落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第20主日(特定26)説教「受け身の人生 詩131」

2011-10-27 09:57:49 | 説教
S11T26Ps131(S)
2011.10.30 延岡聖ステパノ教会
聖霊降臨後第20主日(特定26)説教「受け身の人生 詩131」

1.語義および翻訳上の問題は
全体として語義及び翻訳上の問題はほとんどない。ただ3節に関しては詩130:7と同様に、この句は個人的な詩を「宮詣で詩集」に編入するに当たって民族の歌とするための加筆であろうと思われる。従って本来の詩は1節と2節だけである。
1節は全体として身分不相応な、あるいは能力以上のことに関わらないで生きてきた人生を語っている。
2節の前半を、祈祷書では「心静かにわたしは憩う、母の胸に休らぐ幼子のように」と訳し、現在の詩人の静かな心境が述べられている。1節の平凡な人生の結果、穏やかな老後を送っているようなムードである。果たしてそうなのか。新共同訳では「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように」というようにかなり強烈な言葉に訳されている。つまりむずかる幼子を母親の胸に抱かせて、強制的に鎮めるというニュアンスである。そう解釈すると、2節は静かな心境というよりも、1節の穏やかな生活の内面にある激しさをうかがわせる。
2節の後半が問題である。この部分をどう解釈するのか。詩編の翻訳者たちはかなり苦労をしているように思われる。「わたしの魂は、わたしのうちに憩うています」というように単なる「結果」として述べている。強制的に鎮められた人生の結果、今、静かに過ごしているということを述べているのであろう。あの頃は「母の胸に押し付けられるようにして」鎮められた。しかし今は「わたしの上で」静まっている。

2.父祖イザクの物語
旧約聖書の中に詩131:1を地で生きたような人物を発見した。創世記はアブラハム、イサク、ヤコブの3人の父祖たちの物語を語る。3人のうちイサクは2人の大物父祖に挟まれて影が薄い。いわば「父アブラハムの息子イサク」であり、「イスラエル民族の父ヤコブの父」である。創世記における取り扱いも肩身が狭い思いがするほどで、実際にイサクの生涯を辿ってみても「生まれた」「育てられた」「献げられた」「嫁を与えられた」「井戸を掘らされた」「子供が与えられた」「妻と子どもから騙された」「死んだ」ということに尽きる。そしてそれがほとんどすべて徹底的に受け身の人生である。私はイサクの人生とは「偉大な受け身の人生」であると思う。

