落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

大斎節前主日説教 「み名が聖とされますように  詩99」

2011-03-02 20:06:02 | 説教
S11E09 Ps099(S) 大斎節前主日 2011.3.6
「み名が聖とされますように」  詩99
1. み名が聖とされますように
聖公会の信徒たちは主の祈りの始めの部分を「み名が聖とされますように」と唱えるが、プロテスタント諸教会では「み名を崇めさせ給え」と唱える。それは翻訳文の違いではあるが、この言葉の出典であるマタイ福音書6:9では「御名が崇められますように」と訳されている。しかし原文では「聖い(ハギオス)」という形容詞をそのまま動詞化して、さらにそれを受身形で表現しているのであるから「御名が聖められますように」という意味であり、その意味では聖公会の方に分がある。それでは御名が聖とされるとは一体どういう意味なのか。結論を先取りすると、聖とはただ単に清いとか美しいとかいうことではなく、神そのものの特性、神が神であることが聖ということである。従って、この祈りの真意は、神が神であるように、人間が人間であるようにという願いである。
詩99では「神は聖なる方」という言葉が3回(3,5,9)も繰り返されている。この詩の主題は明らかに「わたしたちの神、主は聖なる方」(9節)で、そのことを語る「思想的な詩」(関根、96頁)である。旧約聖書においては「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト20:7、申命記5:11)という信仰が徹底し、神の名前さえ忘れ去られるほどであった。ここで注目すべきことは、この禁止命令には罰則が付いていることである。「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」。人間は神の領域に「みだりに」立ち入ってはならない。神は人間との隔絶した関係にある。
2. 詩99の構成
詩99は「主は聖なる方」という言葉によって3つの部分に分けられる。詩人は先ず最初の部分(1-3)で、全世界に対して恐るべき神として描く。ここでは神を人間から徹底的に隔絶し方、「聖なる方」と宣言される。第2の部分(4-5)では、その神が「わたしたちの主」であると宣言される。ここで言う「審き」とは統治を意味する。神は王として民の統治し、しかも「統治すること」を喜ぶ。第3の部分(6-8)で、神と実際に民族を指導するリーダーとの関係が語られる。ここで祭司と預言者の名前があげられているのに、王の名前がないことは意味深長である。この詩人は王制に対する批判があったのか。あるいはこの詩の原型は王制成立以前のものなのか。議論が分かれるところである。7節の「雲の柱」は荒野における40年の放浪の時代を思い起こしている。あの時代、イスラエルの民は繰り返し神に対して不平、不満、不信を繰り返した。その度モーセの執り成しによって神の赦しを経験した。イスラエルの民と神との原関係は荒野の放浪にあった。
9節の「わたしたちの神、主をあがめ、尊い山で伏し拝め。わたしたちの神、主は聖なる方」はこの詩の結論である。「尊い山」とはエルサレムの神殿を意味しているが、豪壮な神殿での礼拝の原点は荒れ野の幕屋にあることを片時も忘れてはならない。
3. 「崇める」と「聖とする」との違い
日本語における崇めるの「崇」という字には「崇める」という意味の他に「たたる」という意味もある。宗教学者、山折哲雄氏は日本人の宗教心の一番ベースに流れているものは「祟る神々宥め鎮める鎮魂の儀礼」だという。こういう原始的な宗教意識というものは大なり小なり日本人以外にもあり、私はイスラエル宗教「聖なる神」という信仰にもあったと思う。それが神のみ名をみだりに口にしてはならないという戒めになったのであろう。
3  イエスの神観とキリスト教の神観
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神はイエスの神でもある。イエスにとっても神は聖なる方である。神の名をみだりに唱えてはならない神である。その信仰が主の祈りの中の「御名が聖められますように」(マタイ6:9、田川建三訳)という言葉に表されているのであろう。しかしイエスにはもう一つの神観があった。それが「父なる神」という信仰であり、この神は「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)愛の神である。神の本質は聖であると同時に愛でもある。そこではもはや「祟る神」ではない。その意味では絶対他者としての聖なる神は同時に創造者として被造者に関わる愛の神でもある。この二つがイエスの神観の最も基本的なものである。
現実的に見てキリスト教の神は旧約聖書の神において強烈に主張されていた何かが失われている。キリスト教においては神の愛、赦しの神が強調されすぎて、聖なる神、罰する神というイメージが薄れているのではなかろうか。神話的な言い方をすると、確かに「命の木に至る道」を守るためにおかれたケルビム(創世記3:24)は、イエスにおいて取り除かれた(ヘブライ10:19-22)が、神の聖性が減じられた訳ではない。神は「祟る神」ではないが「侮られる神」(ガラテヤ6:7)でもない。今、私たちに求められているものは神の聖性の再認識である。正しく神の聖性が認識されないとき、人間の自己理解(罪認識)も弱まる。

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