2010年 聖霊降臨後第18主日(特定21) 2010.9.26
ラザロの警告 ルカ16:19-31
1. 金持ちとラザロの物語
一人の金持ちがいた。彼は毎日贅沢に遊び暮らしていた。この金持ちの家の門前にはラザロという貧乏人が座っていて、物を乞うて飢えをしのいでいた。ラザロは全身できものでおおわれ犬が来て、ラザロのでき物を舐める。ある日、かわいそうなラザロは死に、金持ちも同じように死ぬ。
舞台はガラリと変わり、「あの世」となる。「あの世」では立場は逆転し、貧乏人ラザロは民族の祖アブラハムの宴席に座っている。金持ちは陰府で炎に包まれてもだえ苦しんでいる。金持ちはアブラハムに「ラザロをよこして、指先を水で浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と頼む。アブラハムは両者の間には「大きな淵」があって越えることができないと答える。
この物語は明らかに当時の宗教的民話であり特に新約聖書的な特徴は見られない。一体この物語は誰に向かって、何を語ろうとしているのだろうか。この箇所の直前に、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」(ルカ16:14)とある。「あざ笑う」という態度は軽蔑の気持ちを態度に表して、自分自身の賢さや正しさを「みせびらかす」(16:15)行為である。多くに人はそれを見て、「あざ笑われている人」を軽蔑し、「あざ笑う人」を尊敬する。
イエスは彼らに誰でも知っている民話を語る。こと自体が一つのメッセージを示している。
「金に執着する」とはこの世の価値だけに執着していることを意味する。つまり、永遠的なものに価値を見ようとしない連中である。あなたたちはこの世では贅沢三昧の生活をしているかも知れないが、それがどうだというのだ。あの世では逆転が起こるのだ。その時、どんなに嘆き、わめいても手遅れである。最終的な勝負は生きている間の生き方の問題で決まる。
問題はそれは死後のことであり、死後に価値の逆転があるという根拠は何か。貧乏人がそれを信じ、貧しさに耐えていてもいいが、そんなことは虚しい幻に過ぎないではないか。彼らのあざ笑いは止まらない。ここまでがこの物語の前半である。これには後半がある。
2. 「モーセと預言者に耳を傾けないのなら」
金持ちは5人の兄弟がおり、彼らはまだ生きており死後の世界の秘密を知らない。彼らはこの金持ちが生きていたのと全く同じように目の前に居る貧乏人のことを心にも止めず、贅沢三昧な生活を楽しんでいる。そこで、この金持ちはアブラハムにラザロを死後の世界から「この世」に戻し、5人の兄弟たちに死後の生活のことを知らせ、現在の生き方を改めさせて欲しいと願う。ところがアブラハムはそんなことをしても無駄であると答える。なぜなら、このことについてはすでにモーセと預言者たち、つまり聖書が語っていることであり、聖書の言葉に耳を傾けるならば分かっているはずである。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。
「あの世」つまり死後の世界と「この世」とをつなぐ関係、もっと具体的にいえば、人間は死んだ後どうなるのかというメッセージの根拠が問題である。この物語では、多くの人々が単純に考えるように、死んだ人が「あの世」に行って、「あの世」を経験して、もう一度「この世に」戻ってきてくれたら、「あの世」のことを信じることが出来るという発想である。このような考え、ないしは願望は古代だけではなく、現代人にもある。日本の伝承では青森県の恐山のイタコが有名であるが、全国各地に「口寄せ」とか「霊媒」の伝承はある。現在では多少姿を変えて占い師というような姿で時々テレビ番組にも登場している。ラザロの物語ではそのことについて、アブラハムの言葉として「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と宣言されている。むしろ、死後の世界のこと、というより現在の価値観が将来の世界においては逆転するということについては「モーセと預言者」の言葉に耳を傾けよ、と語る。つまり、それは聖書をしっかり読むならば明白である。このイエスの話はファリサイ派の人々にとっては大変な皮肉であり、挑戦でもある。彼らこそ、実は聖書の専門家として自他共に認められていたのである。ところが聖書の専門家であるはずの彼らが「あの世」での価値の転換を否定し、この世での価値観がそのままあの世でも通じるかのように説教し、金持ちたちを喜ばせている。彼らはそのために聖書を利用している。ここが重要なポイントである。彼らも聖書の専門家として聖書を解釈し、聖書の教えを説く。しかし、貧乏人にいくらいい説教をしても金にならないが、金持ちが喜ぶ説教をすれば金になる。しかしイエスの視点は異なる。イエスは貧乏人の立場に立って聖書を読み、聖書を語る。
