非才無才の雄叫び

つぶやくこと、叫ぶこと、すべてボケ防止だ!

東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末6

2012-07-15 14:31:20 | 日記
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末5
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末4
大津市の中2の男子生徒の自殺のことで、ようやく警察が
動いて、教育長も関連性をしぶしぶ認めた。世間が騒がないと一時
が万事、この程度なのッ。おかしいでしょッ
 
 話は少し変わるが、読売新聞が日曜日毎に約2ページに亘って掲
載している「書評欄」を当方はいつも心待ちにしている。お目当ての
人がいるからだ。女優の「キョンキョン」こと小泉今日子氏。月に1度
あるかないか、ない時には2~3ヵ月ほど間が開く。そういう時はドラ
マ等できっとお忙しいのだろうと思いながら「書評欄」に眼を通してい
る。先週の日曜日は彼女の名前があった。小泉氏の書評はご自分
の体験を重ね合わせて作品を評される場合が多いようだが、文章
は滑らかでスーと引き込まれるように読み進めてしまい、最後には必
ずといっていいほど「なるほど」と合点させられる。小説も書いておら
れるのではないかと思うほどの文達である。相当の読書量と若い頃
からの読後感を書く習慣があるのではないかと思う。かといって彼
女の出演したドラマを見たことはない。テレビのコマーシャルの溌剌
とした姿を時折、見かける程度だが、つい氏の「書評」と重ね合わせ
て彼女に微笑んでしまう。
 人を比較することはあまり良いこととは思わないが、ついつい比較
してしまう。女優と「職業作家」である曽野綾子氏を比較すると曽野
氏のプライドを傷つけてしまうが、弱者に対して執拗に攻撃を繰り返
す以上止むをえない。「会えなかった恩人たち」ほどのコラムであれ
ば全く遜色もないし問題もないが、このレポートのように論理性を要
するものには辟易する。文章の良し悪しだけではない。先の当ブロ
グでも述べたが曾野綾子氏の、氏の世代の責任には一切触れずに
現象だけを追求していく姿勢こそ問題だ。次の記述は正にその通り。
実に教育を骨抜きにしたのは、皮肉にも戦後日本の幸運と政治
の成功
にありました。現在の日本に、望ましくない要素が多くある
ことは事実です。それにもかかわらず日本は今なお、世界で「夢の
お国」です。
1) 清潔な水が飲める。
2) 餓死するような人も、乞食も、行き倒れも(例外的にしか)い
  ない。つまり社会保障の制度があ る。
3) 医療は誰にでも比較的すみやかに受けられる。
4) 弱者の悪口は言えないが、強者の悪口は言える。
5) ほとんどの人が雨の漏らない、電気、水道、暖房、浴室、炊事
  場などが屋内にある家に住み、テレ ビや電話などを使える。
6) 行きたいところに行くことができ、親の出身が何であろうと、
子供は自分の才能次第で、いかなる 職や地位に就くこともできる。
7) 誰もが税金を納めている。
8) すべての不正な人は、(地位や財力に関係なく)罰される。
9) 誰もが教育を受けられる。
10) 条件をやかましく言わなければ、働くところがある。
11) 血を流すような内乱や部族の抗争がない
。」
という記述で、曽野氏はこのレポートの冒頭部分に戻ってしまうと
いう離れ業をやってのける。いや戻ってしまったのではないかと思
われる。レポートの冒頭部分では「戦後の教育の荒廃」としている
が、ここでは、「教育を骨抜き」と表現している。別の意味合いなの
か同じ意味合いのか不明だが、曽野氏はご自分だけが納得して、
読む者の理解を得にくい記述を時折なさるので、注意が必要だ。
例えば先のブログでも取り上げた「近年落ち込んでいるといわれる
日本の凋落
」の記述もその一つだ。なんとなく云わんとすることは
理解できそうだが、丹念に読むと、はたと立ち止まってしまう。「教
育を骨抜きにした」という記述もその一つ。もちろんここでは「日本
家庭教育及び学校教育を骨抜きにした」と仰りたいのだろうが
「教育」という概念を単一の目的語として「骨抜き」という文言を使
うのは、果たして適当だろうか。「教育」という概念には、いくつか
の定義があるので「骨抜き」という文言を用いるのは不適当では
ないか。通常「戦後の教育の荒廃が日本人を骨抜きにした」とは
言うし、「教育基本法」という確定された内容を持つ言葉であれば
「骨抜き」という言葉は文章として的確で有効な表現だと思ってい
るが、この「教育を骨抜きにした」は果たしていかがなものか。
当方がなぜ、ここまで執拗に攻めるか?それはいわずもがなで、曽
野氏が「職業作家」であり「文化功労者」でありながら、弱者に「
えるな、甘やかすな
」と辛辣だからだ。これがブロガーだったら何
も問題にすることはない。前にも述べたようにこの種のレポートの
