落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>「神は偉大 詩70」

2011-11-01 10:32:17 | 講釈
S11T27Ps070(L)
2011.11.6
聖霊降臨後第21主日(特定27)<講釈>「神は偉大 詩70」

1. 詩70と詩40との比較
詩40の後半と基本的には同じ。詩40においては、この部分はかなり雰囲気が異なり、民間の流行歌の影響か、俗っぽい言葉が使われている。詩としての格調もない。おそらく、独立していた詩70を多少手を入れて詩40に書き加えたものであろうと思われる。その意図は明白ではない。単に紛れ込んだのかも知れない。

(新共同訳による)
詩70:2b以下と詩40:14b以下とは基本的に同じ。以下の変更個所は詩70を基本として述べているが、詩40を基本とすることも可能である。私自身は詩70は元来独立していた詩であるが、詩40の作者が詩40に組み入れたものと考えている。根拠は薄弱。
詩40:15の「ヤハッド」(一緒に)は詩40で補われた言葉。
詩40:15の最後の言葉「リスボタハ」(それを滅ぼそうと)も詩40で補われた言葉である。
詩70:5の冒頭の接続詞「ヴ」(そして)を詩40:17では省略されている。
詩70:5bの「エロヒーム」(神)を詩40:17では「アドナイ」(主)に変更。
詩70:6の「エロヒーム」を詩40:18では「アドナイ」に変更。
詩70:6の「フシャー」(急ぎ給え)を詩40:18では「ヤハショヴ」(思うように)に変更。
詩70:6の最後の言葉「アドナイ アル テアハル」(主よ遅れ給うな)を詩40:18の最後の言葉「エロハイ アル テアハル」(神よ遅れ給うな)に変更している。
詩70を先導する言葉は「エロヒーム レハツィレーニ」(神よ、私を救い出すために)。この句は動詞がなく、文章になっていない。元々は詩のタイトルなのかも知れない。
詩40:14の前半の言葉は「レツェー アドナイ レハツィレーニ」(主よ、私を救い出すことを 欲し給え)。

注:祈祷書の2-3節は新共同訳では4-5節、祈祷書の4節は新共同訳の5節、祈祷書の5節は新共同訳の6節の前半になっている。

2.アドナイとエロヒームの使い分け
詩40:14以下ではほとんど「主(ヤハウェ)」でただ最後の一句でだけ「エロヒーム」が用いられている。それに対して詩70ではほとんどが「エロヒーム」で「主(ヤハウェ)」は最初と最後で使われているだけである。この点についてフランシスコ会訳の解説者は、恐らく「主(ヤハウェ)」が元々の形であったであろうという。

3.詩70の俗っぽい表現
3節<「それ見たことか」とあざける者>この部分を新共同訳では「はやし立てる者」と訳している。フランシスコ会訳では詩35:21を引用して原語では「ヘアッ、ヘアッ」。軽蔑の表現と説明している。
ここで注目すべき言葉は、「恥をさらして退く」という言葉である。新共同訳では「侮られて退き」と訳されている。新改訳ではもっとはっきりと「恥のためにうしろに退きますように」と訳している。フランシスコ会訳では「退かせて恥をかかせてください」、岩波訳では喧嘩腰に「うしろにしりぞいて恥辱をおぼえよ」。岩波訳ではもっと凄い。この前に「恥じて恥じ入れ」と訳している。つまりこの2-3節は激しい言葉である。
この言葉の中心的な意味は「後に引っ込め」という点で、今まで前面に出て人々を扇動して「ヘアッ、ヘアッ」と言わせていたことを暗示している。今や、事実が明らかになり、先導者たちが恥をかく。
この詩では一般大衆が叫ぶ言葉が2つ並べられている。1つは「ヘアッ、ヘアッ」と叫ぶ言葉で、もう一つは「神は偉大な方(イグダル エロヒーム)」という叫びである。
俗っぽい表現の特徴は、ずばりと問題そのものをえぐり出す単刀直入さにある。ここでは前半で、神に従って生きようとしている私たちを笑いものにしている連中、あいつらに恥をかかせてください、と切りつけ、その返す刀で「神は偉大」と唱える私たちを急いで救い出して下さいと祈る。これが詩70である。
それで本日は単刀直入に後半の、特に「神は偉大」という言葉に焦点を合わせて考えたい。

