落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>宣教と祈り

2006-02-01 18:53:07 | 講釈
2006年 顕現後第5主日 (2006.2.5)
<講釈>宣教と祈り   マルコ1:29-39
1. 主イエスの活動
ここには主イエスの最初期の活動が総括的に述べられている。特に、この部分では「宣教」と「悪霊追放」が主イエスの活動の両輪として強調されている。当時の人々はすべての病気の原因は悪霊によるものと考えていたようなので、この悪霊追放ということには病気の癒しも含まれている。
本日のテキストは3つの部分に分けられ、それらは密接に関連しているが、本日は第3の部分、35節から39節までの部分を中心に考えたい。特に、39節の言葉はマルコによる初期の主イエスの活動を総括した言葉である。鍵になる言葉は「ガリラヤ中」、「宣教」「悪霊追放」。まず、これら三つのキイタームについて考えたい。
2. 「宣教」
この箇所を注意深く読んでいて「あれっ」と思った点がある。ここで「宣教」という言葉が用いられていることである。口語訳聖書ではどうだったのかと思って調べてみると、やっぱり「教えを宣べ伝え」と訳されていた。そこで、この「ケーリュッソー」という言葉の翻訳を調べてみると、口語訳聖書で「教えを宣べる」とか「教えを説く」という言葉に翻訳されていた箇所はすべて「宣べ伝える」とか「告げ知らせる」などに変更されている。そして、とくにマルコ福音書のこの箇所では「宣教し」となっている。つまり、この「ケーリュッソー」からほとんど完全に「教え」という意味が消されている。ただ、ここでは「宣教」という漢字の組み合わせとして「教」という言葉が残っているのは残念である。同様のことが「エクレーシア」という言葉の翻訳として「教会」という言葉にも当てはまる。「エクレーシア」には「教え」という意味は含まれていない。この辺の教会用語に日本のキリスト教会の問題点があるのではなかろうか。
さて、この「ケーリュッソー」という言葉のもともとの意味は「大声で叫び伝える」ということである。もっとも原意に近い用法はマタイ10:27「耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」に見られる。さしずめ現代で言うなら、宣伝広告という意味あいを示し、この言葉自体には伝えるべきコンテンツを含んではいない。マタイ10:27ではコンテンツは「耳打ちされたこと」である。ところが、本日のテキストでは「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」とあり、何を語ったのかということが示されていない。ということは、マルコがこの言葉を使っている段階で既にこの言葉は一つの「教会用語」として定着していたと思われる。
マルコが福音書を書いた頃の教会におけるこの言葉の用例がロマ書2:21に見られる。「(あなたは)盗むなと説きながら、盗むのですか」とパウロはユダヤ人キリスト者を批判している。ここで「説きながら」という言葉はケーリュッソーである。つまり、ここでは明らかにこの言葉は「説教」という意味に用いられている。同じようにコリントの信徒への手紙Ⅱ4:5では「わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」とある。つまり、宣教とは主イエス・キリストを語ることであるということが定着している。マルコはこういうしっかりとした用語法の中で「宣教」という言葉を用いている。つまり、宣教という言葉のコンテントそのものである主イエスご自身が、また同時に宣教するものであるというところにマルコ福音書の眼目がある。
3. 悪霊追放
現代人であるわたしたちにとって「悪霊追放」とか「悪魔払い」という言葉にはある種の偏見がある。この点について、あまり深入りしたくない。ただ、「悪霊に憑かれる」という言葉によって示されている、個人的あるいは社会的諸問題は、昔も今も変わらない。むしろ、ここでは人間の心身のもっとも深いところから生じる様々な苦労、悩みを示すということにとどめておく。関田寛雄氏は悪霊について「あらゆる非人間性をもたらす力」と説明している。(参照:説教者のための聖書講解 マルコによる福音書34頁、日本基督教団出版局)
そして、主イエスは、まさにその問題に取り組んだ。先週のテキストでは悪霊が主イエスに対して挑戦してきた事件が記されていた。聖書に登場する悪霊は賑やかである。使徒言行録ではパウロたちにしつこくつきまとう「占いの霊に取り憑かれた女奴隷」が登場し、パウロたちの後ろについてきて離れず「この人たちは、いと高き神の僕で皆さんの救いの道を宣べ伝えているのです」(使徒言行録16:16-18)と叫び続けたという。それが数日に及び、パウロもとうとう根負けして、その霊に対して「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」というと、その霊は即座に女から出て行き、女の占いの能力が失われた。