表現は厳密で的確でなければならない。引き続き逆らって述べると
曽野氏の言を借りれば「教育を骨抜き」にした「戦後日本の幸運
と政治の成功
」。「日本の幸運」というのは朝鮮戦争によって日本
の産業が活性化し、いち早い復興をとげ政治の力も相俟って経済
の高度成長を成し遂げたことを指しているのだろうが、そうなる
とレポートの冒頭部分「戦後の教育の荒廃は、・・・・その原因は、
長い年月、民主主義の名を借りた安易な『自由放任』の姿勢にあ
りました
」という記述との整合性はどうなるのだろうか。つまりはこ
れも「戦後日本の幸運と政治の成功」がもたらしたものなのだろ
うか。であるならば「戦後の教育の荒廃は『戦後日本の幸運と政
治の成功』によって教育が骨抜きにされた」ことに加え「長い年月、
民主主義の名を借りた安易な『自由放任』の姿勢
によるものだ」と
いう表現をなぜ冒頭の部分で記述しなかったのだろうか。要は曾
野氏は書きたいことが多すぎて結局まとまりに欠けるレポートに
なってしまうようだ。更に「戦後日本の幸運と政治の成功」によって
日本は今なお、世界で『夢のお国』です」と記述した後に列記され
た11項目の内容は曾野氏の唱える安心病節とは相容れないもの
ばかりだ。「政治家も公務員も『国民の皆さんが安心して暮らせる
社会』などというものを約束して平気でした。今回の選挙でも津々
浦々で、立候補者がこの手の見え透いた嘘の表現をつき続けて
いることでしょう。しかし現世には、安心して暮らせる場所も時間も
どこにもありません。そういうものをあると信じ、要求し、約束する
人々の精神からは、真の教育は生まれるわけがありません
」と記
述しながら、ここに列記されたものは曾野氏の言う「夢のお国」の
状況で後進国よりも少なくとも「安心して暮らせる社会」の状況だ。
日本の政治家たちは「安心できる社会を約束」して、一定程度成
功させてきたということではないか。「現世には、安心して暮らせる
場所も時間もどこにもありません
」という言説とは明らかに矛盾す
るが曾野氏はどう言い繕うつもりだ。加えて「2) 餓死するような人
も、乞食も、行き倒れも(例外的にしか)いない。つまり社会保障
の制度がある。
」このように弱者に対する大雑把で調査もしない記
述の姿勢こそが、曾野綾子氏の本質を表しており、その後の弱者
攻撃に拍車を駆ける元になっている。(例外的にしか)いないどこ
ろか、曾野氏のレポートの3年前の1997年の調査では無縁死、孤
独死、行き倒れが年間約3万2千人だったとある。「行旅死亡人法
」という法律があって、それに基づく集計らしい。また乞食は差別用
語で軽犯罪法の対象なので今はホームレスしかいないが、これも
年間2万人に近いのだ。曾野綾子氏は弱者に関心がないから調査
もしないで記述するという寓を犯す。嘆かわしい限りだ。次も
4) 弱者の悪口は言えないが、強者の悪口は言える」と記述した
にもかかわらず、その後、弱者に対する曾野氏の攻撃が熾烈を極
めたのはなぜだ。これも、曽野氏の性格に由来すると思われる。そ
して、この11項目は曽野氏が「今までに108カ国を歩いた私の、それ
が実感です
」と日本の表層だけをみて深層を見極めることの出来な
い自らの浅薄さを露呈し、図らずも「安心できる社会」の特徴を列記
したことになった。
 続けて曰く「それにもかかわらず、日本は悪い国だ、という人がい
て、殊にマスコミがそうした空気を後押ししまし た。私たちはもっと子
供たちに厳しい現実を教えるべきでありました
」。「日本は悪い国だ、
という人がいて
」誰がそんなことを言っているのだと問いただしたくな
るではないか。再三述べているが、とりわけレポートは傍証を与えな
がら記述するのが当然の作業なのに曾野氏はそれも知らないのか?
マスコミがそうした空気を後押ししました」。どのメディアがいつ、ど
こでどのように報道したのか?これらを正確に記述した上で「子供た
ちに厳しい現実を教えるべきでありました
」でなければなるまい。い
ずれにしても「夢のお国」というアフリカに軸足を置いた視点で
なければ子供たちに厳しい現実を教えることができないのだろうか。
そして、そのような厳しい現実を教えなければ子供たちは自らの教
育を責任もって行なうことができないのだろうか?更にまた親や周り
の社会も曾野氏の言う「夢のお国」の現実を認識しなければ教育に
は責任をもてないのだろうか。先の数値目標を挙げた曽野氏の珍
説「教育責任論」からの論旨の流れを当方は、このように理解する
がいかがであろうか。
 しかし、「夢のお国」という認識を根拠とした「教育責任論」で果た
して健全な子供は育つのだろうかという疑問をどうしても払拭できな
い。なぜなら「夢のお国」の認識を根拠とした曽野綾子氏は「安心
」節を唱えながら、弱者への攻撃を熾烈に行なっているからだ。
もしも曽野氏の薫陶を受けた子供たちが現れたら、曽野氏を習っ
て弱者への攻撃的性格を形成するのではないかと思うと身の毛
がよだつ。

