落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第21主日(特定23)説教 新しい人生への決断  ルカ17:11-19

2013-10-08 10:54:01 | 説教
みなさま、
大型台風24号が九州の福岡を目指して急接近中の中で、次週の説教をお送りします。この歳になって、今頃とお笑いになるかもしれませんが、最近、聖書のみ言葉をそのまま素直に読むという形の説教を覚えました。もちろんこれもテキスト次第でそういう訳にはいかない場合もあり、この形が一番ふさわしいテキストもあります。先日取り上げた「ほめられた管理人」(通常は「不正な管理人」と呼ばれている)の話や、今回のテキストなどは、素直に読むということがもっともふさわしいように思います。この形の説教をするということは八幡聖オーがスチン教会の信徒たちとの交わりの中で学びました。

S13CT23(S) 2013.10.13
聖霊降臨後第21主日(特定23)説教 新しい人生への決断  ルカ17:11-19

1. とにかく読んでみよう。
この物語は多くの問題を含んでいる。そしてその問題点に絡まれてしまうと、焦点が分からなくなる。むしろそれらの問題を無視して素直に読むとかえって明瞭なメッセージが浮かんで来る。

11-13 <イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。>
「イエスはエルサレムへ上る途中」、この言葉には特別な意味はない。ルカはこの話をイエスのエルサレム旅行への道中話として語る。
「サマリアとガリラヤの間」。実際の旅行記として見るとこの旅程にはかなり無理がある。いうならば、そこはサマリアでもなくガリラヤでもない空間。文学的にいうならば、「地図にない場所」であろう。イエス一行はそこを通過しようとした。その道筋にある「ある村」いわば「地図にない村」であろう。イエスと弟子たちはその村に入る訳でもなく通り抜けようとした。そのとき、遠くの方から人の叫び声が聞こえる。見ると10人程の男が叫んでいる。耳を傾けてよく聞くと、どうやら「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んでいるらしい。この言葉を聞いてイエスはピンと来た。彼らは人々から忌み嫌われている重い皮膚病にかかっている人たちらしい。そうすると、「わたしたちを憐れんでください」という言葉の意味は、病気を癒して欲しいといういうことらしい。
14a <イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、>
つまりイエスはすべてを了解した。それで、今度はイエスの方も大声で叫ぶ。
14b <「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。>
この言葉を聞いた10人の男たちは戸惑ったに違いない。イエスは彼らの方に近づいて来て、頭に手を置いて「清まれ」とか言われるのではないだろうか、と彼らは予想していた。今まで聞いていたイエスの噂によるとそういう段取りになるのに、どうも今日は期待はずれか。おそらく10人の男たちは動揺したことだろう。これは私の想像であるが、議論もあったことだろう。イエスの言葉に従うべきか、なんだやっぱりダメかということでイエスに癒してもらうという期待を捨ててしまうべきか。彼らは議論の末、イエスの言葉に賭けてみようということになった。彼らの結束は固い。普通なら従う人と従わない人とで分裂する筈なのに、彼らは行動を共にすることになった。
14c <彼らは、そこへ行く途中で清くされた。>
まだ癒されない体のまま祭司のもとにいって体を見せるということは大変な勇気がいる。祭司のもとに向かう彼らの足は重かったことだろう。ところが彼ら歩き始めて暫く行くと病気が治った。重い皮膚病の場合、病気が治ったという自覚は非常に難しい事ではあるが、ここではそういう細かいことは抜きにしておこう。ともかく彼らの病気は癒された。彼らは驚いたに違いない。もう、何の心配もなく祭司のところに行ける。彼らは喜び勇んで祭司のところに向かった。
15 <その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。>
ところが病気が癒されたということが分かった時、一人の男が大声を上げた。日本語では「大声で神を賛美しながら戻って来た」と訳されているが、厳密には「大声で」という副詞は「戻った」という動詞に係っているので、ここでは「大声を上げて戻り、神を賛美した」と訳すべきであろう。ここでこの「大声を上げた」というのは何を意味するのだろうか。何か大変なことを思い出した。あるいは気付いたということか。いざ本当に治ってみると、今までユダヤ人たちと何のわだかまりもなく仲間意識を持っていたが、自分と彼ら(9人)との違いに気がついたのか。彼は自分がサマリア人であり、祭司のところに行く必要がないということに気付いたのか。そしてこの仲間たちと別れ、別行動をとらねばならないということに気づいた。それで彼は大きな声をあげたのではなかろうか。だから大声を上げるということと戻るということとが結びついている。ここをいい加減に翻訳してはならない。そして仲間たちと別れて、一人で行動する。つまり一人で生きる道を求める。とりあえず彼はイエスの所に戻り、神を賛美した。これが15節までの話である。

2. 話者の立ち位置視点
ここまでのところと、これからの部分とで語り手の立つ位置が明らかに変わる。ここまでは淡々と客観的に語って来た語り手は一つの明白なメッセージを持って語り始める。

16 <そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。>
「ひれ伏して感謝した」という言葉はいかにも教会での説教を思わせる。この言葉がなければ「感謝」を強調する物語にならない。
このサマリア人が戻って来たところはユダヤ人としてのイエスの元ではない。礼拝されるべきイエスの元に戻って来た。これは完全に教会的な視点からの発言である。従って、この「ひれ伏して感謝した」という言葉は単に病気を癒していただいてありがとうございます、というようなレベルの感謝ではなく、生活の転換を意味する感謝である。感謝の質とレベルが違う。病気を癒していただいて感謝しますではない。
17-18 <そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」。>
単に神を賛美するのであるならば、どこででも出来る。祭司のところに行ったのであるから、祭司の所で神を賛美すればいい。病が癒された彼らにとってイエスはもはや無縁の人である。その意味では一人の外国人が戻って来たことの方がはるかに驚きであっただろう。なぜこの外国人は戻って来たのか。そのことについてテキストは何も語らない。そうなると読者自身が考えなければならない。
何から考えようか。事実は1人の外国人だけが戻って来て、同胞の9人が戻って来ない。イエスは「他の9人はどこに行ったのか」と問う。9人が行った行き先は明らかである。それは彼らが病にかかる以前にいた場所に戻って行ったに違いない。彼らは社会復帰をした。彼らは喜び勇んで彼らがもと居た場所に戻った。
そこは重い皮膚病の人々や外国人を差別する社会に他ならない。彼らは司祭に体を見せて社会復帰を認められそこに戻って行った。確かにそれは彼らにとって居心地のいい場所であるに違いない。
そこまで考えると「他の9人はどこにいるのか」というイエスの言葉は質問の言葉ではなく、深い嘆きの言葉である。彼らは新しい生き方を選択できるチャンスを捨ててもとの生活に戻って行ってしまった。
しかし、この外国人だけは、いわばサマリア人社会からもユダヤ人社会からも捨てられて、いや人間社会から捨てられて「無国籍者」となっていた彼は新しい生き方を求めてイエスのもとに戻って来た。彼にとってイエスはユダヤ人でもなくサマリア人でもなく、そういう枠組みから全く自由にされた人間を示していた。彼の戻って来る場所はここにしかない。
19 <それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。>
18節との間にどれだけの時間が流れたか分からない。イエスはその男をじっと見て、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われた。イエスは私に従えとも言われない。もうあなたは自分の足で立ち上がり、自分の好きなところへ行ける。つまり自分の生き方を自分で決めることが出来る人間とされた。イエスの最後の言葉はそういう意味に受け取らねばならない。もう誰もあなたに、こうせい、ああせい、という誰かの指示のもとで生きることはない。「あなたの信仰があなたを救った」のだ。

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