落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 教会の責任 マタイ 14:13-21

2008-07-26 08:45:40 | 講釈
2008年 聖霊降臨後第12主日(特定13) 2008.8.3
<講釈> 教会の責任 マタイ 14:13-21

1. 5つのパンと2匹の魚
この奇跡物語は、3つの共観福音書がすべて記録し、ヨハネの福音書までがこれを記録している。このこと自体が異例のことである。つまり、この物語はそれほどイエスを語る際に重要であり、資料的にもかなり初期の段階から一般に普及していたことを物語っている。
基本的にはマルコによる福音書に基づき、細部においてそれぞれの福音書の特徴が形成されている。本日は、マルコによる福音書と対比しつつ、マタイによる福音書のメッセージを考えたい。
まず、基本的なストーリーを確認しておく。イエスは12弟子を2人1組にして周辺の町村に派遣した。彼らがその宣教旅行から帰還したとき、イエスは弟子たちを静かな場所で休養させようと望んだ。マタイでは、文脈上弟子たちの派遣の記事がかなり前(10章)で取り扱われている関係で、明記されていない。ただ、「人里離れたところに退かれ」ようとしたが、「群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った」ということろから物語は始まる。
イエスはいつものような群衆と一緒にいた。夕方になったが、群衆はイエスから離れようとしない。弟子たちは群衆を解散させようとした。しかし、イエスは群衆に食事を提供したいと思った。群衆の数は5000人程であった。5000人の人々に食事を提供するためには少なくとも200デナリ(労働者200日分の給料に相当する)は必要であろうというのが弟子たちの勘定であり、そんな金はないことはもちろん、たとえ金があったとしてもパンそのものを確保する方策はなかった。彼らの手元にあった食料は5つのパンと2匹の魚だけであった。イエスは群衆を草の上に座らせて、5つのパンと2匹の魚を取り、祈り、配ると、すべての人がそれらを食べて満腹した。パンの残りと魚の残りを集めると12の籠にいっぱいになった。
この奇跡物語からできるだけメッセージ性を除去した「裸のストーリー」は以上のようなものであろう。もちろん、このような形で伝承されたとは考えられない。一つの物語を伝承するということは語り手から聞き手に対してメッセージを伝達するための営みであり、当然メッセージ性のない伝承物語はあり得ない。従って、上記の「裸のストーリー」は作業仮説である。しかし、この作業仮説を立てることによって、それぞれの福音書記者は、どの部分をどのように補い、変更し、時には削除したのかが明白になり、そのメッセージが浮かび上がってくる。
先ず最初に抑えておかねばならない点は、事実はともかくとして、すべての福音書がこの物語を「事実」として「あったこと」として語っているということである。先週まで3回シリーズで譬え話が取り上げられた。しかし、この奇跡物語は決して譬えではない。単なる物語ではない。事実、イエスがなさったこと、5000人の人間が体験し、特に弟子たちが直接に参加し、経験したこととして語られている。この「ありそうもない出来事」を福音書は「あったこと」として語っている。
昔から、この奇跡物語を多くの学者たちはいろいろと解釈してきた。先ず第1の解釈は旧約聖書におけるイスラエルの民が40年間天からのマナによって養われたという出来事を受けてこういう物語が生まれたのであろう、という解釈である。この解釈の発端はヨハネ福音書の6章に見られる。そこでは、イエスご自身が「天よりのパン」として語られている。要するに、そこではこの奇跡物語を「一つの譬え」としている。また、こういう解釈もある。最後の晩餐に起源を持つ聖餐式が教会の中で確立して後、この聖餐式を下敷きにしてこの奇跡物語が構成されたという解釈である。これもありそうであるが、何かもっと根本のところで「違うな」という感じが残る。さらに、この奇跡物語を倫理的に考えて、5000人の人々は本当はそれぞれ自分のパンを隠し持っていたが、他の人々が持っていない様子なので「出し渋っていた」が、幼な子とイエスとが「惜しみなく」自分の僅かのパンと魚を多くの人々に分け与えようとする姿勢を見て、みんなが自分のものを出し合うようになった。ある意味では、この解釈が最もありそうであるが、余りにも合理化し過ぎて、この物語の持つ迫力や、自然さが失われて、肝心のことがすっぽぬけてしまうような気がする。じゃ、どう考えたらよいのかとすると、全く手が出せなくなる。