曾野綾子氏よ
教育の責任の12.5%から25%が
社会にあると言ったからには
自らの責任を棚上げにすることは
許されない。
なぜ、自らの責任に言及しない。

子供たちのいじめは
大人社会の縮図だ。
大人が弱者を攻撃し、いじめている。
子供たちは、それを真似ているだけ。
曾野氏よ
いじめている子供たちは、
あなたの真似をしているのだ。
責任をとれッ
・・・・だそうです。


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東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末5

2012-07-06 19:40:02 | 日記
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末4
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末3
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末2
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末1
大津市の中2の男子生徒が自殺したのは「自殺の練習をさ
せられていた」ことを教師は見て見ぬふりをしていたなんて、あまり
にも酷すぎる。教師も学校も教育委員会も腐ってるわよッ
 
 レポートなのに論点がなく、それぞれの話に結論めいた記述もな
いので、話は移ろっていくという感を否めない。先の当ブログの
「粗末4」の最後の部分。
戦後の教育は時には道徳に反することまで許しましたから、若者た
ちは、心身の飽食と放縦の中で、みずからの責任において選ぶこと
の方途も意味も見失ったのです。足りない時にこそ、人はどう して
も手に入れたいものを明確に発見するものです
。」に続くのがこれだ。
そもそも教育は誰が行うかという点に注目しましょう。『教師は労働
者である』と自ら宣言するような 教師などに、教育ができるわけはあ
りません。その時点で自ら思考する能力のある教師たちは、自分の
使命と尊厳にかけて反対する戦いを始めるべきでした
。」という具合
に話は転じてしまう。曽野氏の文章を読むには「これが当たり前」と
いう認識がないと読了は覚束なくなる。で、ここにある「『教師は労働
者である』と自ら宣言するような 教師などに、教育ができるわけはあ
りません
」の中の「教師は労働者である」の文言をネットで調べると
日教組の倫理綱領の中の一文だった。あるネットの記事を転載する。
日教組第九回大会でうちだした「教師の倫理綱領」は、つぎの十項
目で成っている。
一、教師は日本社会の課題にこたえて青少年とともに生きる。
二、教師は教育の機会均等のためにたたかう。
三、教師は平和を守る。
四、教師は科学的真理に立って行動する。
五、教師は教育の自由の侵害を許さない。
六、教師は正しい政治を求める。
七、教師は親たちとともに社会の頽廃とたたかい、新しい文化をつくる。
八、教師は労働者である
九、教師は生活権を守る。
十、教師は団結する。
 これに前文があり、各項目ごとに短いコメントが付せられた形で
「教師の倫理綱領」という文書は構成されている。
「倫理綱領」を制定した第九回大会は一九五二年六月にひらかれた

曽野氏の論調は保守論壇の論調そのものだが、ここでも主張する論拠
は示されてはいない。曽野綾子氏を「保守の論客」と呼ぶ人がいるが
曽野氏は論客などではない。論客とは論理的な記述を行い、論理的に
鋭くディベイトを行なう人のことだ。保守論壇の中で論客といえば女性
では櫻井よし子氏が正にそうだ。ハワイ大学卒のようだが慶応を中退
した経歴の持ち主で、その鋭い舌鋒もさることながら論説の筆力は
相当なもののようで、当方など付け入る隙もない。それが論客だ。
もっとも何にでも口を出す人を「論客」と言うならば曽野氏もその一人
ではあろう。さて、話を元に戻すが「教師は労働者であると自ら宣言
するような教師などに、教育ができるわけはありません
」という論拠は
何か、曽野氏は示す必要がある。教師は「聖職者」で「労働者」ではな
いないと主張しても論拠は必要だ。ところが曽野氏はこの重要な問題
を論点にする気はさらさらない。なぜなら後述する曽野氏の記述は、
この後、続けて「過去にこだわるのはやめにしますと」となって肩透かし
を食らわすからだ。ただ記述の内容と日教組の倫理綱領の当該事項が
現存し教育基本法にも「教員」を規定した部分があり曽野氏が言及した
以上、曽野氏の意思とは関わりなく避けては通れない論点である。
 そこで当方は教師の労働組合が世界にはどの程度あるかネットを調
べてみた。ネットを見る限り教師の労働組合のある国はアメリカをはじ
め先進国といわれる国やフィンランド等、北欧の高福祉国家にもある。
それらの国々の労働組合と日教組とどう違うのだろうか?当然こういう
疑問が湧いてくる。ネットで探しているうちに、教育大国といわれるフ
ィンランドについて記述したあるブログを発見した。
浅野誠氏の「田舎暮らし 人生創造」というブログ。浅野氏は琉球大学、
沖縄大学で教鞭をとってこられた方でブログの記事は多岐に亘ってい
て学者らしいブログだ。フィンランドの部分の一部を以下に転載させ
て頂く。

