落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 静かに神を待つ  詩62

2011-02-22 14:02:01 | 講釈
S11E08 Ps062(L)  顕現後第8主日 2011.2.27
<講釈> 静かに神を待つ  詩62
1. 「エドトン」と「セラ」について
この詩には「指揮者によって。エドトンに合わせて。賛歌。ダビデの詩」という表題が付けられている。エドトンという言葉は詩39、詩77にも見られ、それはそれぞれ「ダビデの作」「アサフの作」と組み合わせになっているので、エドトンは人名ではないとおもわれる。むしろ前置詞「にのせて」という言葉が付いているので楽器の名称ではなかろうかと推測されている。ただし歴代史上16:42,43、25:1にはエドトンという歌手ないしは聖歌隊の名前が見られる。
もう一つ、この詩には「セラ」という言葉が用いられている。詩編全体では71回も用いられているという。この言葉の本当の意味は分からなくっているが、これが用いられている文脈を見るとおそらく「休息」ないしは「沈黙」という意味であろうかと想像される。詩の中の沈黙の時間とでも言うべきでしょうか。詩62では4節の後と8節の後ろに付いている。
2. 詩62の構造と語義
この詩の現在の形は面白い構造になっている。1節-2節の言葉がほぼ同じ言葉で5節-6節に繰り返されている。これをリフレインと考えるのか、そうだとするとここでの違いをどう解釈するのか。ただ単に1-2節を間違って入れてしまったのか。それとも関係するが、11節-12節の言葉をどう理解すべきか。ここで語られていることがこの詩全体を支えている「神の啓示」であることは間違いないが、そうだとするとこの言葉は、この詩の前の方で述べられるべきではないのか、という疑問もある。むしろ、この詩の本体部分(原型)は3節から10節までで、1-2節と11-12節とがセットになってこの詩全体を包み込む構造になっているのだという主張もある。以上のような議論は一応専門家に任せておいて、私たちは今あるままの詩62を一つの詩として味わいたい。
そうすると「セラ」という言葉でこの詩の構造を考えると1節から4節までで一段落、そこでしばらく沈黙し(セラ)、5節から8節までが第2段で再びしばらく沈黙し(セラ)、9節から10節までが第3段で、11-12節が詩全体のまとめとなる。第1段では先ず神に信頼している自己を語り、続いて自己を責める敵の悪辣な手段を述べる。第2段でも先ず神に、次に人びとに神信頼を寄せる自己を語り、第3段で、人間の弱さと頼りなさ、つまり人間を頼りにすることの空しさを語り、最後のまとめの段では神を信頼する根拠として神の言葉を語る。
3. 語義釈義
1節の「わたしは静かに神を待つ」を新共同訳では「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と翻訳している。同じようなものだと言えばそれまでであるが、違うと言えばかなり違う。「静かに」と「沈黙」とはかなり違う。「静かに」は音を立てないという消極的な表現であるが、「沈黙」は口を開かないという行動、決意のような積極性がある。それを支える言葉が「わたしの魂」である。同じように、「待つ」と「向かう」にも消極性と積極性との対比がある。では、ここでの詩人の態度はどうだったのか。原語では明らかに新共同訳を支持している。詩人はここで神に向かって語りかけたいこと、言いたいことが沢山ある。しかし今は何も言わない。言わないが、決して神から逃げているのでも、神を無視しているのでもなく、わたしの全身全霊は神に向かっている。次は神の方から何かを仕掛けてくる番だという期待が全身全霊は滲み出ている。
関根正雄先生は1節を叙述文として「待つ」と訳し、5節を命令文として「待て」と訳している。原文では「待つ」という動詞はなくただ「(神に)向かって」という前置詞があるだけである。また、1節では「沈黙」は名詞形であるが、5節では同じ語幹の動詞「沈黙せよ」が用いられている。
