30日。もう、焦ったってあきません。
2日には、お店は開くんやし、なるようになるやろ・・・。
これ書いたら、つれあいの誕生日の準備でもしましょ。
さて、写真もないし、この間の続きでも書きましょうか。
「薬子の乱」のページ読み返したら、
やっぱり、教科書みたいな文やったし、
もうちっと、心をこめて書こうかと・・・。
806年。桓武天皇は崩御した。
皇太子だった第一皇子(安殿親王)が即位したが、
3年後、病気になって、気が弱くなった天皇に、
「伊予親王、早良親王のたたりと存じます・・・」
なんて、いう人もいて、
心細くなって、譲位を決めたのでした。
「なんと、お心の弱いことを」
寵愛を受けて、有頂天の内侍薬子と、その兄の藤原仲成は、びっくりして、諌めますが、
おじけついた天皇は、809年4月、譲位します。
ところでね、この薬子さんは、藤原家(式家)の出です。
すでに結婚していて、その娘を平城天皇の奥さんにしていたのです。
つまり、天皇にとって、”妻のお母さん”になりますね。
平城天皇は、妻より、妻のお母さんのほうが気に入ったようです。
と言って、妻にするわけにもいかず、内侍として入内させ、
権力と、好き勝手を認めていたわけですね。
このとき、薬子は、40歳ぐらい。
平城天皇は、33歳。
恋は、年齢を超えてますね。
こうして、嵯峨天皇が、即位するのですが、
怨霊を怖がった平城上皇(譲位した後の天皇をこう呼びます)は、
元の都・平城京に、ひきこもりました。
だけどねえ、一度、宮中の華やかで、おいしい味を知ってしまった薬子には、
奈良での、看病生活は、耐えられないものだったでしょうね。
「ねえ、病気も治ったのだし、もう一度、政権を取り戻しましょうよ」
「病気だって、たたりなんて言って脅かしたのは、嵯峨天皇のさしがねよ。
くやしいわ」
なんて、毎日責めたんでしょうね。
一方、兄の藤原仲成も、
嵯峨天皇に変わってから、冷遇されるようになった貴族たちを、奈良に誘います。
人が集まってくると、強気になるものです。
810年、ついに「奈良に遷都する」と勅令を出します。
上皇として、政治をつかさどるよ、と言ったわけです。
一方、新しく即位した嵯峨天皇は、
兄である平城天皇に気を使っていました。
奈良に院を造営することも許しましたし、
少々のわがままも聞いてきました。
けれど、この天皇のブレインは、優秀でした。
藤原北家(藤原冬嗣)を重用し、
空海、最澄など、遣唐使の帰国組の援助をしました。
(援助の見返りは、唐から学んだ技術です)
たぶん、温厚で、人の使い方のうまい人だったようですね。
しかし、「遷都」は、天皇に対する謀反ですよね。
あの坂上田村麻呂を遣わして、上皇を諌めさせますが、
同時に、上皇の東国からの軍隊が来る前に、
奈良へ兵を動かし、東国への道を封鎖して、
この乱を収めました。
薬子の身分をはく奪し、藤原仲成を佐渡に流刑しました。
上皇の責任を免責したのです。
でもねえ、上皇は、この薬子を愛していたのです。
別れるくらいならと、逃避行を試みるのですが、
囚われて、薬子は毒をあおって死に、上皇は頭を剃って、寺に入ります。
これが、yoko的偏見を持ってみた薬子の乱です。
アマちゃんで、エキセントリックな上皇と、
あくまでも穏やかにふるまう嵯峨天皇と・・・。
どうなんでしょ、薬子は、平城天皇を愛したのでしょうか。
それとも、権力に恋したのでしょうか・・・。
2日には、お店は開くんやし、なるようになるやろ・・・。
これ書いたら、つれあいの誕生日の準備でもしましょ。
さて、写真もないし、この間の続きでも書きましょうか。
「薬子の乱」のページ読み返したら、
やっぱり、教科書みたいな文やったし、
もうちっと、心をこめて書こうかと・・・。
806年。桓武天皇は崩御した。
皇太子だった第一皇子(安殿親王)が即位したが、
3年後、病気になって、気が弱くなった天皇に、
「伊予親王、早良親王のたたりと存じます・・・」
なんて、いう人もいて、
心細くなって、譲位を決めたのでした。
「なんと、お心の弱いことを」
寵愛を受けて、有頂天の内侍薬子と、その兄の藤原仲成は、びっくりして、諌めますが、
おじけついた天皇は、809年4月、譲位します。
ところでね、この薬子さんは、藤原家(式家)の出です。
すでに結婚していて、その娘を平城天皇の奥さんにしていたのです。
つまり、天皇にとって、”妻のお母さん”になりますね。
平城天皇は、妻より、妻のお母さんのほうが気に入ったようです。
と言って、妻にするわけにもいかず、内侍として入内させ、
権力と、好き勝手を認めていたわけですね。
このとき、薬子は、40歳ぐらい。
平城天皇は、33歳。
恋は、年齢を超えてますね。
こうして、嵯峨天皇が、即位するのですが、
怨霊を怖がった平城上皇(譲位した後の天皇をこう呼びます)は、
元の都・平城京に、ひきこもりました。
だけどねえ、一度、宮中の華やかで、おいしい味を知ってしまった薬子には、
奈良での、看病生活は、耐えられないものだったでしょうね。
「ねえ、病気も治ったのだし、もう一度、政権を取り戻しましょうよ」
「病気だって、たたりなんて言って脅かしたのは、嵯峨天皇のさしがねよ。
くやしいわ」
なんて、毎日責めたんでしょうね。
一方、兄の藤原仲成も、
嵯峨天皇に変わってから、冷遇されるようになった貴族たちを、奈良に誘います。
人が集まってくると、強気になるものです。
810年、ついに「奈良に遷都する」と勅令を出します。
上皇として、政治をつかさどるよ、と言ったわけです。
一方、新しく即位した嵯峨天皇は、
兄である平城天皇に気を使っていました。
奈良に院を造営することも許しましたし、
少々のわがままも聞いてきました。
けれど、この天皇のブレインは、優秀でした。
藤原北家(藤原冬嗣)を重用し、
空海、最澄など、遣唐使の帰国組の援助をしました。
(援助の見返りは、唐から学んだ技術です)
たぶん、温厚で、人の使い方のうまい人だったようですね。
しかし、「遷都」は、天皇に対する謀反ですよね。
あの坂上田村麻呂を遣わして、上皇を諌めさせますが、
同時に、上皇の東国からの軍隊が来る前に、
奈良へ兵を動かし、東国への道を封鎖して、
この乱を収めました。
薬子の身分をはく奪し、藤原仲成を佐渡に流刑しました。
上皇の責任を免責したのです。
でもねえ、上皇は、この薬子を愛していたのです。
別れるくらいならと、逃避行を試みるのですが、
囚われて、薬子は毒をあおって死に、上皇は頭を剃って、寺に入ります。
これが、yoko的偏見を持ってみた薬子の乱です。
アマちゃんで、エキセントリックな上皇と、
あくまでも穏やかにふるまう嵯峨天皇と・・・。
どうなんでしょ、薬子は、平城天皇を愛したのでしょうか。
それとも、権力に恋したのでしょうか・・・。
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