教職員組合でのインタビュー フィンランド調査12 
インタビューに応じて下さったのは、ポリテクや職業高校で働いてき
て、現在組合の特別アドバイザーの任にある方。職業関連の学校に詳
しい方だ。
 組合加入率が低く、かついくつもの組織にわかれている日本の様子
とは随分異なる事情にある。そのいくつかの特徴を書く。
1)組織名は、Trade Union of Education in Finland 略称は、OAJ
2)フィンランドの95%以上の教員が加入している。組合員数は約
12万人。うち女性が74%. 幼稚園教員や大学教員も加入している。
3)teacher student(教員学生)たちの組織 Finnish Teacher
Student Association も加入している。約7000人が加入。教員養成課
程にある学生のことを指しているようだが、詳細はつかめていない。
「教員訓練を発展させるだけでなく、教員学生の地位や研究学習条件
を保障することを目的にしている。」
4)veteran teacher と呼ばれる退職教員も、約18000人加入
している。
6)どの政党ともリンクはしていない
9)これは私の推理であるが、教職員組合を含めて労働組合が、資
格取得、職業訓練に強くかかわっている。労働組合の全国組織にし
ても、資格・学歴と深いかかわりをもって組織されている。
 だから、教員養成に教職員組合が深いかかわりをもち、組合のな
かに「教員学生」も多数を組織している


更に文部科学省のホームページの中にフィンランドに関するレポー
トがあった。

教員組合、団体の状況 (文部科学省HPより転載)
フィンランドにおける最大の教職員組合は、教員組合(Trade Un
ion of Education in Finland:OAJ(注133))と呼ばれる団体である。
OAJは主に地方自治体の雇用制度担当組織である地方自治体雇用
者機関との交渉窓口となり、フィンランドにおける教員給与の決定プ
ロセスに関与している。
OAJは1973年12月28日に設立された。2006年1月1日時点の組合員数
は、11万4,983人であり、フィンランド全土の教員の96パーセント以上が
組合員となっている。OAJの主目的は、フィンランドにおける教員の
利益を保護することにあり、教員の給与、労働時間等の諸待遇に関
する交渉を行っている。OAJの意思決定はカウンシルと呼ばれる委員
会で行われ、年に2回カウンシル会議が実施される。OAJの中央事務
局及び11の地方事務局は、組合員に対し以下の福利厚生を提供して
いる
組合員への福利厚生
ア) 給与・待遇に関するアドバイス
(イ) 教員失業支援基金(Teacher's Unemployment Benefit Fund)
    への加盟
(ウ) 各種保険
(エ) Opettaja誌の発行(Opettajaとはフィンランド語で「先生」
    の意味)
(オ) 余暇・リクリエーションのサービス