この物語の持つ素朴さ、驚き、そしてその後のイエスの行動等を考えるとき、わたしたちはこの事件が現実にはどういうことであったのか、ということを抜きにして、先ずこの物語そのものを単純に受け止め、イエスとはどういう方なのかということに焦点を絞って読む必要があるように思う。
2. マタイ福音書の特徴
先ず、気が付くマタイ福音書とマルコ福音書との大きな違いは、パンの奇跡の前段階でマルコ福音書では「いろいろと教え始められた」(マルコ6:34)とあるが、マタイ福音書では「その中の病人を癒やされた」とだけあり、教えていない。ルカ福音書では、もう少していねいに「神の国について語り」(ルカ9:11)とある。これは面白い。すでに何回も見てきたようにマタイはイエスの説教や教えに強い関心を示している。にもかかわらず、ここでは病人を癒やしているが教えていない。なぜ、マタイは「教えること」を省いたのか。これは謎である。
次ぎに、「(群衆に)自分で村へ食べ物を買いに行かせようとした弟子たち」の態度に対して、イエスは「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」とかなり強い語調で命じる。この「行かせることはない」という言葉はマルコ福音書にもルカ福音書にもない。
第3の違いは、マタイは200デナリ云々の議論を省略し、弟子たちに「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」と反論させる。ここにはイエスと弟子たちとの間にかなり険悪な空気が流れる。文章の流れとしては200デナリ云々とか、「パンはいくつあるか」というイエスの言葉は、いわば険悪な空気を和らげる作用をしていることがわかる。つまり、マタイはあえてそれを省くことによって、イエスと弟子たちとの対立を強調している。
第4に、残こったパンと魚について、マタイは魚のことを無視する。
最後に、食べた人数を述べるときにマタイは「女と子供を別にして」という言葉を補う。これは女性に対する差別というよりも、人数の水増しであろう。
3. マタイのメッセージ
以上、「5つのパンと2匹の魚」の出来事を語るに際して4つの福音書が共通して語る、この出来事自体の持つメッセージはハッキリしているが、その中でも、とくにマタイが強調している点が明らかになってくる。要するに「行かせることはない」という言葉である。この物語において、この言葉に意識を集中するとき、この言葉は非常に迫力がある。「行かせることはない」。この言葉の裏には、「わたしが居る」。「わたしが空腹を満たす」。「よそに行く必要なない」。「なぜ、ここにわたしが居るのに、余所に行かせるのか」。こんなメッセージが響いてくる。
その言葉は、あの言葉と響き合う。あの言葉はマルコにはない。荒れ野でイエスが空腹であったとき、悪魔がイエスを誘惑し、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)。あの時、イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という聖書の言葉で、悪魔の誘惑を退けた。しかし、問題が解決したわけではない。人々は飢えている。神の言葉にも飢えているが、肉体の糧にも飢えている。イエスにとって、これら2つの糧は別なものではない。このパンの出来事は、あの時の悪魔の誘惑に対する答えである。
マタイが描く、この物語においては、イエスは群衆に対して教えもしないし、説教もしない。ただ、病気を癒やし、餓えを満たす。徹底的に肉体に関わるイエスである。イエスにとって、肉体の問題と霊の問題とは分けられない。1つである。
4. 教会の責任
しかし、弟子たちは違う。弟子たちにとって、餓えの問題は個人的責任の問題として処理しようとする。各自で自由の自分の問題として解決せよ、と言って突き放す。それが、不可能な状況であるということは明白であっても、それを担おうとしない。
肉体の問題、日常生活の問題、生きるという問題を抜きにした「霊の共同体」とは何か。そんなものは、あってもなくてもいい「仲良しクラブ」にすぎないであろう。お互いが、お互いの全生活を担い合うところに、真の共同体は成立する。教会とはそういう共同体である。教会から、各個人の人生の問題、生活の問題を切り離してしまった近代以後の民主社会の根本的問題はここにある。教会はどこまでも生活共同体でなければならない。マタイのメッセージはここにある。

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