落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

顕現後第5主日説教 宣教と祈り

2006-02-02 20:37:59 | 説教
2006年 顕現後第5主日 (2006.2.5)
宣教と祈り   マルコ1:29-39
1. 悪霊追放
使徒言行録に興味深い事件が記録されている。キリスト教が初めて現在のヨーロッパに伝えられた頃の出来事である。使徒パウロがフィリピで開拓伝道をはじめた頃、使徒パウロたちにしつこくつきまとう「占いの霊に取り憑かれた女奴隷」が現れる。彼女は使徒パウロたちの後ろについてきて離れず「この人たちは、いと高き神の僕で皆さんの救いの道を宣べ伝えているのです」と叫び続けたという。それが数日に及び、使徒パウロもとうとう根負けして、彼女に取り憑いている「占いの霊」に対して「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」というと、その霊は即座に女から出て行き、女の占いの能力が失われた(使徒言行録16:16-18)。
先週のテキスト(マルコ福音書1:21-28)に登場する「汚れた霊」も饒舌である。ところが、今週のテキストでは「多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」(34節)と記されている。つまり、ここでは主イエスの霊力は悪霊に対して圧倒的な力を持っており、「ものを言わせない」。これがマルコが描く主イエスの姿である。
2. 祈り
この主イエスの圧倒的な霊的力の源泉はどこにあったのか。マルコはそのことについて、はっきりとわたしたちに示す。それが、主イエスの祈りである。祈りこそが霊力の源泉である。35節の「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」という言葉は、おそらく主イエスのいわば日常的な生活を示す言葉であろう。主イエスにとって「常に側に置く」ために召した弟子たちからさえも離れて独りになって祈ることは、激しい活動の原動力であった。特に、悪霊追放というような「霊的戦い」をする主イエスにとって、祈りは欠くべからざるものであった。
後に、弟子たちが「汚れた霊に取り憑かれた子ども」を癒すことが出来なかったとき(マルコ9:14-29)、主イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(マルコ9:29)と述べられた。
3. 朝早く
しかし、その時間を取ることは非常に難しい。だから、弟子たちがまだ寝ているうちに、早起きして出かけるのが、主イエスの習慣だったのだろう。このような、主イエスにとって最も重要な祈りの時間を妨げたのは弟子たちであった。彼らはこの時間の大切さが少しもわかっていなかった。さも、それ以上に重要なことであるかのように、主イエスの祈りの中にどかどかと侵入して、「みんなが捜しています」という。「みんな」とは誰のことだ。自分たちのことではないのか。ここで、マルコはここでしか使わない「特別の言葉」を用いている。「シモンとその仲間」とはいったい誰のことか。この言葉には明らかに批判の対象が暗示されている。今は名前を変えてペトロと呼ばれ、教会の中心に収まっているが、彼とその仲間こそ、主イエスの力の源泉を少しも理解せず、主イエスの祈りを妨げた連中ではないのか。主イエスの祈りを妨げに来た弟子たちの意図ははっきりしている。彼らは主イエスを自分たちの所に引き戻しに来たのである。
4. 世界へ
さて、ここから主題は「祈り」から「宣教」へと移る。その主題の変換は「弟子たちの不理解」によって繋がれている。弟子たちは祈りの大切さもわからなければ、宣教への意欲にも欠けている。弟子たちが主イエスを迎えに来たのは、「自分たちの所」に連れ戻すためである。この「自分たちの所」という言葉には2つの意味が含まれている。彼らには主イエスが自分たちから離れていくような不安があった。どんなに離れていても、決して切れないという関係に確信が持てなかった。つまり、独り立ちできない不安が彼らにはあった。まるで母親から自立できない子どものようである。だから、主イエスには何時も離れず一緒に居て欲しかった。
もう一つは、カファルナウムへの固執である。どうも、カファルナウムにはシモンとアンデレの家(29節)があったようである。つまり、ここが彼らの生活の拠点であった。主イエスがここで活動している限り、彼らも安心して主イエスの弟子であり得た。しかし、ここから離れることには非常な不安があったのだろう。
主イエスは彼らに向かってはっきり言う。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(38節)。主イエスの使命はカファルナウムのとどまっていない。主イエスの目はガリラヤにさえとどまっていない。福音はエルサレムさえ通り越して、世界に向けられている。その第一歩としての「近くの町や村へ行こう」である。

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