以上の記事からフィンランドの教員の労働組合は日本と違って組合
大会や集会というのがほとんどなく、執行委員会若しくは組合事務
局が労使交渉の窓口となって、ほとんどの教員は子供の教育に専念
しているのではないかと推察する。更に浅野氏のブログの6の「どの
政党ともリンクはしていない
」というのが日本と全く違うところだ。
日教組の組織率が28.3%と低いものの日本の教員の労働組合は、
関係の濃淡はあっても民主党、社民党、共産党、自民党とリンク若
しくは支配下にある。組合によっては非常にイデオロギーが強い組
織もあるようだ。
更に日本の元教員だった方の質問に関連した2chのレスをまとめたブロ
グ「もと日教組だけど質問ある?BIPブログ」を紹介する。
このレスで告発される日教組の組合員の姿は決して賛同できるもので
はない。待遇改善等は組合員の自分たちがやっているんだという自負
が非組合員に対しては露骨な排他的言動や対応になっているようだ。
このような職場環境では子供の教育などできるのだろうかと心配だ。
子供は大人たちの人間関係や姿勢を鋭い感覚で読み取る。そのことに
教師たちが気づかぬはずがない。従ってそのことに無頓着な教師は真
の教師とはいえまい。フィンランドでも教師は「聖職者」として世の
尊敬を集めるのは、まずその姿勢があるからだろう。子供たちの将来
を左右する立場にある教師は日本でも「聖職者」でなければなるまい。
労働者ではあるが労働環境の改善は執行部や組合事務局任せにして、
すべてを子供に捧げるほどの気持ちが欲しい。授業時間外や学校以
外でも子供のことが頭を離れない教師であって欲しい。それが「聖職
者」と言われる所以ではないかと当方は考える。このことから曾野綾
子氏には「過去のこと」ではなく永遠の課題として再考して頂きたい。
 ここで当方の「教師」に対する過去の経験について記述してお
きたい。それはわが長男が小学5年生の時のことだ。
仕事中に妻から電話があって、学校から帰ってきた息子が吐き気
をもようしているので病院へ連れて行ったという。学校で殴り合
いをして頭を殴られッ放しだったことが原因のようだか、それに
は経緯があって、授業時間中に相手と睨み合いになったところを
教師が咎めて二人を廊下に立たせたようだが、睨み合いの原因は相
手から「お前は○○チャンを好きなんだ」と言って皆の前でからか
われたらしい。それで長男は気が治まらなかったようだ。授業が終
わって、その担任の教師が「けんか両成敗」と言って自身の目の前
で素手で殴り合いをさせたのだが、相手は上背が高く、長男は身長
が低い方だったので一方的に殴られて頭部にダメージを受けたよう
だ。妻は怒りが収まらない口調で担任の教師に抗議をして欲いと言
った。早速、担任へ電話をして、具合が悪くなった息子を受診させ
たことを伝えた後、「睨み合いの原因をお聞きになったのですか」
と尋ねると「いいえ」という返事だ。「原因を確かめないで喧嘩両成敗
ですか?」「申し訳ございません」平謝りだ。畳掛けて「先生、目の前で
子供たちに素手で殴り合いをさせるということは、どういうことですか?」
「申し訳ございません」「殴り合いをさせるにしてもゲーム化できなかっ
たのですか?」「えっ?」「そういうことも解らないのですか?新聞紙を筒状
に丸めて、それぞれにその筒状の新聞紙を持たせて、お互いにその
新聞紙で50回づつおもいっきり殴れと言えば、互いに身体的なダメ
ージを受けることもなくストレス解消にもなる。そして仲直りをさせる」
「はい、お父さんの仰るとおりです。気が付かずに申し訳ございません
でした。」教師はこの程度なのかという情けない思いで一杯だった。
大半の教師がこの程度なのだろう。なぜか?教科を教えるだけで子供
に愛情がないからだ。愛情がないから子供を見ていない、また見詰よ
うとしない。
昨年10月に起きた大津市の中学2年生の男子生徒の自殺も子供に
愛情がないから、いじめを目撃した他の生徒から相談を受けても
「何もしてくれなかった」となり、中2の生徒の自殺を巡って行な
った全校アンケートを市の教育委員会は生徒らに真偽の確認もせず、
従ってアンケートの回答も公表しなかったという。理由は「事実確
認は可能な範囲でしたつもりだが、いじめた側にも人権があり、教
育的配慮が必要と考えた。『自殺の練習』を問いただせば、当事者
の生徒や保護者に『いじめを疑っているのか』と不信感を抱かれる
かもしれない、との判断もあった」といかにも保身的なコメントだ
が「いじめを疑っているのかと不信感を抱かれるかもしれない」な