3. 金持ちとは誰か
ここで語られている「金持ち」とは単に裕福な人という意味ではない。先週の旧約聖書(アモス8:4-7)では、ここで語られている「金持ち」といわれる人間たちが如何にしてその富を築いてきたかということが語られている。不正な手段によって、弱い立場にいる人々を踏みつけ、誤魔化して富を築いてきた連中である。また、本日の旧約聖書(アモス6:1-7)では、「金持ち」といわれる人間たちの実体が暴露されている。彼らは国家の危機、民族の危機、世界の危機に心を痛めること無く、自己の利益のみを追求している。これが預言者アモスの言葉である。何か昔のこととは思えない。平和を求め、戦争を嘆く現実の中で、戦争によって儲けている人間たちがいる。彼らは口で平和を語りつつ、戦争を企み、自分たちの利益を求めている。このことを語り出すと現在のことと直接に結びつき、社会のあらゆる局面での出来事を批判しなければならなくなるので、後は省略する。
聖書をていねいに読むならば、この世の価値観がそのまま神の価値観と一致するものとは到底思えない。「あの世」という神話的な世界を作り上げ、価値の転換を願うまでもなく、もう既にこの世において、神の目から見るならば価値の転換は明白に見える。実は、そのことを語っているのが聖書である。もう一度言おう。聖書をていねいに読むならば、現在、この世界において目には見えないが、金に執着している人々、贅沢三昧に生活している人々、貧しい人々に全く関心を寄せない人々の惨めな姿が見えるではないか。イエスと共に貧しい者として生きる者の目には、今既にアブラハムの祝宴に与っている幸せが見えるではないか。このラザロの物語を遠い将来の出来事として読んではならない。まさに「今、ここで」の出来事である。
ラザロの警告 ルカ16:19-31
1. 金持ちとラザロの物語
一人の金持ちがいた。彼は毎日贅沢に遊び暮らしていた。この金持ちの家の門前にはラザロという貧乏人が座っていて、物を乞うて飢えをしのいでいた。ラザロは全身できものでおおわれ犬が来て、ラザロのでき物を舐める。ある日、かわいそうなラザロは死に、金持ちも同じように死ぬ。
舞台はガラリと変わり、「あの世」となる。「あの世」では立場は逆転し、貧乏人ラザロは民族の祖アブラハムの宴席に座っている。金持ちは陰府で炎に包まれてもだえ苦しんでいる。金持ちはアブラハムに「ラザロをよこして、指先を水で浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と頼む。アブラハムは両者の間には「大きな淵」があって越えることができないと答える。
この物語は明らかに当時の宗教的民話であり特に新約聖書的な特徴は見られない。一体この物語は誰に向かって、何を語ろうとしているのだろうか。この箇所の直前に、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」(ルカ16:14)とある。「あざ笑う」という態度は軽蔑の気持ちを態度に表して、自分自身の賢さや正しさを「みせびらかす」(16:15)行為である。多くに人はそれを見て、「あざ笑われている人」を軽蔑し、「あざ笑う人」を尊敬する。
イエスは彼らに誰でも知っている民話を語る。こと自体が一つのメッセージを示している。
「金に執着する」とはこの世の価値だけに執着していることを意味する。つまり、永遠的なものに価値を見ようとしない連中である。あなたたちはこの世では贅沢三昧の生活をしているかも知れないが、それがどうだというのだ。あの世では逆転が起こるのだ。その時、どんなに嘆き、わめいても手遅れである。最終的な勝負は生きている間の生き方の問題で決まる。
問題はそれは死後のことであり、死後に価値の逆転があるという根拠は何か。貧乏人がそれを信じ、貧しさに耐えていてもいいが、そんなことは虚しい幻に過ぎないではないか。彼らのあざ笑いは止まらない。ここまでがこの物語の前半である。これには後半がある。
