落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 聖なる神  詩99

2011-02-28 20:02:42 | 説教
S11E09 Ps099(L) 大斎節前主日 2011.3.6
<講釈> 聖なる神  詩99
1. み名が聖とされますように
聖公会の信徒たちが他教派の人たちと一緒に礼拝を捧げる時に困ったことがある。それが主の祈りの始めの「み名が聖とされますように」という部分である。現在ではカトリックとは主の祈りが共通になっているので問題はないが、プロテスタント諸教会ではだいたい日本キリスト教団の主の祈りを用いており、そこでは「ねがわくはみ名を崇めさせ給え」となっている。それは翻訳文の違いではあるが、何故こんなに違うのだろうか。この言葉はマタイ福音書6:9からとられているが新共同訳では「御名が崇められますように」と訳されている。そうすると聖公会訳の方が変なのかというと、むしろ原文では「聖い(ハギオス)」という形容詞をそのまま動詞化して、さらにそれを受身形で表現しているのであるから「御名が聖められますように」という意味であり、その意味では聖公会の方に分がある。
それでは御名が聖とされるとは一体どういう意味なのか。この場合、聖とはただ単に清いとか美しいとかいうことではない。むしろ聖とは神そのものの特性というか、神が神であることが聖ということで、神の名を聖とするということは言葉の循環である。むしろ、主の祈りにおいて「み名が聖とされますように」という祈りの言葉の裏側に、人間が人間であることを願う祈りが含蓄されている。神が神であるように、人間が人間であるようにという願いである。この際、ついでに触れておくと、ここで「み名」という言葉は神そのものを指すのはあまりにも勿体ないことなので挿入された一種の間接的表現である。
2. 「神は聖なる方」
詩99では「神は聖なる方」という言葉が3回(3,5,9)も繰り返されている。この詩の主題は明らかに「わたしたちの神、主は聖なる方」(9節)ということで、そのことを語る「思想的な詩」(関根、96頁)である。旧約聖書においては「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト20:7、申命記5:11)という信仰が徹底し、神の名前さえ忘れ去られるほどであった。ここで注目すべきことは、この禁止命令には罰則が付いていることである。「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」。このことは神が聖であるということの内容を示している。つまり人間は神の領域に「みだりに」立ち入ってはならないという命令である。神が聖であるという意味は、神と人間とは隔絶した関係にあるということに他ならない。
ヘブライ語の「聖(カドッシュ)」という単語の意味は徹底的な分離を意味する。つまり神は聖であるという意味は神の他者性を意味している。すでに述べたように、詩99では「神は聖なる方」という表現が3回繰り返される。神が聖なる方であるということが3回繰り返されるということには深い意味がある。イザヤ書において、イザヤという青年が神に選ばれて預言者になるという決意をした場面で、厳かな幻を見せられる。天において天使セラフィム(ケルビム)が神の周りを飛び交いながら、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と歌う場面がある(イザヤ6:2-3)。神の聖性について語るとき3回繰り返されるということは非常に興味深い。旧約聖書における神の特徴は「聖なる方」ということでこの聖性つまり他者性にある。カレン・アームストロングという女性の学者はイザヤのこの部分を「他者なり、他者なり、他者なり」と訳しているのは興味深い(K.Armstrong『神の歴史――ユダヤ・キリスト・イスラーム教全史』65頁)。
3. ケルビムに座し
詩99:1にケルビムが登場するが、ケルビムとは創世記3:24に登場する天使(?)でエデンの園から追放された人間が命の木に近づくのを防ぐ役割を担っている。後に神の臨在を象徴する神の箱が作られた、その箱の上に全部金で覆われた「贖いの蓋」が置かれた。この蓋の上に翼を広げたケルビムが2体1対、向かい合い、顔を下を向き、贖いの蓋を守る姿勢になっていた(出エジプト25:18-22)。神が民に何かを語り帰る場合に2体1対のケルビムの間から語ることになっていた(民数記7:89)。つまり、そこに神がおられるのである。
4. 詩99の構成
詩99は「主は聖なる方」という言葉によって3つの部分に分けられる。
a 1-3節 世界の中心に座する主
b 4-5節 イスラエルに注がれた主の愛
c 6-9節 応える主