どと社会では通用しない弁解だ。不信感を抱かせないようにアプロ
ーチをし話を進めるのが教育者なのに、普段はインテリ然としなが
ら、いざとなるとこの体たらくだ。教育関係者が如何に愚鈍な者が
多いかということだ。以上のことからも解るように子供をしっかりと
見詰ながら、そこにおいて知・情・意を行なえば、それぞれの
子供を理解することができ、創意を以って接することもできるは
ずだ。これが教師の「聖職者」たる所以だ
。教師が、あるいは
日教組がこの自覚の基に「労働環境の改善」に取り組んでいれ
ば、世論の激しい批判を浴びることもなかったであろう。
 いかがであろうか。「教師は労働者」という問題は「過去」のことで
はなく現在進行形の重要な論点だ。ところが曽野氏は「過去にこだわ
るのはやめにしますと
」とさらりとやり過ごす。これにはいささか疑念が
残る。頑固一徹の曾野綾子氏がそんな言葉を残して簡単にやり過ご
してしまうのはどうも腑に落ちない。1994年に社会党と自民党の連
立政権で村山内閣が誕生して、翌1995年に日教組は当時の文部省と
の協調路線に転じた。曽野氏はこのことをもって「過去にこだわるのは
やめにしますと
」と記述したかのように受け取れるが、実をいうとそうで
はなかろう。
日教組が提起して文部省(旧)がすでに実施していた「ゆとり教育」を夫・
三浦朱門氏の別の思惑つまりエリートを育てる為の「ゆとり教育」に変
更させる意図があり、それを成就する為には日教組との摩擦を避けた
かった為に「過去にこだわるのはやめにしますと」という記述となったも
のと推察する。曽野氏よ、その通りではないのですか?
 さて、次はいよいよ曽野綾子氏の珍説の出番だ。
過去にこだわるのはやめにしますと、小学校5、6年生に自我ので
きかける年ごろ以上の年齢の子供に は、教育の責任は次のような比
率である、と教えるべきでしょう。
 50パーセント 当人。
 25パーセント 親。
 12.5パーセント 教師。
 12.5パーセント 周辺の一般社会。
つまり『自らの教育を他人任せにするな』ということです
。」
 これでは教育改革国民会議の他の委員たちが唖然としたと思われる。
「教育の責任」を数値で表すこと自体が滑稽なことだからだ。例えば
全体の50%であるこの範囲を責任もって清掃しなさいとか、学習塾の
授業料の50%は自分の責任で稼いででも支払いなさいという物理的な
課題であれば理解できるが、義務教育途上の子供に「自分に対する教
育の責任」を数値で示すことは教育に関する知見を持ち合わせていな
い者のすることだ。高校生くらいになると「半分は自分の責任だ」と
教師や大人たちは説教がましいことを言ったりするが、それは本人の
自主性、主体性を促す為の方便に過ぎない。「教育の責任」という概
念があるにしても、それは数値で表すようなものではなかろう。それ
にしてもナンセンスなのは「25パーセント 親。12.5パーセン
ト 教師。12.5パーセント 周辺の一般社会
。」との曽野氏の記
述。例え高校生に対してもこれを言ってなんになるのか?早熟した子
供たちから失笑を買うようなもので、およそ教育というものを理解し
ていない者の言辞だ。
まして義務教育途上の子供に「自らの教育の責任は本人に50%」あると、
どのようにして教えようというのか。例えば子供が「50%の自分の教育
の責任は果たしたので、後は親や先生や社会の責任だ。」と主張した
ら、曽野氏はどう答えるつもりだろうか。「自らの教育を他人任せに
するな」というのが、この段落の論旨だろうが、そうはいっても親以
外の他人の責任は25%となるが、それをどう教えるつもりか?本当は子
供に関心がないから、こういう記述を平気で行なうのだ。
それより幼い年頃の子供に対する教育の責任は、
 50パーセント 親。
 25パーセント 教師。
 25パーセント その子の身の回りの社会。
 と私は考えています。
 いつの社会でも、どの時代でも、内外のさまざまな理由が、子供の
人生に介入します。人のせいにしていれば、望ましい要素でさえそ
の子を傷つける理由になります
。」この人はどうしてこうも駄文を書く
のか。「人のせいにしていれば」ではなく「これらのことを人のせい
にすることは」でしょうに・・・。この段階になると他人の責任が50%
となる。にもかかわらず、曽野氏自身の責任に言及していないのはな
ぜか。いずれにしてもこういう責任論で子供たちの自主性、主体性、
社会性を育成することは、余計な混乱を招くだけだ。

