落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第12主日(特定13)説教 教会の責任

2008-07-27 15:23:41 | 説教
2008年 聖霊降臨後第12主日(特定13) 2008.8.3
教会の責任 マタイ 14:13-21

1. 5つのパンと2匹の魚
この物語は4つの福音書がすべて記録している。このこと自体が異例のことで、この物語はそれほどイエスを語る際に重要であり、資料的にもかなり初期の段階から一般に普及していたのであろう。しかも、すべての福音書がこの物語をイエスがなさったこと、5000人の人間が体験し、特に弟子たちが直接に参加し、経験した実話として語っている。
それでは、いったい何があったのか。ただ、4つの福音書がすべてこれを記録しているといっても細部ではかなり違いがある。そこで、先ず、それぞれの著者の主張をできるだけ除去して、出来事だけを整理すると以下のようになる。
イエスはいつものような群衆と一緒にいた。夕方になったが、群衆はイエスから離れようとしない。弟子たちは群衆を解散させようとした。しかし、イエスは群衆に食事を提供したいと思った。群衆の数は5000人程であった。5000人の人々に食事を提供するためには少なくとも200デナリ(労働者200日分の給料に相当する)は必要であろうというのが弟子たちの勘定であり、そんな金はないことはもちろん、たとえ金があったとしてもパンそのものを確保する方策はなかった。彼らの手元にあった食料は5つのパンと2匹の魚だけであった。イエスは群衆を草の上に座らせて、5つのパンと2匹の魚を取り、祈り、配ると、すべての人がそれらを食べて満腹した。パンの残りと魚の残りを集めると12の籠にいっぱいになった。
この奇跡物語からできるだけメッセージ性を除去した「裸のストーリー」は以上のようなものであろう。もちろん、このような形で伝承されたとは考えられない。一つの物語を伝承するということは語り手から聞き手に対してメッセージを伝達するための営みであり、当然メッセージ性のない伝承物語はあり得ない。「裸のストーリー」に何を加え、何を強調し、何を省いたのかということで、著者自身が語ろうとするメッセージが浮かび上がってくる。
この出来事の不思議さを「科学的に」あるいは「心理的に」説明しようとする努力はすべて空しい。この物語の持つ素朴さ、驚き、そしてその後のイエスの行動等を素直に受け止め、イエスとはどういう方なのかということに焦点を絞って読む必要があるように思う。
2. マタイのメッセージ
この物語で、マタイがとくに強調するのは、「(群衆に)自分で村へ食べ物を買いに行かせようとした弟子たち」の態度に対して、イエスは「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」とかなり強い語調で命じている場面である。この「行かせることはない」という言葉はマルコ福音書にもルカ福音書にもない。マタイはこの言葉を強調するために、マルコが述べている、200デナリ云々の議論を省略し、弟子たちに「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」と反論させる。この言葉によって、イエスに対する弟子たちかなり険悪な空気が感じられる。
要するに、マタイはこの「行かせることはない」というイエスの言葉に注目する。それで、わたしたちも、この言葉に意識を集中するとき、この言葉は非常に迫力がある。「行かせることはない」。この言葉の裏には、「わたしが居る」。「わたしが空腹を満たす」。「よそに行く必要なない」。「なぜ、ここにわたしが居るのに、余所に行かせるのか」。こんなメッセージが響いてくる。
その言葉は、あの言葉と響き合う。あの言葉はマルコにはない。荒れ野でイエスが空腹であったとき、悪魔がイエスを誘惑し、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)。あの時、イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という聖書の言葉で、悪魔の誘惑を退けた。しかし、問題が解決したわけではない。人々は飢えている。神の言葉にも飢えているが、肉体の糧にも飢えている。イエスにとって、これら2つの糧は別なものではない。このパンの出来事は、あの時の悪魔の誘惑に対する答えである。
マタイが描く、この物語においては、イエスは群衆に対して教えもしないし、説教もしない。ただ、病気を癒やし、餓えを満たす。徹底的に肉体に関わるイエスである。イエスにとって、肉体の問題と霊の問題とは分けられない。1つである。
3. 教会の責任
しかし、弟子たちは違う。弟子たちにとって、餓えの問題は個人的責任の問題として処理しようとする。各自で自由に自分の問題として解決せよ、と言って突き放す。それが、不可能な状況であるということは明白であっても、それを担おうとしない。
肉体の問題、日常生活の問題、生きるという問題を抜きにした「霊の共同体」とは何か。そんなものは、あってもなくてもいい「仲良しクラブ」にすぎないであろう。お互いが、お互いの全生活を担い合うところに、真の共同体は成立する。教会とはそういう共同体である。教会から、各個人の人生の問題、生活の問題を切り離してしまった近代以後の民主社会の根本的問題はここにある。教会はどこまでも生活共同体でなければならない。マタイのメッセージはここにある。

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