goo blog サービス終了のお知らせ 

yokonohananikki's blog

花と遊ぶ。

「薬子の乱」の話し

2007-12-30 15:11:39 | 小さなエッセイ
30日。もう、焦ったってあきません。
2日には、お店は開くんやし、なるようになるやろ・・・。
これ書いたら、つれあいの誕生日の準備でもしましょ。

さて、写真もないし、この間の続きでも書きましょうか。
「薬子の乱」のページ読み返したら、
やっぱり、教科書みたいな文やったし、
もうちっと、心をこめて書こうかと・・・。

806年。桓武天皇は崩御した。

皇太子だった第一皇子(安殿親王)が即位したが、
3年後、病気になって、気が弱くなった天皇に、
「伊予親王、早良親王のたたりと存じます・・・」
なんて、いう人もいて、
心細くなって、譲位を決めたのでした。

「なんと、お心の弱いことを」
寵愛を受けて、有頂天の内侍薬子と、その兄の藤原仲成は、びっくりして、諌めますが、
おじけついた天皇は、809年4月、譲位します。

ところでね、この薬子さんは、藤原家(式家)の出です。
すでに結婚していて、その娘を平城天皇の奥さんにしていたのです。
つまり、天皇にとって、”妻のお母さん”になりますね。
平城天皇は、妻より、妻のお母さんのほうが気に入ったようです。
と言って、妻にするわけにもいかず、内侍として入内させ、
権力と、好き勝手を認めていたわけですね。
このとき、薬子は、40歳ぐらい。
平城天皇は、33歳。
恋は、年齢を超えてますね。

こうして、嵯峨天皇が、即位するのですが、
怨霊を怖がった平城上皇(譲位した後の天皇をこう呼びます)は、
元の都・平城京に、ひきこもりました。

だけどねえ、一度、宮中の華やかで、おいしい味を知ってしまった薬子には、
奈良での、看病生活は、耐えられないものだったでしょうね。

「ねえ、病気も治ったのだし、もう一度、政権を取り戻しましょうよ」
「病気だって、たたりなんて言って脅かしたのは、嵯峨天皇のさしがねよ。
くやしいわ」
なんて、毎日責めたんでしょうね。
一方、兄の藤原仲成も、
嵯峨天皇に変わってから、冷遇されるようになった貴族たちを、奈良に誘います。

人が集まってくると、強気になるものです。
810年、ついに「奈良に遷都する」と勅令を出します。
上皇として、政治をつかさどるよ、と言ったわけです。

一方、新しく即位した嵯峨天皇は、
兄である平城天皇に気を使っていました。
奈良に院を造営することも許しましたし、
少々のわがままも聞いてきました。

けれど、この天皇のブレインは、優秀でした。
藤原北家(藤原冬嗣)を重用し、
空海、最澄など、遣唐使の帰国組の援助をしました。
(援助の見返りは、唐から学んだ技術です)
たぶん、温厚で、人の使い方のうまい人だったようですね。

しかし、「遷都」は、天皇に対する謀反ですよね。
あの坂上田村麻呂を遣わして、上皇を諌めさせますが、

同時に、上皇の東国からの軍隊が来る前に、
奈良へ兵を動かし、東国への道を封鎖して、
この乱を収めました。

薬子の身分をはく奪し、藤原仲成を佐渡に流刑しました。
上皇の責任を免責したのです。
でもねえ、上皇は、この薬子を愛していたのです。
別れるくらいならと、逃避行を試みるのですが、
囚われて、薬子は毒をあおって死に、上皇は頭を剃って、寺に入ります。

これが、yoko的偏見を持ってみた薬子の乱です。
アマちゃんで、エキセントリックな上皇と、
あくまでも穏やかにふるまう嵯峨天皇と・・・。

どうなんでしょ、薬子は、平城天皇を愛したのでしょうか。
それとも、権力に恋したのでしょうか・・・。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