4. 「神は偉大」(イグダル エロヒーム)
「神は偉大」という言葉は、詩40では「ヤハウェは偉大」となっている。こちらの方が元々の形であろうとと思われる。「ヤハウェは偉大」という言葉はヘブライ語では「イグダル ヤハウェ」で、聖書では思ったより少ない。専門家ではないので、日本語訳から検索するしかないが、新共同訳ではヨエル書2:20、21に2回登場するだけである。直訳に近いとされる新改訳では詩147:5の1回だけである。それに近い言葉として「主は大いなる神」が1回(詩95:3)、「主は大いなる方」が2回(詩135:5,147:5)である。しかし問題は訳語とか思想ではなく「イグダル ヤハウェ」というかけ声である。興味深いことに、この2つの単語の組み合わせを「主は偉大」と訳している個所は見当たらない。詩40にせよ詩70にせよ新共同訳では「主をあがめよ」と訳している。同様に、詩21:14、詩35:27、詩99:5、9、詩107:32のいずれも「主をあがめよ」と訳している。「あがめよ」と呼びかける言葉とあがめているその言葉とは意味が異なる。つまり、「イグダル ヤハウェ」という言い回しをかけ声として「主は偉大」と訳すことを避けているとしか思えない。何故だろう。

5.イスラーム教徒の「アッラーは偉大なり」
話は全然変わるが、イスラーム教徒は「アッラーは偉大なり」という言葉をどんなときにも繰り返し口にする。先日もTVでリビアでカダフィ大佐が拘束され、死亡したというニュースが流れたとき、リビアの人びとは銃をかざし、口々に「アッラーは偉大なり」と叫んでいた。アッラーはイスラーム教の神を意味する。イスラーム教徒にとってはアッラーの他に神はいない。その点ではユダヤ教徒がヤハウェ以外に神はいないというのと同じである。「アッラー」という単語は「神」を示すアラビア語で、普通名詞であると同時に固有名詞でもある。アッラーという言葉も元々は神々の中の最高神という意味であったが、ムハンマドが登場しイスラーム教が成立(610年)してからはアッラーのみを神とする唯一神が確立し徹底的にその他の神々が排除され、元々アラビア語の普通名詞であった神を示すアッラーという言葉が固有名詞化したのであろう。イスラーム教徒にとって「アッラーは偉大なり」という言葉には、私の人生は完全にアッラーに従うという意味が込められている。その意味ではこの言葉はいわゆる神論、神についての教え以上のものである。フセインが死刑を言い渡されたときは、「私は間違っていない。悪いのは、死刑判決を下したこいつらだ」と叫んだとされるが、それは「アッラーは偉大なり」と同じ意味を示している。テロリストがテロ行為をする時は、「殺される人には申し訳ないが、私はアッラーの御心に従い良いことをしているのだ」という自己の生命を超えた信念がある。その意味では、大日本帝国の軍人が死ぬときに「天皇陛下、万歳」と叫ぶとされたことと同じレベルの心理状況であろう。イスラーム教徒にとって、この短い言葉は自分の生き方、価値観、生き方、そして死に方の全てが込められている。イスラーム教徒はこの一言のために命をかける。