曽野綾子氏よ
このレポートのていたらくは
国力の低下を目の当たりに
しているようで哀しい。
責任は感じないのですか
・・・・だそうです。


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東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末4

2012-07-01 17:51:32 | 日記
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末6
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末5
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末3
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末2
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末1
つい最近、チャットに夢中になって高熱の一才のわが子を
死なせてしまって警察に逮捕された母親のニュース。どうして赤ん
坊を育児放棄していまうのかしら・・・・。曽野綾子さんのことより、
こっちの方がもっと切実で深刻な問題なのに・・・・。

国家も、社会も、個人も、決して平等ではありません。才能にも健康
にも生まれた環境にも明らかな不平等があります。不平等どころか、
片方は人間で、片方は動物、という階級差が存在する国に、私は度
々行きました。不平不満は地球が存在する限り続くでしょう。その認
識から出発しない限り、人間の平等に向かって一歩一歩進むという
ことはできないことです。この一言も、教師や親は言わずにごまか
して来ました
。」
どうしてこうも記述が前後するのか。最初は「民主主義の名を借りた
云々
」で「民主主義」から入り、次は「人工妊娠中絶」に関する生命論、
そして「言論弾圧」に関連して「言論の自由」に触れ、これも強いて言
えば「民主主義」に関連しての言及なのだろう。そして「安心病節」の
原点。更に「人間が平等であるという理想」に言及するも、すかさず
電気と民主主義とは不可分の関係」と言って再び「民主主義」。こ
れも「平等」ではないということでの言及であろう。そして、次は「
」。これも世界を見る限りは「平等ではない」と仰りたいのであろう。
当方も読みながら順を追って論評しているので、正直、戸惑ってしま
う。そして次がこの冒頭の部分の「平等」となる。ここには従来の曾野
氏の言説からは理解できない記述がある。「その認識から出発しな
い限り人間の平等に向かって一歩一歩進むということはできないこ
とです
」。これほど「平等」に拘るのなら、このレポートの冒頭部分で
「1人の落伍者も出さない」という「平等」の理念を根底にした日教組
の決意を「全体主義」と決め付けて否定したのはなぜか。しかも、曽
野氏と共に「ゆとり教育」を提唱し推進した夫・三浦朱門氏が2000年
7月にジャーナリストの斉藤貴男氏のインタビューに答えた記録は
三浦朱門(教育課程審議会会長)にただでさえ学力低下と懸念され
ているに、なぜ『ゆとり教育(授業数3割削減)』をするのかと質問した
ところ、
『平均学力なんて低い方がいい。日本が平均学力を高水準
に保ったのはできもしない落ちこぼれの尻を叩いた結果だ。その結
果全体の底上げは出来たが、落ちこぼれの手間ひまをかけたせい
でエリートが育たなかった。だから日本はこんな体たらくなんだ。した
がってこれからは、限りなく出来ない非才無才は勉強などできんまま
で結構。勉強などせず実直な精神だけ養ってもらいたい。落ちこぼ
れに金と労働力をつぎ込まず、効率よくエリートさえ育てばいい』
と答
えた。ことの善悪以前に『ゆとり教育』というのはエリートを作り出す
ための『手段』であり、『目的』をネーミングするなら『エリート教育』で
はないか?という質問に三浦は
だってそんなことを言ったら国民は
怒るだろ?だから回りくどく言い換えただけなんだよ
と答えたのだ。」
新自由主義的な発想から「ゆとり教育」の本旨は“100人に2~3人
でもいい、必ずいる筈”のエリートを見つけ伸ばすための「選民教
育」である
ことを明言
(東日本大震災 曽野綾子・三浦朱門夫妻と選民教育思想。)
となっていて夫・三浦朱門氏はエリートを育てる為には「平等」など
不要と唱えているではないか。これは正に自己撞着ということであっ
て、それを平然とやってのける曾野氏の欺瞞体質がここでも明らか
になっているということだ。おまけに、堂々巡りの論理性のない記述
は、ただ思いつくままに書いているだけではないかと評されてもいた
し方あるまい。政府に提出するレポートなのだから、もう少し理路整
然とした記述はできないのか。
「教育基本法について」と題しているのだから、旧法で問題とする
ところの論点をいくつか挙げ、自らの主張を順を追って述べていく。
例えば「民主主義と平等の概念若しくは理念に照らし合わせると『
教育基本法』のここが問題だから、教育の現状がこうなっている。
従ってこうすべきだ」とか、更に、この「平等」の部分でいえば、冒
頭の「国家も、社会も、個人も、決して平等ではありません。」の一
連の部分を前段の「人間が平等であるという理想云々」の前に記
述して、「従って人間がすべてに亘って平等であるというのは現実
的ではなく、『理想』でしかない。」という具合にすれば少しは風通
しが良くなるはずだ。
さらに、次の記述には誤りがある。「片方は人間で、片方は動物、
という階級差が存在する国に、私は度々 行きました。不平不満は
地球が存在する限り続くでしょう
」この太字の部分は「地球が存
在する限り
」ではなく「人類が生存する限り」と表記すべきだ。教育関
連の政府提出のレポートについては意味が通じれば良いという訳に
はいかない。もっと正確な文章を書くべきだろう。そして、「国家も、
社会も、個人も、決して平等ではありません
」ということを「教師や親
は言わずにごまかして来ました
。」これは由々しい記述だ。国の教
育政策に携わる者が「嘘を言った」とか「ごまかした」とかの記述をす
るなら、その論拠を指し示さなければなるまい。例えば日教組の「教
研集会」で、こういう報告がなされているとか例示して断じることが
常識だ。「そう感じた」「そのように見えた」「そのように聞いた」では
政府の教育改革国民会議の委員のレポートとしては下の下。第一、
教師が「世の中不平等」だということを教えないわけがない。教師は
「平等」という概念について教える機会が必ずある。従って、その
「平等」に対立する「不平等」という概念についても同時に教えざ
るをえなくなるのだ。ただ家庭では子供からの質問がない限り「不
平等」について教える必要などない。
私的なことで恐縮だが、当方の幼少の頃の話をする。当方は貧乏
な家庭に育った為、「不平等」について教わらなくても身に沁みて
感じていた。学級費や給食費を滞納した者は皆の前で教師に呼ば
れて理由を言わされたりした。そういう心無い教師がいたのだ。
制服といっても貧しいよれよれの服とカバン。進学の為に皆が持
