落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> からし種一粒ほどの信仰  ルカ17:5~10

2010-09-28 13:45:46 | 講釈
2010年 聖霊降臨後第19主日(特定22) 2010.10.3
<講釈> からし種一粒ほどの信仰  ルカ17:5~10

1. 文脈と語義
ルカはイエスの教えを語る際に、誰に対して語られたのかということを割合ていねいに書いている。17:1-10ではおそらくイエスが折に触れ、「弟子たちに言われた」(17:1)言葉を集めている。1-2節では「躓かせること」の警告、3-4節では罪を犯した仲間との関係である。これらの言葉はマタイにもマルコにも見られるが、それぞれ置かれている文脈も強調点も異なっている。
本日取り上げられている5-10節の部分は2つに分けられ、それぞれが独立している。5-6節に見られる「からし種一粒ほどの信仰」という表現はマタイ福音書17:20にも見られるがおかれている文脈は全然異なる。マタイでは弟子たちには「からし種一粒ほどの信仰」もなかったので、彼らの言葉には悪霊を追い出す力がないという文脈で語られている。ルカ福音書では弟子たちの「信仰を増してください」という願いに対する言葉である。
7-10節は他では見られずルカ独自の資料に基づくものであろう。興味深いことは主人と下僕との関係について、こことは逆の場面を語る譬えがルカ12:37に見られる。つまり主人が外から帰ってきて家の中で留守番をしていた下僕に「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる」という。この対比は面白い。どっちが「当たり前なのか」。
5-6節では、どんなに小さな信仰であっても、「からし種一粒ほど」の小さな信仰であっても、その信仰が生きた信仰であるならば、驚くべきことができるということを語る。
それに対して、7-10節では、この世における主人と下僕との関係が述べられている。その関係は一口で言うと、下僕は主人に対して徹底的に従わなければならないということである。
今日のテキストでの問題は、5-6節で述べられていることと7-10節で述べられていることとの関係である。関係があるのか、それともないのか。あるとしたらどういう関係があるのか。それが問題である。
2. 「使徒たち」
先ず始めに5節冒頭の「使徒たち」について。「使徒」という言葉は聖霊降臨後の教会において成立した言葉である。従って、この言葉を福音書で用いることは明らかに時代錯誤である。しかしルカはあえて「使徒」という言葉を福音書で5回も用いている(6:13、9:10、17:5、22:14、24:10)。それらを読むとルカが弟子たちのことを「使徒」と呼ぶときにはそれなりに理由があるようである。つまり聖霊降臨後に成立する教会との深い関係がある場合に「使徒」と呼ぶ。ここでも「わたしどもの信仰を増してください」という願い、あるいは祈りは教会成立後の信仰である。ここで私たちの注意を引くのは「信仰を増してください」と言っている、いや祈っているのは「使徒たち」だということである。使徒が使徒であるためには信仰を増して貰わねばできない。言い換えると私たちは信仰が足りないという自覚である。5節の「わたしども」とは他の誰でもない。一般信徒ではなく、使徒たちである。ここでの「使徒」とは主教を意味するとしたら、信仰が足りないということを自覚するのは主教たちであるということである。
このことを最もよく示している出来事がルカ9:37-43に記録されている。その時、イエスの弟子たちの祈りは聞かれなかった。この出来事を始めて記録したマルコは「この種のものは、祈りによらなければ決してできない」(マルコ9:29)と言われた。ルカはその言葉を省いている。マタイはこの場面でイエスは弟子たちの「信仰が薄い」(マタイ17:20)と言われた。
3. 原始教団における使徒職
教会は成立当初から「使徒たち」と彼らを中心にする信徒たちとで構成されていた。この場合使徒とはイエスの直接の弟子たち(使徒言行録1:21-22)を意味する。弟子たちが最初の使徒たちである。信徒たちは使徒たちから生きていたイエスの思い出話を聞き、イエスの道を学ぶ。そこに一人の指導者が登場する。パウロである。彼は生前のイエスと面識はない。従って使徒としての資格を持っていない。そこでパウロの使徒性が問題となる。それが50年代から60年代の問題であった、60年代になるとイエスの直接の弟子たちは次々と亡くなっていく。パウロも亡くなる。教会の指導者は第2世代の使徒たちに替わる。この人たちは生前のイエスのことをほとんど知らない。その意味では、使徒と信徒との境界線は曖昧になる。マタイ福音書やルカ福音書が書かれたのはそのような時代であった。こういう時代的背景のもとに「使徒たちは」「信仰を増してください」と祈る。思うにこの祈りの根本的な問題意識は、使徒たち、言い換えると聖職であるということの根拠を求めているのであろう。彼らは初代の使徒たちのように生前のイエスの弟子であったという根拠がない。彼らにとってそのれに代わる根拠が必要であった。それが「信仰を増してください」という祈りになった。
4. 「信仰が増す」という願い
使徒たちのこの祈りに対するイエスの第1の答えは、「信仰を増してください」という願いについてである。一体、「大きい信仰」とか「深い信仰」(信心深い)とは、どういうことなのか。信仰に大きいとか、深いということがあるのだろうか。この問題に対する答えが「からし種一粒ほどの信仰」という言葉で表現されている。つまり、桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と命じたら、その様になるという権威ある言葉の源泉としての信仰は、増すとか少ないとかいうレベルの信仰なのだろうか。つまり信仰において重要なことは大きさの問題ではなくその信仰が生きているかそうでないかということである。昔は生きていたが今は化石化してしまっている信仰もある。あるいはどんなに美しくても造花のような信仰もあれば骨董品のような信仰もある。信仰において重要なことは美術的価値でも長さでもなく、生きているかどうかである。これが「わたしどもの信仰を増してください」という使徒たちに対するイエスの答えである。そこでは聖職とか一般信徒の区別はなく、「誰でもの信仰」というべきものである。
5. 聖職であることの根拠
それでは聖職者であることの根拠は全くないのであろうか。それに対するイエスの答えが7-10節の例話である。これは譬え話ではない。実際に行われている主人と下僕との関係である。ここで描かれている主人は横暴である。下僕に対する同情とか気遣いは全く感じられない。一日中、外でかなりの重労働をして夕方、帰ってきた下僕にねぎらいの言葉もなく、すぐに夕食の準備をせよと命じ、給仕をさせ、その後で食事をせよという。そして最後に感謝の言葉もない。この実例を持ち出した上で、イエスは「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と語られる。つまり使徒であることの根拠とはこういうことである。使徒とは、言い換えると聖職とは、下僕としての徹底度が問われている。ここまで徹底的に下僕になれるのか。もちろん、ここで横暴な主人とは教会である。ここまで徹底的に己を捨てて、教会の下僕になりうるのか。これが問題である。もし司祭とか主教というものに一般の信徒以上の信仰が要求されるとしたら、それは何か大きなことをする能力とか奇跡を起こす超能力ではなく、どこまで徹底的に下僕であるのかという度合いの問題である。もし、聖職者に一般信徒にない「権威」があるとしたら、それはその人の下僕としての自覚の徹底度による。ここがこの世における「権威者(=権力者)」との違いである。これは一般的な倫理としての謙遜とは異なる。ここで用いられている下僕という言葉は「奴隷」と訳すべき言葉で、奴隷がいくら謙遜であってもそれは謙遜とは呼ばない。それが「しなければならないことをしただけです」という言葉の意味であろう。
しかし考えてみると、これも聖職者になるための根拠というよりも、ホンモノのキリスト者としての道であろう。いろいろ考えると結局、聖職者であることの根拠というようなものはない。

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