6.ユダヤ教徒にとって「ヤハウェは偉大なり」
ユダヤ人にとっても「ヤハウェは偉大なり」という言葉は、イスラーム教徒のそれと同じ意味を持っている。というよりも、歴史的にはユダヤ人の方が先であろうが、このかけ声自体はユダヤ人社会ではあまり広まらなかったようである。しかし、その発想、思想は詩70:4の「あなたを求めるすべての人はあなたのうちにあって喜び楽しみ、救いを尊ぶ人は『神は偉大な方なり』といつもたたえる」に顕著に表れている。つまりユダヤ人の社会においては「ヤハウェ偉大なり」という言葉がもつ戦闘的・民族的な意味よりも、神への賛美として展開したのであろう。しかし、この言葉自体には単なる神に対する賛美の言葉でつきるものではない。多くに人々から笑いものにされても、命を狙われるような迫害を受けても、なお「ヤハウェは偉大なり」と声を出す。
両者に共通することは、非常に短い言葉だということである。たった2語という極度に短い言葉で、信仰を言いあらわし、自分たちの価値観や言い方を言いあらわす。信仰というものは最終的にはそのような最も短い言葉で言い表されなければならないし、またそれが必要なのである。ダラダラとしてしか表現できない信仰には「まやかし」があるといったら多分言い過ぎであろうが、反省すべき点でもある。というより、ごく自然にそうなるというのが宗教の真相なのであろう。佛教でも「南無阿弥陀仏」(浄土真宗、これを唱えることを「念仏」という)とか「南無妙法蓮華経」(日蓮宗の御題目)という短い言葉で全てを言い表している。

7.キリスト教信仰では
キリスト教信仰ではそれは何だろうか。そのことを考える前に一言、唯一神信仰というものについて考えておく。世界の多くの宗教の中で一神教と呼ばれている宗教はユダヤ教、キリスト教、そしてイスラーム教である。非常に注目すべきことは、これらの宗教が唯一神として信じられている「神」は同じ神である。これは非常に不思議なことである。理屈から考えても唯一神教そのものは色々な所で発生してもいいものなのに、現実的にはこの3つしかない。しかもこれら3っつは結局同じ神を信じている。つまり3つともいわゆる「アブラハムの信仰系列」に属している。確立した順序からいうと先ずユダヤ教が紀元前数世紀前に成立し、そこからキリスト教が紀元1世紀にユダヤ教の一分派として発生し、紀元7世紀(610年)にムハンマドによってイスラーム教が誕生する。ユダヤ教ではヤハウェを唯一のエロヒーム(神)とする。その点ではキリスト教は原則的にほとんどそのまま受け継いでいる。ところがイスラーム教ではアラビア語の「神」を意味する「アッラー」という言葉をそのまま神の名前とし、固有名詞化し、普通名詞としての神という言葉を否定する。原語の違いはあるがヤハウェもアッラーも同じ神を示す。聖書の神の究極の名前は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」でまさに、それはユダヤ教の神でもあるし、イスラーム教の神でもあるし、キリスト教の神でもある。

8. パスカルの信仰告白
パスカルは聖書の神を示す言葉として「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と表現したことは有名である。一寸そのエピソードを紹介しておこう。
ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623.6.19 - 1662.8,19,フランス人)については改めて説明する必要がないほど有名である。彼はかなり早熟の天才でその才能は広く、哲学、数学、物理学と多方面に発揮された。物理学者としては「パスカルの定理」、数学者としては「三角形」の発見、哲学者としては「人間は考える葦である」という言葉が有名である。しかし彼の信仰についても重要で、その意味では宗教家であるとも言えるほどである。しかし彼の信仰について本当に知られたのは死後のことである。
実はパスカルの死後、彼の元で働いていた召使いの一人が、パスカルの胴衣の縫い込みから一枚の紙切れが発見された。それが現在では『メモリアル』と称されている遺品である。そのメモリアルには次のことが丹念な文字で書かれていた。

