非才無才の雄叫び

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「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽その7

2020-09-12 19:51:30 | 日記
藤井氏曰く
将来あそこの市場がほしいという理由で戦争するなんて
通常はあり得ません。やはり、これはルーズベルト政権だからで
、日本を追い込んで戦争を始めるために言ってきた口実に
過ぎないのです。・・・・・アメリカが本気でシナ大陸と
満州の利権を欲しいと言うなら、それを調整する道もあった
と思います。シナ大陸も満州国も広大ですから、日米が
利権を分け合う余地はありました


歴史的な事象・事件を記述する場合、考証する作業を詳らかに
しながら記述するのが常套手段だと思うが、藤井氏は、全く、
それらを無視した荒唐無稽の言説で、読者を篭絡しようと
している。

やはりウィキペディアの「ハル・ノート」の記事を引き続き
紹介するしかありません。

なお、満州国承認問題については米国側から異議は出な
かったとのことである。
この草案は日米双方が修正を加えたうえで、4月9日に一応の完成を
見た。これを受け取ったハル国務長官は3日間にわたって国務省
極東部と検討したが、「提案の大部分は血気の日本帝国主義者が
望むようなものばかりであった」とその内容に失望したという。
しかし、ハルは「一部には全然承諾できない点もあるけれども、
そのまま受け入れることのできる点、また修正も加えて同意できる
点もある」という結論を下し、これを交渉の糸口にすること
とした。
その後、草案は双方の若干の修正を経て、4月16日に「日米諒
解案」として決着した。内容的には岩畔の主張がかなり盛り込
まれていたが、あくまで叩き台としての試案であり、「なんら
の拘束力もない」と断り書きがあった


4月18日、日米諒解案の電報が日本に届いた。しかし、ここで
重大な誤解が生じ、近衛首相は諒解案を「米国案」として受け
とった。近衛は明らかに諒解案の「交渉試案」という意味を履
き違えたとみられる 。

諒解案には東條英機陸相も武藤軍務局長も、海軍の岡敬純軍務
局長も「大へんなハシャギ方の歓びであった」
というが、
「主義上賛成」の電報を打とうという動きは抑えられ、返事は
松岡外相の帰国を待ってからとなった。なお、『近衛手記』に
よれば、「この米国案を受諾することは支那事変処理の最捷径
である」などの意見から「大体受諾すべしとの論に傾いた」が、
その一方でドイツとの信義を強調する意見があったとのことで
ある。

東條や武藤は、諒解案を泥沼化した支那事変解決の機会ととら
えて乗り気となり、陸軍省としては「ともかく交渉開始に同意」
と決定した。また陸軍参謀本部においても、「三国同盟の精神
に背馳せざる限度に於いて対米国交調整に任ずべき大体の方向」
で意見が一致し、最終的にはこの線に沿って陸海軍間の合意が
なった。


しかし、松岡外相が帰国すると、事態は一変する。

松岡外相の反対
4月22日に帰国した松岡外相は、日米諒解案がスタインハート
工作の返事ではなく、自分のまったく関知しないルートの話で
あったことを知り、不機嫌になった。その夜の連絡懇談会
では、2週間か1、2か月ほど考えさせてほしいと述べ、諒解案を
取り合おうとはしなかった。

その後、松岡は日米諒解案を「陸海軍案ヨリ更ニ強硬」
(『機密戦争日誌』[注釈 9](5月3日付))な内容へと大幅に
修正し、5月3日の連絡懇談会に提示した。

また、松岡は連絡懇談会で次の三原則を提議した。

1.支那事変への貢献
2.三国同盟に抵触しないこと
3.国際信義を破らない

三原則は、アメリカが蒋介石に圧力をかけて日中戦争解決に貢献す
ること、アメリカが三国同盟を承認すること、ドイツへの信義と
協調を意味するため、これはアメリカの方針―中国からの日本軍
撤兵、三国同盟の骨抜き、欧州戦争における英国援助と、真っ向
から対立するものであった。


どっちが無理難題を言っているか、理解できよう。

前のブログで記述したように、第一次世界大戦後、国際連盟が
設立され、従来の列強の大半は帝国主義的野望を捨てて、
平和的・民主的な政策を重んじる方向へと舵を切りつつあった。

藤井氏は、そのことに全く無頓着であるため、冒頭のような
記述になってしまい、荒唐無稽の極みである。

ウィキペディアの「ハル・ノート」の解説は、この程度の
抜粋でも十分に説得力があると思いますので、これ以上の
転記はいたしません。

次回からは「第二章 日米戦争を起こしたのは誰か?」です。

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