3節の「襲いかかる」という言葉の対象となっている「人」とは誰を指すのか不明である。祈祷書の訳ではこの「人」という言葉がほとんど無意味化している。新共同訳では「お前たちはいつまで人に襲いかかるのか」という言葉が文頭に出て来て、多少は意味が鮮明にされる。新改訳では「おまえたちはいつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁が、ぐらつく石垣のように、まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中でのろう」と翻訳しており、文意はさらに明確になる。実にひどい事件である。一人の結構高い地位にいた者を何らかの理由で攻撃し、引きづり落とし、殺そうとしている。あるいは、実際になぶり殺しにしたのかもしれない。まるで人民裁判でありリンチである。ヴェスターマンは詩62は「当時特別な状況下で起こった一つの体験から」生まれたという。その事件とは「同じ共同体に属する人びとから抑圧され、苦しめられ、迫害され」という事件があったのであろう。当時、彼(詩人)はその事件に対して全く無力であったのであろう。ヴェスターマンはその事件について次のように推測している。「捕囚後の時代、イスラエルは大国の属州であり、共同生活をする上で、古い信仰に固執する人びととそれに反対する人びととが激しく対立していた。そのような状況の中で詩人は同胞を信用できなくなっていた。
4節の「人の名誉を傷つけようと企み」という句は、新共同訳ではもっとえげつなく「人が身を起こせば、押し倒そうと謀る」と訳されている。新改訳ではもっと明瞭に「まことに、彼らは高い地位から、突き落とそうとたくらんでいる」と訳している。一種の権力闘争の色彩が感じられる。
まさに、このような状況の中でターゲットとされた人は神のみを信頼する信仰が与えられた。大胆な推測をすると、1-2節、および4-5節はこの体験の中でつかみ取った彼自身の信仰の言葉、あるいは辞世の句であったのかもしれない。従って、ここで語られ呼びかけられている神への信頼は教理でもなく、考え抜かれた結果でもなく、彼の個人的体験の言葉である。だからこの句では「私の救い」、「私の岩」、「私の救い」、「私の砦」、「私は揺るがない」という単数一人称が印象的である。
9節-10節は、詩人たちに敵対する人びとがどういう人たちなのかということを批判的に、反面教師として述べている。
9節では「身分の低い人」と「高い人」とが比較され、彼らを合算しても「息よりも軽い」と翻訳されているように読める。しかし、これでは意味不明である。新共同訳の「人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い」という訳語も意味が曖昧である。その意味ではカトリックの典礼委員会訳では「人はみな、通り過ぎる風、頼りにはならない。はかりにかけて、その重さは息より軽い」は明瞭な訳である。実はここに1つの言葉遊びがある。「身分の低い人(ベネー・アダム)と「身分の低い人(ベネー・イーシュ)」は共に「人間の子」という意味であるが、アダムは「土塊」を意味しイーシュは「男」を意味する。創世記2:23で女性に対して「イーシュから取られた者」だから「イシャー」と呼ぼうとされた言葉で用いられている。語源的に見る限り身分の上下は意味されていない。
10節の「虐げに頼らず、略奪にむなしい望みをかけず、富が殖えても心も奪われてはならない」という訳語も新共同訳では「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな」とあり、意味的には何とか理解できるが選ばれる単語によって読む者の理解には相当の差がつく典型的な実例である。要するに富とか権力の源泉とされる暴力や搾取に対する空しさを批判的に語っている。
11節の「神は一たび語られ、わたしは再びこれを聞いた」という言葉は何を意味するのか謎である。語られた神の言葉の内容は「力は神のもの」ということであろう。神はそれを一度語られた。そこまではいい。それをわたしたちは「二度聞く」とはどういう意味か。関根正雄はそれを「ヤハウェは一つのことを言われた。二つのことをわたしは聞いた」と解釈し、神の力とは神の主権性を意味し、そこには神の「慈しみ」も含まれるもので、「力と慈しみ」が二つで一つであることが含蓄されているという。浅野順一先生も同様に解し11節と12節とを一体化して「神ひとたび宣い、我ふたたび聴けり、力は神にあり、あわれみも主なる汝にあり」と訳している。カトリックの典礼委員会訳でも同様に「神は一つのことを語られ、わたしは二つのことを学んだ。力は神のもの、いつくしみもまた主のもの。
12節の後半の文章「あなたは業に応じて人に報いを与えられる」は、「どこか脈絡がないように聞こえる。多分、これは読者による補足であるらしい」(ヴェスターマン)。


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