っている参考書なんて買って貰えなかった。弁当さえ時には恥ず
かしかった。修学旅行に着てゆく服がないので、修学旅行も行かな
かった。だから学校へ行くのが嫌いだったのだ。反面、ボーイスカ
ウトの活動には一生懸命だった。憧れていたボーイスカウトに入隊
するために最初だけは真新しいキャップとネッカチーフを父親が買
ってくれた。同じ服装で、同じ釜の飯。そして努力して進級すば
バッチが貰えた。すべてが新鮮で楽しかった。このことから言える
ことは、とりわけ家庭に於いては「不平等」という概念を敢えて子供
に教える必要はないということだ。「不平等」という概念を教えること
は下手をすると「不満分子」を育てることにもなりかねない。ここは
やはり教師に委ねた方が良い。いずれにしても曽野綾子氏の「
師や親は言わずにごまかして来ました
」という言辞は、ご自身が周
囲で見聞したことだけを記述し、教育に関する知見のないことを自
ら暴露したものだ。
 さて、次の曽野氏の記述。この「教師や親は言わずにごまかして
来ました
」に続いて「しかし人間の英知と、健やかな心と、共生によ
る人生の諸相の発見は、この上なく面白いものですか ら、私たち
は『あいつは変わっているけどおもしろい』とか『鈍感だから病気を
しないんですなあ』とか『とにかくあの人は優しいんですよ』とかいう
具合に、その違いや否定的な要素の中に、言葉を変えて言えば『
よさの中にも悪さの中に』も等しく偉大な人間的意味を見つけるこ
とが可能なはずでした
。」なにを言いたいのか全く理解不能だ。
人間の英知健やかな心共生による人生の諸相の発見
前段とどういう繫がりがるのか?おまけに「しかし」は前言の否定的
文脈を展開するときに用いる接続詞だ。ところが、ここでのこの
「しかし」の使い方は急に話し言葉になったということなる。しかも、
この段の締めくくり?の「偉大な人間的意味」とは言い換えれば人間
的な「価値」ということなのだろうが、「偉大な」を冠をすることで理解
不能になる。「あいつは変わっているけどおもしろい」とか「鈍感だか
ら病気をしないんですなあ
」とか「とにかくあの人は優しいんですよ
のように「その違いや否定的な要素の中に・・・偉大な人間的意味を
見つけること
」。「偉大な」がなければ、この部分に限っていえば解ら
なくもないが、そのままでは理解しがたい。「あいつは変わっている
けどおもしろい
」「鈍感だから病気をしないんですなあ」に発見した
偉大な人間的価値。「あいつは変わっているけどおもしろい
というところに、どのような「偉大な人間的価値」を発見できるのか
そもそも「偉大な人間的価値」とは、どういう価値なのか?とにかく、
なにを言いたいか解らないが、「偉大な」だけは不要と思われる。
 さて、次の「しかし人々は次第に、自分の評価でものを見る力を失
い、ランクづけ、分類化、平均化といった政治的視線を、個人の生
活の目標とするようになりました
」。ここで言う「自分の評価」も文学的
表現なのか誤用なのか?お使いになる文言にいちいち反応したくはな
いが、曽野氏は「職業作家」で国の教育政策を変えるよう任命された
委員だから文言の使用には、もっと神経を配るべきだ。ここで表記し
ておられる「自分の評価」といえば「自分で自分を評価する」という文
脈で使用するはずなので、ここは「自分の価値基準でものを見る力を
失い」と記述すべきところだろう。更に次の「政治的視線」も「政治的
視点」の間違いではないのか?視線の先にあるのが「ランクづけ、
分類化、平均化」という思考の基準なわけだから「視点」と記述するべ
きだ。ともあれ、この部分の結論めいたものが次の記述となっている。
学歴主義も、安全な職場志向も、ブランドものという名の大量生産品
を夢中でほしがる若い人々のファ ッション性も、つまりは自分自身の
評価を失い、評価を大衆の眼に合わせようとした結果です。本来なら
ば、人間はいかなる状況の中でも、自分が生涯を賭けた好み、自
分がそこにおかれた意味を発見できるはずなのです。それを可能に
するのは、他人とは違った判断をする勇気そのものです。しかしその
ような勇気も才能も習性も、教育は教えませんでした
。」
「評価」という誤用があるので、非常に読みづらいが、ここでも2点ほど
指摘しておきたい記述がある。「生涯を賭けた好み・・・を発見できる
これもなにを言っておられるのか理解ができない。そもそも「好み」とい
うのは人それぞれ様々な「好み」がある。そして「好み」はその時々で
移ろいやすいものだ。しかも、その「好み」は「生涯を賭ける」ほどの
ものか当初は自身でさえも予測はできない。よほどの才能と執着心が
ない限り「生涯を賭けた好み」にはならないのだ。そして、次の記述
他人とは違った判断をする勇気そのものです。しかしそのような勇
気も才能も習性も、教育は教えませんでした
。」先ほど曽野氏のこ
とを視野狭窄と評したが、ここも同様の記述だ。例えば戦後の歌謡界
で1970年代に一世を風靡したロカビリー御三家の山下敬二郎、平尾
昌晃、ミッキー・カーチス氏らは、ある意味「他人とは違った判断をす
る勇気」を持った人たちだった。アメリカの影響で日本でも「ヒッピー」
が生まれたり、反戦運動から「フォークソング」が生まれ、更に「ニュー
ミュージック」へと発展していく。「他人とは違った判断をする勇気」
がなければできることではなかった。こうして戦後の音楽文化は大き
く花開いたといえる。「教育界」がわざわざ教えなくとも青年たちは
自らの意思で道を切り開いて行ったのだ。曽野氏よ、「好み」にまで
言及するからにはそれなりの視野の広さが必要なのだ。更に次の記述。
皮肉なことに、禁止こそが、自分の情熱や、時には命までも賭けて
手にしたいと願う道の発見につなが るのですが、戦後の教育は時に
は道徳に反することまで許しました
から、若者たちは、心身の飽食と
放縦 の中で、みずからの責任において選ぶことの方途も意味も見失
ったのです。足りない時にこそ、人はどう しても手に入れたいものを明
確に発見するものです
。」何を言いたいのか。「禁止こそ」と述べている
ので、何かを解禁したということだ。「戦後の教育は時には道徳に反
することまで許しました
性教育を行なったことを指摘しているのか?
しかし、こういう不分明な記述の仕方は賢明とは言えない。読む者の
理解をえがたいからだ。「若者たちは、心身の飽食と放縦の中で、み
ずからの責任において選ぶことの方途も意味も見失ったのです
。」
ごもっとも。「足りない時にこそ、人はどう しても手に入れたいものを明
確に発見するものです
」仰るとおり。それで何を仰りたいのかとなる。
 ここで言える確かなことは曾野氏の世代の大人の責任には曽野氏
は一切触れていないことだ。なぜなら曾野綾子氏にとっては、すべ
てが他人事だからだ。

 
 以上のことから曾野氏のレポートは、なかなか消化できず、まだ正味
4ページが残っている。進まないのも痛し痒し。
 次回は曾野綾子氏の珍説が出てくるので、ご期待ください。

曾野綾子氏よ
不得意とする分野には
手を染めないことも
作家としての矜持を保つ
大切な心得ですよ。
どうか、自覚なさるよう
・・・・だそうです。



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