メモリアル(覚え書き)
キリスト紀元1654年11月23日月曜日、・・夜十時半頃から十二時頃まで。

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」哲学者や、学者の神ではない。
確かだ確かだ、心のふれあい、喜び、平和、イエス・キリストの神。
「わたしの神、またあなたがたの神。あなたの神は、わたしの神です。
この世も、何もかも忘れてしまう、神のほかには。
神は福音書に教えられた道によってしか、見いだすことができない。人間のたましいの偉大さ。
「正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知りました。」
よろこび、よろこび、よろこびの涙。わたしは神から離れていた--。
「生ける水の源であるわたしを捨てた」「我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
「どうか、永遠に神から離れることのありませんように--。
永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることであります。
イエス・キリスト
イエス・キリスト
わたしは、彼から離れていた。彼を避け、彼を捨て、彼を十字架につけたのだ。
ああ、もうどんなことがあっても、彼から離れることがありませんように。
彼は福音書に教えられた道によらなければ、とどまることを望まない。
何もかも捨て去り、心はおだやか。・・・・ イエス・キリスト、そしてわたしの指導者に心から服従する。地上の試練の一日に対して、永遠の喜びが待っている。わたしはあなたの御言葉を忘れません。
アーメン

ものすごい文章である。パスカルの純粋な信仰が告白されている。実は私にとってこのパスカルの信仰告白は非常に重要な文章である。恩師、松村克己の信仰の出発点において最も大きな影響を与えたのがパスカルである。その意味では松村はパスカルのこの告白を一生かけて追求したと言っても過言ではない。

9.これに見合うキリスト者の告白
大きく脱線してしまったが、ユダヤ教における「神は偉大なり」、イスラーム教における「アッラーは偉大なり」に匹敵するキリスト教の言葉は何であろう。パスカルなら「イエス・キリスト」という言葉がそれだと言うであろう。パウロなら、「イエスは主なり」と答えたであろう。私も結論を先取りして言うならばパウロと同様に「イエスは主なり」という言葉であると思う。ただ残念ながらこの言葉自体は新約聖書において3回しか用いられていない。書かれた順番に言うならば、
1コリント12:3
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ(アナセマ イエスース)」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である(キュリオス イエスース)」とは言えないのです。
フィリピ2:10
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
ロマ10:9
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
この言葉は新約聖書で3回しか用いられていない。しかしその3回は非常に重要である。

10.「キュリオス」
ここで用いられている「主」という言葉は旧約聖書で用いられている「ヤハウェ」とは異なる。しかし現実的には当時の信徒も、現在の信徒もほとんど同じ意味に用いている。従って同じように理解したからと言って必ずしも間違っていると断定できないが、厳密にいうと異なる。ここでの「主」という言葉はギリシャ語の「キュリオス」という言葉であるが、重要なことはその語源的な意味というよりも、初期キリスト教会が生きていた時代の用法で、当時ローマ帝国の政策として宗教統制が進められ、「キュリオス・カエザル」、つまり「カエザルはキュリオスなり」という宗教政策が強調されていた。いわば当時の全てのキリスト者は「カエザルに従うのか、イエスに従うのか」、言い換えると「カエザルがキュリオスか、イエスがキュリオスか」という問いの前に立たされていた。もちろん、この問いはキリスト者に対してだけではなく、ユダヤ人にも突きつけられた。ユダヤ人はそれに対して「ヤハウェは偉大なり」という合い言葉で抵抗し、その結末は神殿の崩壊(70年)、武力闘争派の全滅(バル・コクバの乱、132-135)、ユダヤ民族の離散という悲劇であった。(当時まだイスラーム教は成立していない。)
キリスト教徒も「キュリオス・イエスース」を旗印としてローマの迫害に抵抗した。まぁ、この場合は抵抗というよりも「逃げ回っていた」という方が真実に近いかもしれない。というよりも抵抗するほどの勢力もなかったということであろう。ただ内部的には「キュリオス・イエスース」というかけ声で励まし合い、生き残りにかけた。その意味ではまさに「キュリオス」という言葉は「神」を意味した。いわばイエスは神であるか、人であるかという問題は哲学的・神学的な課題ではなく、キリスト者の価値観、生き方の問題として理解が深められた。「キュリオス・イエスース」において重要な点はそれぞれが自分の責任において自分の口で「キュリオス・イエスース」と告白しなければならないということで、ただ心の中でそう信じているのでは無意味だという点である。しかも、それと矛盾するようであるがそれができるのは、自分の力によるのではなく霊の働きだという。この「自らの口で」という点と「聖霊によって」ということとが統一されるところで始めて「言える」ということが成立する。

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