詩人は先ず最初の部分において,神は世界の中心に座する「聖なる方」として描く。「主は王。すべての民はおそれおののく。神はケルビムに座し、地は震えおののく」(1節)。この「主」という言葉は「わたしたちの神」と同意語である。わたしたちの主である神が、ただ神であるというだけですべての民は恐れおののく、と言う。「神はケルビムに座し、地は震えおののく」という言葉は同じ意味の言葉の言い換え。2節の「シオンにいます主は偉大、すべての民にあがめられる」という言葉も同じ意味であり、3節の「偉大なみ名はたたえられる。神は恐るべき、聖なるかた」も同様である。「恐れおののく」も「震えおののく」も「あがめられる」も同じ意味の言葉の言い換えである。ここでは徹底的に人間から隔絶した神として「聖なる方」と宣言される。
第2の部分では、その神が「わたしたちの主」であることが宣言される。神の主要な働きは「審き」である。この場合の審きとは審判というよりも統治という意味が強い。イスラエルにおける王の主要な働きがここに反映している。神は王として民の統治することを「愛している」という。「愛の統治」ということではなく「統治すること」を喜ぶという意味である。神はわたしたちを統治することを喜こび、愛している。従って人びとを統治することを喜びとしない王に対しては厳しい神でもある。イスラエルの人びとは現実の王の統治の背後に、神のよる統治があることを確信していた。この確信が崩れるとき、神は王を交替させる。この厳粛な事実を経験し、彼らは神に対する畏れをますます深める。この部分も「神は聖なる方」という言葉で結ばれる。
神と実際に民族を指導するリーダーとの関係が6節から8節で語られる。ここで祭司と預言者の名前があげられているのに、王の名前がないことは意味深長である。この詩人は王制に対する批判があったのか。あるいはこの詩の原型は王制成立以前のものなのか。議論が分かれるところである。7節の「雲の柱」は荒野における40年の放浪の時代を思い起こしている。あの時代、イスラエルの民は繰り返し神に対して不平、不満、不信を繰り返した。その度に、モーセの執り成しによって神の赦しを経験した。イスラエルの民と神との原関係は荒野の放浪にあった。
9節の「わたしたちの神、主をあがめ、尊い山で伏し拝め。わたしたちの神、主は聖なるかた」はこの詩の結論である。もちろんここで述べられている「尊い山」とはエルサレムの神殿を意味していることは間違いない。しかし豪壮な神殿での礼拝の原点は荒れ野の幕屋にあることを片時も忘れてはならない。あそこで私たちは「聖なる神」を経験したのだ。
5. 旧約聖書の神とキリスト教の神
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神はイエスの神でもある。さらにキリスト教ではイエスも神だという。イエスにとっても神は詩99の聖なるかたである。神の名をみだりに唱えてはならない神である。神は崇めるべき方ともいう。しかし現実的に見てキリスト教の神は旧約聖書の神に置いて強烈に主張されていた何かが失われている。キリスト教においては神の愛が強調されすぎて、聖なる神という点が薄れているのではなかろうか。
その一つの点が、神を崇めるということに隠されている。詩99においては神の聖性と共に「わたしたちの神、主を崇め」(5、9)と呼びかけられている。神は聖である、だから神を崇める。主の祈りの日本語訳で二つの訳語があった。その秘密はここにある。「神を聖とする」ということと「神を崇める」ということとは同じことなのである。さて、ここにもう一つ隠されていることがある。崇めるという日本語はもう一つ意味がある。「祟る、祟り」という言葉と「崇める」という言葉とは同じ漢字が用いられている。つまり、崇めるべきものを崇めないと、祟られる。人間が「みだりに」神の領域に立ち入ると祟りがある。それが旧約聖書の神は「祟る神」である。ところが、その神が、とくに現代においては祟らない神になっている。つまり、罰が当たらない。キリスト教用語の中から罰ということが消えてしまった。それは言い換えると神の聖性の喪失に他ならない。ついでに言うと、「みだりに」という言葉も死語になっている。古い祈祷書では聖餐式の前に会衆に読み聞かせ得るべき「勧告」の言葉があった。その中で「そもそもこの聖奠は、これを受くる人に神の力を与うるものなれども、みだりにこれを受くるは、いと危うきことなれば、」という言葉があった。ところが現行の祈祷書では、この勧告そのものが消えてしまった。これはまさに象徴的なことで現在の聖公会の信仰においては、「みだりに」という言葉を消すと共に「祟る神」も消され、ただ「神を崇める」ことだけが語られている。主の祈りにおいて「み名が聖とされますように」と訳すことに拘った先輩たちの信仰は忘れられている。

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