先週のテキスト(マルコ福音書1:21-28)に登場する「汚れた霊」も饒舌である。ところが、今週のテキストでは「多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」(34節)と記されている。つまり、ここでは主イエスは悪霊に対して圧倒的な力で「ものを言わせない」。これは主イエスの「霊的力」である。マルコは主イエスを悪霊に対して圧倒的な霊力を持つものとして描く。
4. 「ガリラヤ中で」
マルコは主イエスの活動の拠点をガリラヤとして描く。ここには明らかに「エルサレム」を中心とする当時の中央教会の指導者たちに対する批判的姿勢が顕著ではあるが、その点については、かなり専門的な議論が必要になるので、あえてここでは取り上げない。ただ、本日のテキストにおいては「ガリラヤ中で」という言葉はカファルナウムにおける活動を重視する人々に対するメッセージが含まれている点については注目しておく。
5. 祈り
さて、以上の点は主イエスの初期の活動についての概括的記述であり、積極的に何かメッセージを語っているわけではない。それに対して35節から38節までの文章は主イエスの生き方が明確にのべられている。特に、38節の「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」という言葉は力強く、主イエスが何を人生の目的にしていたのかということが明白に語られている。この主イエスの意図がどこまで弟子たちにわかっていたのか。主イエスと弟子たちとの意識のズレが明確になる第1弾がここに示されている。
35節の「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」という言葉は、おそらく主イエスのいわば日常的な生活を示す言葉であろう。激しく活動する人間には「独りになること」「祈ること」は大切である。主イエスにとって「常に側に置く」ために弟子とした人々からさえも離れて独りになって祈ることは、激しい活動の原動力であったろう。特に、悪霊追放というような「霊的戦い」をする主イエスにとって、祈りは欠くべからざるものであった。後に、弟子たちが「汚れた霊に取り憑かれた子ども」を癒すことが出来なかったとき(マルコ9:14-29)、主イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(マルコ9:29)と述べられた。
6. 朝早く
しかし、その時間を取ることは非常に難しい。だから、弟子たちがまだ寝ているうちに、早起きして出かけるのが、主イエスの習慣だったのだろう。このような、主イエスにとって最も重要な祈りの時間を妨げたのは弟子たちであった。彼らはこの時間の大切さが少しもわかっていなかった。さも、それ以上に重要なことであるかのように、主イエスの祈りの中にどかどかと侵入して、「みんなが捜しています」という。「みんな」とは誰のことだ。自分たちのことではないのか。ここで、マルコはここでしか使わない「特別の言葉」を用いている。「シモンとその仲間」とはいったい誰のことか。この言葉には明らかに批判の対象が暗示されている。今は名前を変えてペトロと呼ばれ、教会の中心に収まっているが、彼とその仲間こそ、主イエスの力の源泉を少しも理解せず、主イエスの祈りを妨げた連中ではないか。
7. 世界へ
彼らの意図ははっきりしている。彼らは主イエスを自分たちの所に引き戻しに来たのである。この「自分たちの所」という言葉には2つの意味が含まれている。主イエスが何故が自分たちから離れていくような不安があった。どんなに離れていても、決して切れないという関係に対する不安、独り立ちできない不安が彼らにはあった。だから、主イエスには何時も離れず一緒に居て欲しかった。もう一つは、カファルナウムへの固執である。どうも、カファルナウムにはシモンとアンデレの家(29節)があったようである。つまり、ここが彼らの生活の拠点であった。主イエスがここで活動している限り、彼らも安心して主イエスの弟子であり得た。しかし、ここから離れることには非常な不安があったのだろう。主イエスは彼らに向かってはっきり言う。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(38節)。主イエスの目はカファルナウムのとどまっていない。ガリラヤにさえとどまっていない。エルサレムさえ通り越して、世界に向けられている。その第一歩としての「近くの町や村へ行こう」である。

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