は思います。これ
は日本をいじめた報いではないでしょうか」
「バカな奴」とまでチャーチルを侮辱して何の意味があるか?
ただ藤井氏自身の品性のなさをさらけ出したようなものだ。
今次の上皇の耳に入ったら、さぞかし心を痛められるだろう。
明仁上皇の皇太子時代のweb記事
「1953年にエリザベス2世女王の戴冠式に出席するため、イギリ
ス同様の君主国である日本から皇室の代表として皇太子明仁親王
(後の明仁上皇)が昭和天皇の名代として訪英した。だが当時イ
ギリスでは反日感情が強く、アジア・太平洋戦線において日本軍
に虐待されたイギリス軍捕虜の体験を描いた出版物はベストセラ
ーとなったほか、反日映画は高い興行収入を挙げ、メディアでは
反日姿勢の報道が連発し、在留邦人はイギリス人から嫌がらせを
受けるという有り様だった。チャーチルは日英関係改善のため、
明仁親王の身の安全などに関して非常に気を遣った。明仁親王の
ための午餐会には、当時日本批判の先頭に立っていた新聞業界人
を招待し、首相自らが日本の皇太子を大切な賓客として鄭重にも
てなすことを眼前に披露し理解を深めてもらうことで、これらの
新聞による反日論調を押さえようとした。席上チャーチルは日英
両国は立憲君主制という共通の紐帯を持っているとして立憲君主
制の重要性を論じた」
そして、大日本帝国は敗戦で消滅したが、大英帝国は消滅しても、
イギリス連邦として形を変えて存在している。
「コモンウェルス・オブ・ネイションズは、一般的にコモンウェ
ルスと呼ばれ、大英帝国のほぼすべての旧領土である54の加盟国
からなる政治連合である。この組織の主な機関は、政府間の関係
に焦点を当てたコモンウェルス事務局と、加盟国間の非政府関係
に焦点を当てたコモンウェルス基金である」
「コモンウェルスの歴史は20世紀前半にさかのぼり、大英帝国の
脱植民地化に伴い、領土の自治が強化されたことで始まった。も
ともとは、1926年の帝国会議でのバルフォア宣言によってイギリ
ス連邦として設立され、1931年にはウェストミンスター憲章によ
ってイギリスによって正式に制定された。現在のコモンウェルス
は、1949年のロンドン宣言によって正式に構成され、共同体を近
代化し、加盟国を「自由で平等」なものとして確立した」
藤井君
「反東京裁判史観」のためには
なりふり構わぬ姿勢だな
捏造あり
歪曲あり
創作ありか
恥を知れっ