3.「偉大な受け身の人生」
そもそも誕生前からイサクは全く生まれてくることを期待されていなかった。もちろん世の中には期待されないで生まれてくる子どももいる。しかしイサクの場合は、期待されていたが生まれないので生まれてくることを諦められた子どもである。アブラハムは85歳、妻サラが75歳の時、彼らの子どもを諦め、サラの召使いハガルを代理母としてイシュマエルが与えられた。アブラハムとサラはイシュマエルを自分たちの子どもとして育てた。
アブラハムが99歳の時(サラは89歳)、天使からサラが子ども産むことを予告される。それを聞いたサラは笑う。天使は笑ったサラを叱り、それでは子どもが産まれたらその子の名前を「イサク」とせよ、と命じる。イサクとは「笑った」という意味である。世の中に、産まれることを笑われた人間は存在するだろうか。まさにイサクは産まれることを母親から笑われた人物である。
もちろん両親はイサクの誕生を喜んだ。しかしだんだん大きくなってくると問題が起こってきた。イサクにとって10歳年上の兄イシュマエルが大好きで、2人はとても仲のいい兄弟であった。アブラハムもそのような息子たちの姿を見て満足であった。ところが母親の目は違った。サラはイサクとイシュマエルとが仲良くしている姿を見て危機感を感じ、イシュマエルと母親ハガルとを多少の路銀を渡して追い出してしまう。イサクにすれば自己の存在の不条理を強く感じたに違いない。私が産まれてきたことがこの親子の運命を決し、特に大好きな兄イシュマエルが家から追い出されることになってしまった。おそらく泣き出したいような気持ちであったろう。子どもながらイサクはこのことをどう思ったのか、聖書は何も語らない。
イサクが年頃になったころ、父アブラハムはイサクの嫁のことを心配しだした。それで父親は息子に何の相談もなく勝手に、信頼できる召使いに「息子の嫁探し」を命じて旅に送り出す(創世記24章)。これはこれだけで感動する物語であるが、ともかく召使いは素晴らしい嫁リベカを見つけ出し、家に連れてきてしまう。リベカもイサクも見た瞬間に相手を結婚相手に決めたという。まぁ、お互いにそれで満足しているのであるから、何も文句を付ける必要はないが、完全にイサクの気持ちは無視されている。聖書はこのことについて興味深いことを付け加えている。「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した」。その時には母サラは既に鬼籍に入っており、天幕の主人はいなかった。そこで「イサクはリベカを迎えて妻とした」。説明は不要であろう。このことに一言「イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」。何のことはない、イサクはマザコンだったのである。
さて、イサクとリベカとの間には双子の息子がいた。一応エサウが兄貴でヤコブが弟である。この2人の間にいろいろと葛藤があり、それ自体が興味深い物語である(創世記25:19-34)。エサウは野山を駆け巡る狩人になり、ヤコブは家の中で家事に励む青年であった。その意味で、イサクはどちらかというと兄のエサウの方を愛し、母リベカはヤコブを愛した。
やがてイサクも老人となり、目が不自由になったころ、少し早めに遺産相続の儀式を執り行っておこうと思い、家族にその準備をするように命じた。儀式にはイノシシの肉が必要であった。早速エサウはイノシシを捕りに山に入っていった。エサウが狩りに出ているスキに母親のリベカと弟のヤコブとがグルになって目の悪い父親イサクを騙して遺産の相続権をヤコブに渡す儀式を行ってしまう。この時もイサクは騙されたままで怒りもせず、文句もいわず、淡々とエサウにもう手遅れだという。
つまり、これまでに見てきたように人間の生涯の重要ポイントでイサクは何も積極的な役割を果たさない。いわば、言われたままに徹底的に受け身の姿勢で生きている。これがイサクの人生である。まさに詩131の第1節が示すとおりの人生「わたしの心はおごらず、高ぶらず、偉大なこと、身に余ることを求めようとしない」ということを地でいく人生である。
イサクの人生における最大の出来事は父アブラハムによって神に献げられる事件である。ここでもイサクはアブラハムの手伝いとして旅に加わったにすぎない。旅も3日目を過ぎ、祭壇のある山に近づいた頃アブラハムは一緒に連れてきた召使いたちを山の麓に残し、2人だけで山を登り始める。イサクは旅を始めて暫くして不思議に思っていたのであろう。薪もある。生贄を献げる道具も揃っている。何もかも全部揃っているのに肝心の生贄にする動物がいない。それを尋ねようとしても父親の態度はいつもと違う。つまらない質問などはねつけるモードである。2人だけになってやっと息子は父親に尋ねる。
<「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」>(22:7-8)
この出来事の中でイサクが発する唯一のセリフがこれである。もっともアブラハムがイサクに語りかける言葉もこれだけである。とたんに父親の方に緊張が走る。いつ飛んでくるかと心配していた鉄砲の弾が飛んでくるように息子の質問はストレートである。父親は腹の中から絞り出すようにして「神さまが備えてくださる」と答える。この言葉はヘブライ語ではたった2語である。「ヤハウェ イエラエ」。
これを聞いてイサクは全てを悟った。悟った上で従った。その時のイサクの心境は言葉では言い表せない。抵抗すれば、いくらでも抵抗できる。父親を殺すことだって可能だ。息子の方にそれだけの体力はある。イサクは淡々と縛られ祭壇の上に横たわる。祭壇の上から神と父アブラハムとのヤリトリを見ている。そこには自分の命を投げ出した男の凄まじさを感じる。弱くて、何も言えないイサクではなく、全てを了解した上で、受け入れ、沈黙する勇気ある男の姿が見える。

これこそ、まさに詩131の第2節前半の生き方である。「本当はいらだっている私の魂を黙らせて、母の胸で安らぐ幼子のように、私は事態を見ている」。神はイサクを殺してでも神に従うアブラハムを見ると同時に、祭壇の上で自己を投げ出しているイサクも見ている。アブラハムも、神が自分を見ていると同時に、息子イサクも自分を見ていることを意識していたことだろう。これが創世記22章のイサク奉献の出来事の真相である。

晩年のイサクのことについて創世記はほとんど何も述べていない。
「イサクの生涯は180年であった。イサクは息を引き取り、高齢のうちに満ち足りて死に、先祖の列に加わった。息子のエサウとヤコブが彼を葬った」(創世記35:28)。
イサクの晩年はこの言葉に全て込められている。

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