2. 「モーセと預言者に耳を傾けないのなら」
金持ちは5人の兄弟がおり、彼らはまだ生きており死後の世界の秘密を知らない。彼らはこの金持ちが生きていたのと全く同じように目の前に居る貧乏人のことを心にも止めず、贅沢三昧な生活を楽しんでいる。そこで、この金持ちはアブラハムにラザロを死後の世界から「この世」に戻し、5人の兄弟たちに死後の生活のことを知らせ、現在の生き方を改めさせて欲しいと願う。ところがアブラハムはそんなことをしても無駄であると答える。なぜなら、このことについてはすでにモーセと預言者たち、つまり聖書が語っていることであり、聖書の言葉に耳を傾けるならば分かっているはずである。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。
「あの世」つまり死後の世界と「この世」とをつなぐ関係、もっと具体的にいえば、人間は死んだ後どうなるのかというメッセージの根拠が問題である。この物語では、多くの人々が単純に考えるように、死んだ人が「あの世」に行って、「あの世」を経験して、もう一度「この世に」戻ってきてくれたら、「あの世」のことを信じることが出来るという発想である。このような考え、ないしは願望は古代だけではなく、現代人にもある。日本の伝承では青森県の恐山のイタコが有名であるが、全国各地に「口寄せ」とか「霊媒」の伝承はある。現在では多少姿を変えて占い師というような姿で時々テレビ番組にも登場している。ラザロの物語ではそのことについて、アブラハムの言葉として「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と宣言されている。むしろ、死後の世界のこと、というより現在の価値観が将来の世界においては逆転するということについては「モーセと預言者」の言葉に耳を傾けよ、と語る。つまり、それは聖書をしっかり読むならば明白である。このイエスの話はファリサイ派の人々にとっては大変な皮肉であり、挑戦でもある。彼らこそ、実は聖書の専門家として自他共に認められていたのである。ところが聖書の専門家であるはずの彼らが「あの世」での価値の転換を否定し、この世での価値観がそのままあの世でも通じるかのように説教し、金持ちたちを喜ばせている。彼らはそのために聖書を利用している。ここが重要なポイントである。彼らも聖書の専門家として聖書を解釈し、聖書の教えを説く。しかし、貧乏人にいくらいい説教をしても金にならないが、金持ちが喜ぶ説教をすれば金になる。しかしイエスの視点は異なる。イエスは貧乏人の立場に立って聖書を読み、聖書を語る。
3. 金持ちとは誰か
ここで語られている「金持ち」とは単に裕福な人という意味ではない。先週の旧約聖書(アモス8:4-7)では、ここで語られている「金持ち」といわれる人間たちが如何にしてその富を築いてきたかということが語られている。不正な手段によって、弱い立場にいる人々を踏みつけ、誤魔化して富を築いてきた連中である。また、本日の旧約聖書(アモス6:1-7)では、「金持ち」といわれる人間たちの実体が暴露されている。彼らは国家の危機、民族の危機、世界の危機に心を痛めること無く、自己の利益のみを追求している。これが預言者アモスの言葉である。何か昔のこととは思えない。平和を求め、戦争を嘆く現実の中で、戦争によって儲けている人間たちがいる。彼らは口で平和を語りつつ、戦争を企み、自分たちの利益を求めている。このことを語り出すと現在のことと直接に結びつき、社会のあらゆる局面での出来事を批判しなければならなくなるので、後は省略する。
聖書をていねいに読むならば、この世の価値観がそのまま神の価値観と一致するものとは到底思えない。「あの世」という神話的な世界を作り上げ、価値の転換を願うまでもなく、もう既にこの世において、神の目から見るならば価値の転換は明白に見える。実は、そのことを語っているのが聖書である。もう一度言おう。聖書をていねいに読むならば、現在、この世界において目には見えないが、金に執着している人々、贅沢三昧に生活している人々、貧しい人々に全く関心を寄せない人々の惨めな姿が見えるではないか。イエスと共に貧しい者として生きる者の目には、今既にアブラハムの祝宴に与っている幸せが見えるではないか。このラザロの物語を遠い将来の出来事として読んではならない。まさに「今、ここで」の出来事である。