落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

顕現後第8主日説教 「神に向かって沈黙  詩62」

2011-02-24 11:35:56 | 説教
S11E08 Ps062(S) 顕現後第8主日 2011.2.27
神に向かって沈黙  詩62
1. 「セラ」について
新共同訳を見ると、この詩には4節の終わりと8節の終わりに「セラ」という言葉が用いられている。これが用いられている文脈を見るとおそらく「休息」ないしは「沈黙」という意味であろう。言葉の中での沈黙。どれほどの長さなのか、その間楽器が鳴らされていたのか。全くわからない。しかし言葉の間に沈黙の時間があるということは非常に興味深い。その意味では沈黙も言葉の一種である。否、時には言葉以上に多くのことが語られているとも言える。詩62ではこの「セラ」は非常に重要な意味を持っている。ここで沈黙することによって、この詩自体が生き生きとしてくる。
2. 詩62の構造
第1段では先ず1-2節で神を信頼している自分自身を語り、3-4節で自分自身ないしは仲間に対して執拗な攻撃を繰り返す敵の悪辣な手段が述べられ、そこでしばらく沈黙する。第2段では、先ず、1-2節の言葉を多少変更を加えて繰り返され(5-6節)、続いて神に信頼を寄せる自己を語り、友に向かって神を信頼することを呼びかけ(7-8節)、しばらく沈黙する。第3段で、人間の弱さと頼りなさ、つまり人間を頼りにすることの空しさを語り(9-10節)、最後のまとめの段では神を信頼する根拠として神の言葉を語る。
3. 一つの事件
この詩の背景には一つの事件があった。詩人は事件そのものの具体的な事柄を全て「削ぎ落として」いるので、それがどういう事件で、何時のことかはっきりしていない。ただ、この事件の核心部分だけを次のようの語っている。この部分については祈祷書訳では明確でないので新改訳聖書で紹介する。「おまえたちはいつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁が、ぐらつく石垣のように、まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中でのろう」。実にひどい事件である。一人の結構高い地位にいた者を何らかの理由で攻撃し、引きづり落とし、殺そうとしている。あるいは、実際になぶり殺しにしたのかもしれない。この詩人自身がそのターゲットであったというよりも、それを見ていて手出しができなかったのであろう。1-2節および5-6節の繰り返しは、ターゲットとされた人物の最期の言葉(辞世の句)だったのかもしれない。だからこの句では「私の救い」、「私の岩」、「私の救い」、「私の砦」、「私は揺るがない」という単数一人称が印象的である。
1節の「わたしは静かに神を待つ」を新共同訳では「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と翻訳している。「静かに」と「沈黙」とはかなり違う。「静かに」は音を立てないという消極的な表現であるが、「沈黙」は口を開かないという行動、決意のような積極性がある。それを支える言葉が「わたしの魂」である。原文では「待つ」単語は用いられていない。ただ、神に向かうという前置詞があるだけである。詩人はここで神に向かって語りかけたいこと、言いたいことが沢山ある。しかし今は何も言わない。言わないが、決して神から逃げているのでも、神を無視しているのでもなく、わたしの全身全霊は神に向かっている。次は神の方から何かを仕掛けてくる番だという期待が全身全霊は滲み出ている。ある詩編の研究者(ヴェスターマン)は、この事件について「捕囚後の時代、イスラエルは大国の属州であり、共同生活をする上で、古い信仰に固執する人びととそれに反対する人びととが激しく対立していた」と推測する。おそらくターゲットされた人物は一人であったがその背景にはこのような対立があったのであろう。9節-10節には、攻撃をしている人びとのことについて次のように述べている。彼らは暴力により、あるいは貧しい者を搾取することによって権力と富とを築いた連中である。そんなものは権力でも富でもない。「(彼ら)はみな、通り過ぎる風、頼りにはならない。はかりにかけて、その重さは息より軽い」。
4. ホンモノの力とは
最後に詩人はわたしたちが頼りにすべきホンモノの力とは何かということについて語る。
11節の「神は一たび語られ、わたしは再びこれを聞いた」という言葉は何を意味するのか謎である。語られた神の言葉の内容は「力は神のもの」ということであろう。神はそれを一度語られた。そこまではいい。それをわたしたちは「二度聞く」とはどういう意味か。関根正雄はそれを「ヤハウェは一つのことを言われた。二つのことをわたしは聞いた」と解釈し、神の力とは神の主権性を意味し、そこには神の「慈しみ」も含まれるもので、「力と慈しみ」が二つで一つであることが含蓄されているという。カトリックの典礼委員会訳でも同様に「神は一つのことを語られ、わたしは二つのことを学んだ。力は神のもの、いつくしみもまた主のもの。つまり、ここではホンモノの力、人を裁く権力には当然のこととして慈しみが含まれている。慈しみのない権力は暴力に過ぎない。そういう暴力はやがて別な暴力によって滅ぼされる。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)。慈しみを含まない権力は信頼するに足りない。詩人はこの出来事を通して、真の権力、力には慈しみが含まれることを学んだ。

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